まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

余白の理由(1)

「余白」から考える

案内してもらうつもりで待っていると、奥から店員がやって来た。そして、席が空くまでしばらく待つことになると告げられた。店のなかを見渡すと、いくつも空席が見える。満席ではないはずなのに、ぼくは、店の前で待たされることになった。きっと、似たような経験があるはずだ。なぜ、ぼくはすぐ席に案内してもらえなかったのか。空いているのに、埋めることができない、埋めようとしないのはどういう事情によるものなのか。空いているじゃないかと言って、強引に掛け合ってもよかったのかもしれない。
一人の客として向き合っていると、この状況はわかりづらい。レストランという場所は、さまざまな〈モノ・コト〉の連携によってつくられているからだ。たとえば厨房にはシェフがいるし、フロアの担当も、準備や片づけを担うスタッフもいる。絶えず注文の情報が飛び交い、料理をのせた皿が行き来する。客を席に案内する役目には、その移りゆく店内のようすを逐次考えに入れながら、切り盛りすることが求められているのだ。空席があったとしても、店にいる客からの注文で厨房がフル回転しているときには、あらたに客を迎えることは避けたい。しばらく落ち着いてから、準備が整ってからになる。

つまり、空席があるのにぼくが席につけなかったのは、その時、一人の客を受け容れる余裕のない状況だったからだ。それは、すでに食事をしている客たち、当日働いていたスタッフの人数、目に見えない厨房の事情など、さまざまな〈モノ・コト〉のようすから、そう判断されたのだろう。
すぐに席に案内されたとしても、こんどはメニューを眺めたり注文したりするのが遅れたかもしれない。注文できたとしても、すぐに料理が運ばれてくるとはかぎらない。余裕がないとき、「余白」が必要になる。結局のところ、その時のレストランの「キャパ(許容力)」が問題だったのだ。そして、「キャパ」の有無が、店内に入ったときのコミュニケーションに表れたということだ。

どこにでもありそうな、このちいさなエピソードを入り口に、「余白」について考えてみたい。一人でも多くの客にサービスを提供し、レストランの売り上げを増やすという観点で考えれば、できるかぎり空席を減らしたほうがいい。だが、ぼくがしばらく待たされたという(ちょっとした)出来事は、時と場合によっては空席をつくっておくこと、つまり「余白」を残しておくことが、最良な判断になりうることを示唆している。たんに売り上げを伸ばすだけではなく、客の満足度を高めたり、クレームを受け取るリスクを減らしたり、あるいはスタッフへの負荷に配慮したり。さまざまな理由で、しばらくの間は客を待たせて、空席を残しておくという判断になる。

こうした考えをふまえて、自分自身のまわりを眺めてみると、さまざまな形で、「余白」との向き合い方がデザインされていることにあらためて気づく。引き続き、飲食店を例に考えてみよう。冒頭の例とは対照的な、たとえば、いまどきの牛丼屋の「余白」はどうだろう。多くの店はカウンター席だけで、案内されるのを待つ必要はない。空席を見つけて、自分でそこに座るだけだ。店によっては、自動販売機でタッチパネルに触れたとたんに厨房に注文の情報が届く。水やお茶は、セルフサービスだ。店員とことばを交わすこともない。そもそもがファストフードの部類だから、長居する客はあまりいないはずだ。単価は安いかもしれないが、一連のサービスの流れに、ほとんど「余白」は見当たらない。一杯でも多く売るために、「余白」を減らすための工夫が盛り込まれているのだ。このように、とにかく空席を減らそうという方針であるならば、無理がないように回転率を上げればいい。つまりは、効率化である。人件費を節約しつつ、マニュアル化、単純化・自動化などをすすめる。

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ジョージ・リッツアは、こうした一連の合理化の仕組みを、象徴的に「マクドナルド化(MacDonaldization)」と呼んだ。*1「マクドナルド化」は、効率性、計算可能性、予測可能性、そして制御という4つの側面を実現させていることで性格づけられる。客のふるまいが、データとして蓄積されていけば、さらに「余白」との向き合い方が繊細に調整されていくことになるだろう。じつは、それを歓迎する客もたくさんいるのだろう。
当然のことながら、「余白」は空間的な側面だけでとらえられるものではない。席に案内されなかったという出来事のなかには、すでに「余白」の時間的側面がふくまれているからだ。空席がないことは、空間的な状況としてすぐさま観察されるが、じつはその状況がもたらされているのは、調理という過程にかかわる時間的な事情によるものだ。その意味で、「余白の理由」は、空間的・時間的な側面から考えいく必要がありそうだ。

ところで、「マクドナルド化」を推奨して、「余白」を減らすことを目指せばよいとはかぎらない。合理化をすすめて「余白」のない場所ができること自体にも価値はあるはずだが、いささか慌ただしい。素っ気ない感じもする。友だちとおしゃべりを楽しみながら、外の景色に目をやりながら、ゆっくりと食事をする時間も大切だ。そんなときには、急かされることなく、席についてからメニューを眺め、料理がはこばれてくるまでの時間さえも愉しみたい。そのためには、ぼくたちにも余裕がなければならない。そう考えると、「余白」には心理的な側面もあることに気づく。心に余裕がないと、人との接し方にも影響がおよぶ。不要なミスを招くこともある。

ぼくたちの日常生活のなかには、どのような「余白」があるのか。その意味や価値に、どうすれば気づくことができるのか。そして、たとえば一日の時間の流れにどのように「余白」を配置すればよいのか。まずは、身の回りにある「余白」をさがすことからはじめよう。(つづく)

*1:ジョージ・リッツア(1999)『マクドナルド化する社会』早稲田大学出版部

みたび、フーカットへ(4)

Day 4: 2019年2月25日(月)

今朝は6:00に出発。朝8:00の飛行機で、ホーチミンに向かう。いろいろな都合で、けっきょくフーカットでは3日。それでも、なかなか充実した毎日だった。あらためて、あたらしくなった空港のビルをみると、これまでとはずいぶんようすがちがっていた。LCCの乗り入れが増えていて、たとえば、このクィニョン(Quy Nhơn)界隈のリゾートを手がける総合商社が、作秋にあたらしくBamboo Airwaysの運航を開始したとのことだ。ぼくたちが訪ねているのは、内陸の農家や学校だが、海沿いは、国外からの観光客のためのリゾート開発がすすんでいる。空港のビルがこうして整備されているのも、この流れと無関係ではないはずだ。
チェックインを済ませて、ゲートに併設されているレストランで朝食。また、フォーを食べた。ホーチミンへは1時間ほどのフライト。梅垣さん、Chiさん、学生たちとともに、タクシーで市街に移動した。大学1年生のころからなので、ずいぶん長く運転しているが、このまちでクルマを運転することはないだろうと思った。相変わらずの混雑と、バイクの数。Grabも、たくさん見かけた。バイクの後ろの席でスマホをいじるのは、“歩きスマホ”よりは安全なのだろう。


190225_Slowly_HoChiMinh(動画は2019年3月2日に公開)

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ランチの前に、少しだけ、ホーチミン広場の近くをぶらぶらした。地下鉄の工事がすすんでいるらしい。ちいさなお土産を買って、昼食。ずっとベトナム料理だったが、たまには“Western”で、という流れになった。そのあとは、梅垣さん、Chiさんの提案でThe Deck Saigonに向かう。そのレストランは、大きなお屋敷の並ぶ界隈にあった。川を臨む、気持ちのいい空間だった。ぼくたちが行ったのは午後の早い時間だったが、夕陽が沈む頃には、とてもきれいなはずだ。グラスを片手に、川をバックに写真を撮る(まちがいなくSNSに投稿するためのもの)人がたくさんいた。ぼくは、地ビールのホワイトエールを試してみた(その場ではSNSに投稿せず)。

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あっという間に、旅が終わろうとしていた。あとは空港に向かい、ハノイを経由して気温差20度ほどの東京へ。5人でテーブルを囲んでいたが、みんな、のんびりと座っているうちに無口になった。アルコールも手伝ってか、静かな時間になった。ぼくは、ゆっくりと流れる川面を遠くに見ながら、いろいろ考えた。

滞在中には思いつかなかったのだが、このときになって、昨秋に参加したアメリカ人類学会(AAA)でのセッションのことを思い出した。あるセッションのコメンテーターとしてお声がけいただき、話をしたのだが、そのときは日本語の「ままならない」ということばを引き合いに出した。日常生活は、さまざまなハプニングの連なりで、そのなかでいくつもの〈モノ・コト〉が複雑に、相互に影響をあたえ合っている。それを、無自覚に「安定」と呼ぶことはできない。そして、「安定」と呼びたい状況は、じつは絶えず移ろうものだ。結局のところ、一時的に「均衡」を保っているにすぎないということだろうか。「絶妙なバランス」というつもりで“delicately balanced”という言い方をした。この表現は、意外と好評だった。あきらめでも開き直りでもなく、夢や希望がないわけでもなく、ただ目の前にある「ままならなさ」を受け入れて日常生活を送ることには、それ自体、じつは価値や美徳さえあるのではないか。きちんと伝わったのかどうかはわからないが、ぼくが言いたかったのは、そういうことだ。
それが、(いまになって)これまでのベトナムの旅と結びついた。ぼくたちが訪問した家庭は、いずれも「ままならない」状況とともに暮らしている。家計のこと、子どもたちの将来のこと、家族のこと。決して「安定」などと呼ぶことはできない。問題はわかっているし(しかも複合的な問題だ)、どうやらスッキリと解決できそうもない。それでも、毎日は容赦なく訪れる。未来が見えないながらも、喜びも笑いもある。それが、「生きる」ことの姿をリアルに伝えてくれる。

「問題発見」を経て「問題解決」を目指すこと自体、数ある(考えうる)ストーリーのひとつに過ぎない。問題は、もうすでに見えている。当面は、その問題とともに「生きる」しかない。解決が難しい問題をまるごと引き受けながら、どう暮らしてゆくかというところから、フィールドワークを考えていかなければならない。10年という歳月を経て、“Dream Class”の生徒たちも、このプロジェクトとともに成長し変化し続けている。🐸
(おわり)

◎おまけ:今回も、たくさん食べた。毎度のことながら、ベトナム料理との相性はいいみたいだ。

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みたび、フーカットへ(3)

Day 3: 2019年2月24日(日)

日曜日。今朝は、昨日よりもさらに早起きして、6:30に出発。朝ごはんは、ふたたび、クルマのなかでバインミーを食べた。日曜日は、“ドリームクラス”が開かれる日だ。まずは、“Dream Class 1”へ。一昨年、はじめてフーカットに来た時(つまり、はじめて“ドリームクラス”のことを知った時)に訪れたことがある。


あの時は、ちょうどスアンくんの本が出版されるということで、出版記念のイベントも同時におこなわれた。スアンくんも、家からやって来て、サイン会を開いていた。校舎を歩いて、校庭や建物を見たとたんに、いろいろと記憶がよみがえってきた。そう、テレビの取材クルーが来ていたのだった。“ドリームクラス”の試みを、いわゆる「美談」として報じようとしていることが伝わってきて、機材をかついで無遠慮に教室に踏み込んでいくのに嫌悪感をいだいていたことまで思い出した。

あれから、ほぼ2年。教室は、とても賑やかで、いい雰囲気だった。昨日の“Dream Class 4”のような初々しさ(あるいはぎこちなさ)は、まったく感じさせない。年を追うごとに、生徒たちの入れ替わりがあるはずだが、さすがに2012年にスタートしてこれまで続いているだけあって、クラスの雰囲気がいい具合に継承されているのだろう。これは、とても大切なことだ。
なにより印象的だったのは、生徒と教師だけではなく、家族も一緒に教室で過ごしていたことだ。つまり、ハンディキャップを持った生徒と、その「健常な」兄弟/姉妹とが一緒にクラスを成り立たせている。もちろん、両親たちもクラスの一部となって、ともに過ごしている。一昨年と同じように、なかなかのカオスな感じだが、明るい。明るいのは、そして笑顔がたくさんあるのは、とてもいい。

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今回は、教室に入って、生徒たちのようすを眺めた。前回は、躊躇して(ちょっと戸惑ってビビっていたということだ…)、〈外側〉から見ていたのだが、少しは進歩があったのだろうか。当時のブログ(2017年3月12日)を読み返してみた。初めて訪れた日について、こう書いている。

じつは、昨日もきょうも、ぼくは“Dream Class”のようすを外から眺めてはいたものの、「教室」のなかには一歩も入らなかった。入ることができなかった、と言ったほうが正しいのかもしれない。それは、ぼくがまだ〈外側〉にいるということだ。プロジェクトの成り立ちや意義は、少しずつわかってきた。子どもたちの家庭のようすもじかに見ることができたので、フーカットでの暮らしも、そして、ハンディキャップをもった子どもたちのことも、身体で理解しはじめていた。だが、今回は「教室」のなかには入らないことにした。もちろん、テレビ局のカメラマンの乱暴さには閉口気味だったが、同時に、「教室」にいる子どもたちからすれば、ぼく自身もさほど変わらない存在のように思えたからだ。(2017年3月12日のブログから)

 続いて、“Dream Class 3”へ。ここは、初めてだったが、まだ歴史は浅いみたいだ(※あとで確認)。担当の先生が、クラスの運営にかなり意欲的で、生徒がじぶんでその日の活動をえらべるようなやり方を試しているそうだ。教室の後ろにはロッカーがあって、そのなかに画用紙やクレヨン、絵の具などが収められている。みんなは、そのやり方を理解しているようで、ときどき、そのロッカーに行っては道具を入れたり出したりして、何をするかを決めていたようだ。

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つい先ほど見た“Dream Class 1”にくらべると、ものすごくおとなしい。生徒どうしの会話もほとんど聞こえなかった。先生やボランティアでかかわっているメンバーも、教室を回りながら個別指導をしているふうで、なんだか覇気がない。おまけに、(これはみんなが気にしていたことだが)教室の前方にあるディスプレイではアニメが流れていた。クラスが静かだから、アニメの音で少しでも賑やかにしようということなのだろうか。生徒たちは、ディスプレイを眺めながら絵を描いたり、ちいさな人形に色を塗ったりという感じで、むしろ集中力を奪われているように見えた。ただでさえ、飽きっぽいはずだ。なかには、じぶんの手元を見ずに色を塗っている生徒もいて、思わず苦笑した。

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“Dream Class 3”の先生がたと一緒にお昼を食べて、ひと休みしてからスアンくんの家に。じつは、スアンくんの2冊目の本が出版されたのだ。Chiさんが、できたばかりの本を手渡す。1冊目はイラストがたくさんあって、マンガとまではいかないものの(アメコミふうではある)、ことばがわからなくてもなんとなくストーリーを想像できた。2冊目は、判型も少しちいさくなって、テキストが主体だ。まずは、本を買い、サインをしてもらった。

いろいろ、変化があった。家の周りはこぎれいになっていて、放置されていた(ように見えた)畑にはピーナッツが植えられていた。どうやら、新年のお祝いのタイミングで、あちこちが整えられたみたいだ。部屋には、扉のついた立派な本棚が置かれていて、本がたくさん並んでいる。去年、ぼくがプレゼントした『うめめ』は、表紙が見えるように飾られていた。
なにより、スアンくんが1年間でずいぶん大人になったようだった。これまでは、あまり会話が続くという感じではなかったが、ごく自然にやりとりができる。もちろん、想像力をはばたかせて、あれこれと思いを巡らせる日々は続いているはずだが、相手の反応を見ながら話がすすむ。学生たちは、スアンくんを囲むようにして座り、1時間ほどおしゃべりをしていた。笑い声もあって、いい雰囲気だった。

明朝、早い便でフーカットを発つので、ふり返りを終えてから荷づくり。あっという間だった。(あとで加筆)(つづく)

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みたび、フーカットへ(2)

Day 2: 2019年2月23日(土)

きょうは早起き。後半で合流したぼくにとっては2日目だが、プロジェクトとしては、もう終盤を迎えつつある。7:30に宿を出発。クルマのなかでバインミーをほおばっているうちに、目的地に到着した。きょうは、まず“Dream Class 4”を見学するためにキャットハン地区(Cát Hanh)まで来た。この4校目は開いたばかりで、まだ2週目とのこと。いろいろな意味で、初々しい。というより、ちょっとぎこちないようす。生徒もその保護者たちも、そして教員さえもが、なんとなく不慣れな感じで教室に集まっていた。

しばらくして、Red Crossの面々がやって来た。いよいよ開校したというので、「正式」に書類にサインをして取り交わすという儀礼的な時間が設けられていた。もちろん、〈はじまり〉(そして、ひとまず5年間続けるという合意)なのだから、節目を意識しておくことは必要だと思うが、どうやら慣れていないことによる初々しさにくわえて、この形式ばった時間が、全体の雰囲気をつくっていたのかもしれない。それは、机やイスの並べ方にもわかりやすく表れていた。机は横長に並べられ、生徒と教員が座り、いわゆる「お誕生日席」と呼ばれる奥の席にRed Crossの担当者と梅垣さんが並んで座った。
そこで、スピーチがあり(おそらく、クラスの生徒たちには小難しくて、それほど関心をいだくような内容ではなかったはず)、それを受けて、“ドリームクラス”の創設者である梅垣さんが返礼しつつ、メッセージを伝える。そして、「合意書にサインしているようす」と「にこやかに握手をしているようす」が写真に撮られる。プロジェクトの記録という意味でも、この儀式そのものには何も問題はないと思うが、このおかげで、ごく自然にきょうの授業の流れが方向づけられてしまったように見えた。Red Crossの人びとと、さらにぼくたちも来訪するということで、教員たちはいつも以上に「教員らしく」ふるまおうとしていたのだと思う。だから、生徒たちもそれに合わせて「生徒らしく」することが求められてしまう。教室の机やイスは、クラスメイトどうしの交流・交歓には窮屈な配置のままだった。

「学校」という仕組みは、思っている以上にぼくたちのふるまいに強くはたらきかけてくるのだろう。ハンデキャップのある生徒たちのためのプロジェクトであるからこそ、できるかぎり「ふつう」に近づくように授業を構成することが目標になる。じつは、そのことが、一人ひとりの個性を見ようとせず、「ふつう」という凡庸な基準で生徒たちを評価することへと向かわせる。

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そのあとは、家庭訪問。“ドリームクラス”に通っていたという青年が、最近、結婚したという。いま「通っていた」と書いたが、“ドリームクラス”には、いわゆる「卒業」はない。そもそも、一人ひとりの年齢も事情(ハンデキャップの種類や度合い)もちがうので、じつに多様な生徒たちの集まりだ。それは、「ふつう」の学級のように、あらかじめ決められている学修を終えたら「卒業」する/できるという仕組みにはなじまないものだ。もし「卒業」と呼ぶべきタイミングが訪れるとすれば、クラスに通うことをとおして(多少なりとも)社会的なかかわりをもち、関係を変えてゆくことを知り、自律的に動けるようになった時だろう。つまり、“ドリームクラス”が、もう必要なくなる時が「卒業」だ。
新婚であるから(しかも、子どもを授かったという)、もちろん幸せそうだ。だが、日常生活のさまざまなことを、家族が面倒をみている。いろいろな理由は想像できるものの、ずいぶん過保護な感じだ。そのあまりにも無垢な(イノセントな)感じが、少し心配にさえなる。後述するが、(皮肉なことに)“ドリームクラス”の愉しさや居心地のよさが、実質的な「卒業」を遠ざけているのかもしれない。話のなかで、彼はじぶんの所帯を支えていくことに不安を感じていると言いながら、依然として“ドリームクラス”には顔を出しているらしい。

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ゆっくりとランチを食べて、もう一軒。昨日、このメンバーでの活動は「グループワーク」のようなものだと書いたが、その観点からすると、少しずつ学生たちの連携が上手く行きはじめているように見えた。明確な役割分担が決められているわけではないのに、なんとなく、全員で状況を確認しながら会話がすすむ。複数のメンバーで訪問することの強みは、ことなる視座を認めながらも、お互いの行動を補完し、みんなで状況の理解を試みることができる点にある。メンバーが途中で合流したり、あるいは先に現場を去ったりということもあるので、「固定メンバー」ではなく、即興的にその時・その場でのふるまいを考えて協調的に動けるようになるといい。

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そして、晩ごはんを食べてから、ふり返りのセッション。いろいろと面白い論点があった。今朝、見に行ったのは、数週間前に開校したばかりのクラスだったが、“Dream Class 1”は2012年にスタートしている。つまり、その歳月の分だけ、生徒たち(かつての生徒たち)は変化しているということだ。あたりまえだが、たとえ長く続いていることで経験が蓄積されているとしても、すべてはあたらしい。クラスが続くかぎり。人と長くかかわるということは、つねに未知の出来事に向き合うということだ。だから、想像力や寛容さが求められる。

きょうの家庭訪問をふまえて感じたのは、“ドリームクラス”のインパクトだ。事情はことなるが、きょう訪ねた二人は、クラスが愉しかったとくり返していた。「卒業」することなく、いまでもかかわっているという(クラスへの精神的なつながりの強さは、うかがい知ることができた)。これは、“ドリームクラス”が成功したことの証だ。つまり、彼/彼女らの人生に大きな影響をあたえていることは、まちがいないのだ。そのいっぽうで、“ドリームクラス”の佳き思い出が、無垢な頃(無垢でいるだけでよかった頃)へと引き戻してしまうのかもしれない。そう思った。もちろん、プロジェクトが、着実に続いてきたからこそ、こうした気づき、考えてゆくべき課題が見えてきたのだ。(つづく)

みたび、フーカットへ(1)

Day 1: 2019年2月22日(金)

少しずつ春めいてきてはいるものの、まだ朝晩は寒い。銀座1丁目の界隈で、寄附講座の「お疲れ様会」に参加して、「このあとの予定がありますから」と言って中座した。22時過ぎになって「このあとの予定が…」などと、みなさんに妙な印象をあたえてしまったかもしれないが、メトロの駅のコインロッカーからスーツケースを取り出し、羽田空港に向かった。
最近は、深夜便がずいぶん増えたのだろう。空港の出発ロビーは、思っていたよりもたくさんの人で賑わっていた。ぼくが乗る便も、日付が変わって1:30発。

機内では、よく眠った。「お疲れ様会」で飲んで食べて、そして深夜だったので、もう寝るしかなかった。朝食をはこぶ音で目覚めると、あと1時間ほどで到着するというアナウンス。寝ているあいだに、銀座1丁目から、4,000キロほど移動していた。
朝6時。無事にホーチミンに到着。昨年、一昨年に続いて3度目のベトナムだ。いきなり、湿度につつまれる。国内線のターミナルに向かうまで、わずか数分歩いただけで、汗ばむ。ここで数時間の待ち合わせをして、フーカット(Phù Cát)に向かう。ひとまず、フォーを食べてひと息。通貨の単位がちがうとはいえ、一杯に95,000(ドン)という値段が記されていると、ちょっと怯んでしまう。(日本円にすると450円くらい。空港の店だから、まちなかで食べるより高めのはずだ。)

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ホーチミンからのフライトは、窓側のシートにした。一昨年、初めてフーカットに向かったとき、窓の下に大きく広がる緑が印象的だった。また、それを眺めようと思った。1時間ほどで降下。およそ1年ぶりのフーカット(クイニョン)の空港は、あたらしい建物(去年は工事中だった)がオープンしていた。梅垣さん、Chiさんたちに迎えてもらい、宿に向かう。学生は4名。食事をしたあとは、家庭訪問へ。3年目ともなると、ちょっとした懐かしさを感じるようになる。おなじ宿、おなじ店で、おなじものを食べる。少しずつ、記憶が戻ってくる。一昨年から、毎年この時期にここを訪れているが、その経緯や内容については「フーカットで考えた。(2017)」「ふたたび、フーカットへ(2018)」に雑記がある。

ぼくが、学生たちとともに日本の各地を巡っている「キャンプ」の試みは、どちらかというと〈広げること〉に関心が向いているので、いくつかのケースを除くと、だいたい1回かぎりの訪問だ。標準的には2泊3日、1回だけの逗留で何をするのか。滞在中に、できること/やるべきことを考えて実践するのが、「キャンプ」という呼称にも込められている。だから、「キャンプ」ではいつも慌ただしく過ごすのだが、フーカットにかんしては、ちょっとちがう。そもそもプロジェクトがはじまって10年目くらいのタイミングから、いわば「オブザーバー的な」立ち位置で参加しているので(しかも途中から合流)、気楽であることにくわえて、おなじフィールドに通い続けることに考えが向く。“Dream Class”という場をつくり、人びとの成長や変化につき合ってゆこうというプロジェクトなのだから、〈続けること〉について、長い時間をかけて考えてみる必要がある。

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あらためて、訪問先での状況はつねに移ろうものだと実感した。話の流れのなかで、ある質問が母親の感情を激しく揺さぶる場面があった。彼女が涙を流すと、すぐさま二人の息子たちが反応して、(別々にではあったが)母親の傍らへと向かった。それは、ごく自然で、本能的な動きだったように見えた。そのようすから、どのような意味や背景を読み取ることができるのか。ぼくたちが訪問する家庭の事情は、想像している以上に複雑なはずだ。そもそもが「抜き差しならない」状況であることはまちがいないのだ。やりとりについては、いちど英語に翻訳してもらうなかで、その細やかなニュアンスは失われるし、そもそもすべてのことばがそのまま訳されるわけでもない。そして、すべてが語られているはずもない。だから、じぶんの「気づく力」が試されているような気持ちになる。

晩は、ニンの家でごちそうになった。ここ数年、この季節に一度会うだけだが、彼の勤勉なようすは変わらない。それは、家の周りがていねいに整えられていることからもうかがえる。ぼくたちの姿を見ると、さっそくココナッツジュースをふるまい、机と椅子を並べて、食事の用意をはじめた。ピーナッツの畑には、スプリンクラーが取り付けられていた。長女が間もなく結婚するというので、豪華な家具(いわゆる応接セットや食卓セット一式)が置かれていて、いかにも日々が充実しているというふうで、終始、にこやかだった(少なくとも、そういう姿に見えた)。いわゆる「インタビュー」ではないが、お茶を飲みながらの「おしゃべり」はいろいろなことを知る手がかりになる。ときおり、Chiさんがやりとりを英語にしてくれるのだが、何を話しているか、なんとなく見当がつくような気もする。ことばがわからない分だけ、表情や声色、ちょっとした仕草に敏感になるのだろう。

そして、宿に戻って、一日のふり返り。銀座での集まりからここまで、長かった。ここで日差しをたっぷり浴びたので、いまにも寝てしまいそうだった。だが、このふり返りの時間は、とても大切だ。やはり、ぼく自身は、調査のしかた、人とのかかわり方に関心が向くようだ。きょうの午後は、学生が4名、そして梅垣さん、Chiさん、ぼくという7名で動いた。つまり、これは「グループワーク」として考えるのがよい。学生一人ひとりは、それぞれのテーマを持っているので、今回の滞在をとおして、いろいろなヒントに出会おうとしているはずだが、ともに過ごし、それぞれの立場から訪問先の体験を持ち帰っているのだ。 それを、いきいきとした知恵に変えていくためにはどうすればいいのか。眠そうな眼をしていたかもしれないが、じつは、あれこれと真面目に考えていた。(つづく)