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まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

師匠は「考えるな、感じろ」と言う(5)

Day 5: 見せる・語らう

2015年3月4日(水)

朝は、お粥か、あるいは"香港風"で、けっきょく"西洋風"のハム&エッグは一度も食べなかった。さすがにユースホステルの「食券」にはちょっと飽きてきたが、ずっと規則正しく過ごした。昼は、CityUの飲茶が一番豪勢だった(しかもCYEPのご厚意で、ごちそうになった)。あとの二日は、ドタバタと作業をしていたのでカフェの簡素なメニューで済ませた。晩は、まちに出かけて美味しいものを食べた。味はもちろんのこと、店に行くまでの雑踏の音やにおいが、それぞれに印象ぶかい。どれも個性的だが、2日目の晩にジョイスの案内で行った潮州料理の店(の薬膳鍋ふうの料理)は、とてもよかった。アルコールは、ナイトキャップ程度にほんの少々。カールスバーグ→青島→青島→1664(Blanc)。

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最終日。ぼくもふくめ、何名かの学生は昼過ぎの飛行機に乗ることになっていたので、やや慌ただしいスケジュールだ。だが、いつものとおり「終わり」こそが大切。チェックアウトを済ませてからみんなでCity Universityまで歩き、3日前とおなじ教室にみんなが集まった。

今回は、11枚のポスターをつくった。香港のまちなかで、A2サイズで出力されたものだ。さっそく、ひとり一人、じぶんがつくったポスターをみんなに見せながら、ペア(グループ)を組んだ相手のことをどのように理解し、何を考えてポスターをつくったのかを語った。原稿を読み上げるというスタイルだったが、すべて聞きやすかった。しゃべることがなくなって、決められた時間を持て余すこともない。それは、ポスターを届けるべき相手の顔が、はっきりと見えていたからではないかと思う。学生たちの英語力は、まだまだ伸ばす必要があると思うが、きっと、何をしゃべろうかと思案に暮れながら、英語の原稿を準備していたのだろう。それに費やした気持ちは、きっと報われる。

自らの直接体験を語ろうとしてことばをさがすとき、大切なのは「考える」ことではなく、「感じる」ことなのだ。目を見ればわかることも、しぐさが伝えてくれることもある。だが、ことばにならないことがたくさんあることを思い知りながら、それでも、ことばをさがす。

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全員がプレゼンテーションを終えてから、ジョイスがつくった「ダイジェスト ビデオ」(初日から4日目まで)*1を見て、この数日をふり返った。みんなも気づいたと思うが(あるいは、ぼくのだけの都合のいい解釈かもしれない)、プレゼンテーションとビデオをとおして、Dr. Elaineの「スイッチが入った」ように見えた。講評をお願いしたら、さらにいきいきと、ポスターのこと、ぼくたちのすすめている「キャンプ」という活動のことを語ってくれた。印象的だったのは、一人の個人と、その文脈となる(社会的な)背景が、一枚のポスターに同居しているという話だ。手前にいる一人の学生は、個人的なことがらを目の前にしながら、自由や個性を求めて香港の日常を過ごしている。背景にある香港のまち並みや灯りの煌めきは、その個性を許し、成り立たせるための仕組みや規範を映しているのではないか、と。

ぼくたちがつくるポスターは、鏡のようなものだ。ポスターの「なかの人」にとって、紙に定着しているのは、じぶんの姿であることはたしかだ。だがそれは、どのように「見られているか(見られたか)」の表れだ。だから、これまで見えていなかったじぶんに出会うことにもなる。ポスターという鏡に映るのは、(じぶんの予想や期待を裏切ることもあるが)他者の目をとおした、ありのままのじぶんの姿だ。いっぽう、ポスターをつくった学生にとっては、そのポスターを仕上げるために、相手の日常生活のほんの一瞬を切り取り、語るためのことば(今回は英語や広東語)をさがした、つくり手としてのじぶん自身の記録だと考えることができる。直接は見えないが、ポスターには、つくり手の姿もくっきりと映り込んでいるのだ。

そして、最後はみんなで記念撮影。無事に終わった開放感、そして、さらにもう一歩お互いに近づいたという実感。ぼくは、余韻に満ちた教室に未練を感じながら、空港へ急いだ。ありがとう。再見。

(おわり)

*1:最終版は近日中にアップする予定