まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

フーカットで考えた。(2)

Day 2: 2017年3月10日(金)

フーカットで目ざめる。7:30ごろにホテルを出て、朝ごはん。ごくふつうの目玉焼きでも、パクチーをのせて甘口の醤油をかけるとベトナムふうになるのだと、勝手にわかった気になる。添えられるバケットは、ちょうどいい大きさと堅さで、たくさん食べた。

まずは、午前中に一軒。昨日に続いて、家庭を訪問する。鉢植え(大きな盆栽)、犬小屋、オートバイ修理の部品や工具。道路に面したアプローチから、部屋のなかに入るまで、じつにたくさんのモノが、〈ここ〉での暮らしをかたどっている。昨日とは、ずいぶんちがう赴きだった。

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インタビューが終わってホテルに戻ると、テレビ局の取材チームが待っていた。2012年の秋にはじまった“Dream Class”の取り組みを対象にした、ドキュメンタリーを撮りたいのだという。マスメディアに注目されるのは悪いことではないが、プロジェクトの主旨や活動内容を「正しく」伝えてもらわなくては困る。ぼくは、梅垣さんとチーさんが、プロデューサーやカメラマンと話をしているのを傍らで聞いていた。不思議なもので、ベトナム語は全然わからないにもかかわらず、どのような会話なのかはなんとなくわかる。
ぼくが、フィールドワークの取材を受けるときにも、ストレスを感じる場面があるが、おそらく似たような状況なのだろう。多くの場合、「彼ら」は、あらかじめ撮りたい「画」を思い描いて取材にやって来る。そして、欲しい「画」のためには、いささか乱暴な要求をすることもある。なにより、大げさな機材をかついで出入りすることになるので、現場の雰囲気は、ふだんと大きく変わってしまう。だから、あらかじめこちら側のねらいをしつこく伝えつつも、「彼ら」を受け容れる。実際にどうなるかはわからないが、うまい案配で取材がおこなわれることを願う。

ランチのあと、午後は、さらに2つの家を訪ねて話を聞いた。テレビ局のクルマは、ぼくたちのクルマを追うように、あるいは先回りするように動きはじめた。

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ところで、今回のフィールドワークの面白さは、(加藤研ではなく)梅垣研の学生たちのふるまいを観察できるという点だ。いつもは、まずは事前の準備や調整で忙しい。フィールドワークがはじまれば、中心的に動くのは学生たちなので、いくらか楽な気分になるが、それでもプログラムの担当者であり責任者であるという立場なので、つねに緊張がともなう。〈ここ〉での無責任な立場は、じつは特別だ。「学生」は、どこでも似たようなものだな、と(加藤研の面々を思い浮かべながら)ちょっと安心したり、あるいは梅垣研の「文化」ともいうべき暗黙の了解や、やりとりに感心したりする。ついあれこれ言いたくなってしまうのを、なんとか飲み込む。今回のフィールドワークで、ぼくは、一番の「よそ者」なのだ。

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フィールドワークの現場は、事件(ハプニング)に満ちている。事前の思惑や期待が裏切られることは、少なくない。だから、ぼくたちの即興的な判断によって、目の前に現れる不都合や不具合に、そのたびごとに向き合わなければならない。つまり、みんなで「なんとかする」という精神が求められるのだ。これは、(どうせ思うようにすすまないのだから)事前の準備や調整が不要だということではない。むしろ、準備や調整をていねいにすすめていればこそ、裏切られること、予期せぬことに上手く向き合えるようになる。そして、状況しだいでは、計画を変更したり中断したりという判断も求められる。
これは、あらかじめ撮りたいと決めていた「画」に執着するのとは、本質的にちがう。現場は、人びととのかかわりのなかでつくられてゆくものであって、絵コンテやシナリオで動いているわけではないと考えているからだ。すでに頭のなかにある「画」を撮りに行くのではなく、いわば「無防備」で現場に出かけて、身体で感じたことを頭のなかに送り込む。それが、あとから「画」や「ことば」になる。🇻🇳

(つづく)