まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

場所の時間

上野動物園は、奇妙な形をしている。インターネットで検索して、「園内マップ」を見ればすぐにわかる。動物園は東西に分かれていて、それを、通路がつないでいるような格好だ。園内を歩いているぶんには、あまり気になることはない。なにより、動物たちに気持ちが向いているので、動物園そのものの形状など、大したことだとは思わないのだ。あるセミナーで、この不思議な形は、じつは東照宮を囲むかたちで動物園ができたからだという話を聞いた。なるほど、と思った。

まずは、見晴らしのよい、高いところに建物ができる。*1時間の流れとともにその建物が駆逐されるなら、おそらく山の頂に、また何かが建つことになるだろう。だが、山の上が、東照宮のように、簡単に変わり得ない場所になってしまうと、それを避けて、取り囲むようにつぎの「計画」が実施されるのだ。つまり、上野動物園は、昔の時間を取り囲むように、上野の山に寝そべっている。「地層」ならぬ「時層」が、露出しているということだ。*2園内が奇妙な形をしているのは、今と昔をつないでおくための方策だったのだ。

新しい年になった。諏訪さんとのまち歩きも、ちゃんと月一回のペースで続いている。寒い日だった。まちは、まだお正月の雰囲気で、道行く人の姿はまばらだった。

「やはり、高い所は見晴らしがよかったのだろうな…」と、ぼんやりと考えていた。上野の山ほどでなくとも、人は高いところに向かいたい気持ちになるようだ。だが、その「高まり」へと向かう気持ちは、上手く説明できないことがある。緩やかな上り坂だと、あまり行く気にならない*3のだが、逆に、な階段だと、(疲れるだろうとやや躊躇いながらも)足が向く。*4山の上は目指したいのだが、そこに至る道のりは、さまざまだ。

地図は片手に持っていたが、いつもにも増して、彷徨いの感覚が強かった。このあたりには、寺がたくさんある。地図を見れば、その名前や記号が記されている。*5まちを歩いていると、なぜだか寺や神社に引き寄せられてしまうのだ。

ぼくたちは、すでに水路の痕跡を求めることに楽しさを感じはじめていたが、同じように、人びとが集った痕跡*6をさがしていた。

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まちを歩いていて、こんもりと茂る緑が見えたら、それは、神社や寺かもしれない。ぼくたちは、吸い寄せられた。境内は整然としていて、手入れが行き届いているように見えた。大きな銀杏の樹が二本。樹齢は300年と書いてあっただろうか。

銀杏の樹を見上げたら、空しか見えないような、そんな時間があったにちがいない。もちろん、幹はもう少し細かっただろう。いまは、銀杏の背景にはマンションが見える。背の高い建物が、この寺の周りを囲みつつあるのだ*7あいにく、高い場所ではないので、ここから見える空は、どんどん小さくなっていくしかない。

銀杏のまわりには、まちがいなく、昔の時間が流れている。本堂のほうは、改築工事がすすんでいるようだった。

「なんか、境内は落ち着くね」と諏訪さんが言った。

「そうですね」

としか答えようがなかったが、実際に、こぢんまりとした、品のある場所だった*8決して広いとは言えない空間だったが、まちにとけ込んでいて、これからも、銀杏の樹とともに「時層」が守られていく場所だ。

わずか数十メートルの参道を逆戻りして、広い通りに出た。クルマは少なかったが、まったくちがう時間の流れに向き合うことになった。敷地が狭いせいか、ひょろ長いマンションが林立している。

よく言えば、デザイナーや建築家に、さまざまな冒険を許している、ということになる*9大胆な、都市景観の設計だ。悪く言えば、秩序のない風景だ。マンションが建つたびに、静かに露出していた、いくつかの「時層」が、消されてしまったにちがいない。ひとつひとつは、面白い意匠として評価できるかもしれないが、二本の銀杏の樹を見上げたあとだった。

あまりにもバラバラな風景を嘆きつつ、写真を何枚か撮った。

寒さに耐えられず、この日のまち歩きは、二時間で終えることにした。坂の途中に蕎麦屋があったので、暖簾をくぐった。

「やはり、まちには品格が必要だ」

「あのマンションは、ひどいね」

「きょうは、本当に寒かった」

「この時間から呑んでも、いいよね?」

「まだ三時半くらいなんだけど」

諏訪さんは日本酒を、ぼくは焼酎を頼んだ。じつは、諏訪さんと呑むのは、これがはじめてだった

いつも、二人ともボイスレコーダーを身につけて、まち歩きの様子を録音している。二人の会話はもとより、ちょっとした気づきや、ため息など、ぼくたちの、まちとの関わりを記録しておくためだ。後で聞いてみると、まちの音も一緒に再現されて、臨場感があってなかなかいい。簡単な、タイムトラベルのようなことになる。

ボイスレコーダーは、歩き終えて、その日をふり返る時間も電源を入れたままにしておく。諏訪さんが、マイクを付けたまま、トイレに立ったので、ソノあいだも録音が続いているのだな…などと、想像しそうになって、慌ててかき消した。

店に入ったときには、まだ日が高く、ブラインド越しの光がまぶしかったが、いつの間にかすっかり暮れていた。

●この文章は、数年前に同僚の諏訪さんとすすめていた「まち観帖」プロジェクトのなかで綴られた「まち観がたり」の一篇です。フィールドワークをとおして獲得した〈ことば〉(まち観の型ことば)に裏打ちされた、セミ・フィクションです。

参考

  • 加藤文俊・諏訪正樹(2013)「まち観帖」を活用した「学び」の実践 SFC Journal, “学びのための環境デザイン” 特集, Vol.12, No.2, pp. 35-46.
  • 加藤文俊・諏訪正樹(2012)フィールドワークのための身体をつくる:「まち観帖」のデザインと実践(第39回研究発表大会梗概集, pp. 68-69)
  • 諏訪正樹・加藤文俊(2012)「まち観帖:まちを観て語り伝えるためのメディア」人工知能学会第26回全国大会,2P1-OS-9b-6

*1:自らの目線を高いところにおいて、まちを俯瞰することは、私たちの自然な欲求だろうか。当然、家をどこに構えるかを決める判断にもなる。興味ぶかいのは、高低差のなかに時間の流れが見えるかもしれないという点だ。アクセスの善し悪しについても考えてみたい。居場所を決めることは、(たんによい眺めを求めるだけではなく)人びととの関わり方を選択することでもある。

*2:今昔の視点でまちを観ることの基本のひとつが、時間的な変化を〈いま〉どうやって慮るかという点である。じつは、まち観の方法が身体化されてくると、まちのいたるところに、〈むかし〉が露出していることに気づく(まち観の型ことば1を参照)。型ことばのカードでは、神社・寺が例として挙げられているが、他にもさまざまな手がかりとなるモノ・コトがある。

*3:まちを彷徨うとき、まちの風景が、私たちに語りかけてくる。たとえば上り坂を目の前にしたとき、道路の幅、そして傾斜は何を語っているだろうか。わかりやすい道は、おそらく退屈さを喚起する。わかりにくさは、ストレスになるだろう。不思議なバランスで目の前に現れる風景は、私たちの冒険心を刺激する(まち観の型ことば30を参照)。

*4:たとえば二人で歩いている場合には、まちの歩きかたは、パートナーに影響を受ける。お互いを理解し、身体感覚が養われていくことはあるが、それ以前の段階で、直感的な判断が一致することもしばしばだ。階段の向こうに何があるのか。それが気になって上ったことがある。冒険心をかき立てる風景がある(まち観の型ことば36を参照)。

*5:まち観のスピリットは、現場で学ぶことにあるが、事前に地図を見ておくと、その体験が豊かになることがある。地図を眺めて、面白そうな場所への手がかりを探そう。たとえば地図記号は、まちに散りばめられたさまざまな機能を俯瞰できる。何かの気づきがあるだろうか(まち観の型ことば10を参照)。

*6:コミュニティ感という概念も重要だ。たとえば水路を挟んで、人びとはどのように交流していたのか。あるいは、道に沿ってどのように集落の連なりがつくられていたのか。つながりかた・広がりかたを感じることで、今昔の目線が育つ。たとえば、まちの型ことば7を参照。

*7:まちの景観は変化している。だが、まちを歩いていると、時間の影響を受けずそのままの状態が保たれている場所もある。神社・寺の境内は、それを感じることのできる場所になるはずだ(まち観の型ことば6を参照)。

*8:当然、まちにも品格がある。それは、物理的な空間としての設計だけでなく、人びとの「手入れ」の具合によって感じられるものかもしれない。つまり、私たちは、モノの状態を観察しながらも、それに関わった人びとの痕跡を認知しているのだ。植栽の手入れや地面のゴミなど、わかりやすい手がかりはたくさんある。

*9:変化しない場所もあるが、過去の風景をイメージできないほどに、大きく風景が改訂されている場所もある。この日のまち歩きでは、奇妙なデザインのマンション・ビルが目立った。まるで実験をしているかのように見えた。デザインの善し悪しは、外観の好みで語ることもあるが、やはり歩きながら風景を味わうこと、ひとつの連なりとしてまちを認識することをふまえると、ある程度の秩序は欲しいものだ(まち観の型ことば47を参照)。