まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

えらび、えらばれる。(3)

他人から見たじぶん

ここのところ、「えらび、えらばれる」という関係について考えているが、学生たちは、どのように教員をえらんでいるのだろうか。まずは、専門領域で探すのだろうか。ウワサや評判も耳にするだろう。直感的にえらぶこともあるはずだ。いろいろな場面で公開される「プロフィール」に書かれているような、経歴(何を学んできたのか)や業績(どのような仕事をしているのか)といった情報は、えらぶさいの大切な手がかりになっているにちがいない。SNSへの投稿にも、おのずと人格はにじみ出る。多様な情報を集めてつなぎ合わせて、ぼくたちのイメージがつくられる。「えらばれる」という立場を意識すると、じぶんがどのように理解されているかに関心がおよぶ。

例の課題では、(仮想の「アドバイザリーグループ」を構成する)教員たちの名前を挙げるだけでなく、その理由も簡単に記してもらうことにした。それを読めば、ぼくに対して(あるいは「研究会」に対して)何を求めているのかをうかがい知ることができるはずだ。回答の内容を、整理してみた(提出された文章を抜粋し、一部書き換えてある)。

  • 「場づくり」にかんする知識と経験
  • 「卒プロ」の設計・卒プロの実現(実施)
  • 定性的調査研究の進めかた研究の他者への見せかた・伝えかた
  • プロジェクトの面白さを見つける着眼点
  • 成果物への意識記録とプレゼンテーション(共有)
  • 個別具体的な経験から人びとや都市のありかたを考える
  • テーマ選び(あたりまえのことに気づく)
  • 人に伝えることへのこだわり
  • コミュニケーションとおして形成される場所について考える
  • 観察・記録する力を身につける
  • 自分自身の表現方法や自分のスタイルについて考える
  • フィールド調査の実践
  • ワークショップの設計・実践
  • 卒プロの指導方法や研究会の運営スタイル
  • 手法と表現
  • 社会への問題提起
  • フィールドワークや概念的整理
  • 定性的な方法(観察と記録)
  • コミュニケーション・場づくり・参与観察
  • コミュニケーションへの多角的・実践的アプローチ
  • 研究の個性・研究の社会性を際立たせる

2019年12月:学生からの回答(抜粋, 一部改訂)


なるほど。ぼく自身が、シラバスをはじめ「プロフィール」などに載せている内容は挙がっているようだ。「コミュニケーション」や「場づくり」など、関心を寄せている領域も、「フィールドワーク」や「定性的調査」などの方法にかんするキーワードも書かれている。思っていたよりも多かったのが、研究会(ゼミ)の運営方法をはじめとする、いわゆる「教授法」だった。
全員が、少なくとも一学期間は、ぼくの「研究会」で活動したので、これは一人ひとりの経験にもとづくコメントだ。なんとなく、専門にかかわる内容が少なかったという印象だが、それでも、このリストに並んでいるのが、ぼくに期待されていることなのだ。それは、〈他人(学生)から見たじぶん〉だ。

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〈じぶんから見たじぶん〉と〈他人から見たじぶん〉は、ちがう。〈じぶんから見たじぶん〉には、願望や理想も表れる。見栄を張ったり、少しばかり誇張したりもする。〈他人から見たじぶん〉は、もちろん素直に受け入れるべきだと思うが、情報不足や誤解・誤読がふくまれているかもしれない。
たとえば、8年ほど前から友人とともにすすめている「カレーキャラバン」というプロジェクトがある*1。この試みについて本を書いたり、話をしたりする場面はあるが、じつは「本業」とは区別して、ひとつの趣味として位置づけている。(実際のところは、活動を始めて数年後にこの活動を事例に学会発表をしているので、少しずつ「本業」との接点を考えてはいるが。)

数年前、富山県のまちでカレーをつくったときのようすが、地元の新聞記事になった。じつは、直接、取材を受けた記憶はない。活動しているぼくたちに声をかけることさえせずに文章が綴られ、「キャラバンで慶大生が提供」という見出しで記事になった。そのときは、同じ時期に学生たちのフィールドワークもおこなっていたので、たしかに学生たちの姿はあった。でも、学生たちは地元の人と同じ列に並び、カレーを食べていたのだ。現場にいながら、記者のイメージだけで現場のようすが語られてしまった。どうやら、大学の研究会(ゼミ)の活動の一環で、カレーをつくっていると思っている人は少なくないようだ。

いまや入学試験の形態は多様化していて、自己推薦というやり方も認知されるようになった。そして、受験ビジネスをとおして「模範解答」や「必勝法」が流通する。志望動機や研究計画書の類いは、あまり一般的・抽象的なことではなく、個別具体的なことを書くのがポイントのようだ。具体的に何をしたいのかを語って、アピールするのだろう。ネットを眺めていると、「模範」となる文案が、一人ひとりの教員ごとに公開されているサイトが見つかる。ぼくの研究会を想定すると、「実際にフィールドにでかけてカレーキャラバンなど食のプロジェクトを計画・実行し、コミュニケーションデザインの有効性を実地検証する研究を行っている」*2ことを、志望動機に綴るといいのだろうか。これには、思わず苦笑した。ぼくたちは、「コミュニケーションデザインの有効性を実地検証する」ためにカレーをつくっているわけではない(そういう意味づけはできるかもしれないが)。そもそも、そんなに面倒なことを考えていたら、楽しく調理などできるはずもない。もちろん、書いた人も読んで参考にする人も、責めるつもりはない。

ごく素朴なレッスンは、〈他人から見たじぶん〉は、ぼくの思いどおりではないということだ。「本に書いてあるのに(ちゃんと読んでほしい)」「きちんと説明したはずだ(聞いていなかったのだろうか)」などと言っても、それはぼく自身の(一方的な)言い分にすぎないのだ。だから、(多少なりとも冗長に思えても)何度も、丁寧に、ときには喩えや語り方を変えて、コミュニケーションを続けてゆくしかない。そして、いささか不本意であったとしても、〈他人から見たじぶん〉を受け容れる姿勢も大切なのだろう。
これは、当然のことながら、コミュニケーションの相手についても言えることだ。ぼくが、相手を誤解・誤読している可能性は大いにある。手がかりがないから、それを探そうとする。〈じぶんから見たじぶん〉と〈他人から見たじぶん〉とのギャップがあるからこそ、コミュニケーションが続くのだ。「えらび、えらばれる」関係は、このギャップとともにつくられる。

(つづく)

exploring the power of place - 040

【本日発行】️😉「フィールドワーク展XVI:むずむず」は、無事に終了しました。加藤研のウェブマガジン “exploring the power of place” 今年度最後の第40号(2020年2月20日号)『えびす(5)』をどうぞ。2016年5月に創刊してから、4年。これまでに360本ほどの記事が掲載されました。→ https://medium.com/exploring-the-power-of-place

◎ 第40号(2020年2月20日号):えびす(5)
  • Take-ins from Yebisu(牧野 渚)
  • お買い得情報(高島 秀二郎)
  • 在るものとして扱う(安藤 あかね)
  • 恵比寿はつづくよどこまでも(廣瀬 花衣)
  • フィールドワーク展という場のチカラ(大橋 香奈)
  • おわり。はじまり(森部 綾子)
  • 仲良くなれただろうか(染谷 あい)
  • ステッカーの痕跡(堤 飛鳥)
  • 純喫茶日誌(佐藤 しずく)
  • Ichi-go Ichi-E(Nuey Pitcha Suphantarida)
  • 誰もいない場所には帰れない(牧野 岳)

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えらび、えらばれる。(2)

学生はメディア。

「もし、3人の教員をえらぶことになったら」という課題を出したことについては、すでに紹介した。なるほどと思う提案もあったが、じつは、注⽬すべきなのは「想定外」の名前と、教員の組み合わせだ。誰と⼀緒に研究テーマに向き合いたいのか、誰の後ろ盾を求めているのか。学⽣は、⾃由に教員をえらべばいい。 カリキュラムの案内を⾒ると、教員たちは、研究テーマに応じてゆるやかにグルーピングされている。「専⾨」を表すキーワードも公開されている。ぼくたちは、研究テーマが似ていたり、同じ学会に所属していたりすることで、同僚とつながってゆく。学内の会議や業務で ⼀緒になって、親しくなることもある。それは、いわば⾃然なつながりだ。 学⽣たちがえらんだ「想定外」の教員の組み合わせは、そうした既存のカテゴリーをしなやかに乗り越えて、あたらしい可能性を⽰唆している。

もちろん、学⽣たちの思い込みやイメ ージで、教員の理解にもばらつきがあるだろう。無茶な組み合わせに⾒えるかもしれない。 だが、学⽣がじぶんの想いでえらんだ組み合わせは、教員にとって貴重なチャンスをひらいている。きっと、ぼくたちの経験では理解しえない、あたらしい「何か」に触れているのだ。 学⽣こそが、教員どうしのあらたな出会いやつながりをつくる。だからぼくたちは、えらばれることを楽しみにしながら、まだ⾒ぬ「想定外」の提案を受け容れる準備をしておくのだ。

少し話は変わるが、「出版の未来」という授業で紹介した一節を、ここでも引用しておきたい。さわや書店(盛岡市)の、長江さんのことばだ。長江さんは、「文庫X」という企画の仕掛け人として知られている。ある文庫本が手書きのオリジナルカバーで覆われ、さらにシュリンクラップされて店頭に並ぶ。そして「税込で810円であること」「500ページを超える作品であること」「ノンフィクションであること」だけが記されている。書店を訪れた人は、この情報だけで一冊の本と向き合い、買うか買わないかを決めるのだ。この販売方法は、全国の650を越える書店を巻き込んで、記録的な売り上げがあった。昨年の今ごろ、長江さんは書店を退職することになり、そのさいにはニュースになったくらいの有名人である。(長江さん自身が、『書店員X』というタイトルの本を出している。)
さわや書店のことは、しばらく前に、友人の沼田さん(フキデチョウ文庫)に教えてもらった。何度か盛岡に足をはこぶ機会があって、そのたびに、フェザンにある書店をうろうろした。長江さんは、語る。

例えば、本を買うという行為の場合、「これは自分が読む本ではないな」と感じるものであっても、手を伸ばしてみてほしいと思う。世の中には、「殺人犯はそこにいる」のような、読んだ人間を揺さぶり、常識や価値観を打ち破るような作品がまだまだ存在する。『殺人犯はそこにいる』のように、誰が読んでも衝撃を受ける作品はそう多くはないかもしれない。でも、あなたを揺さぶる作品は、書店の棚のどこかに間違いなく存在する。本を選ぶことは、とても難しい。けれど、本を買う一人ひとりが、今の自分が持っている先入観を乗り越えて本を探すことが出来れば、本によって人生が変わる可能性は格段に高まるはずだと思う。

また、同じことは、本を買うという行為だけに留まらない。先入観というのは結局、「今の自分」にとって「許容可能」かどうか、という判断の結果でしかない。本に限らず、何らかの経験によって「今の自分」を押し広げ打ち破ろうとしたら、「今の自分」の判断を疑うしかないだろう。それは結局、先入観に囚われずに判断する、という経験の積み重ねによってしか身につかないだろうと思う。
出典: http://hon-hikidashi.jp/bookstore/21212/

手書きのPOPが売り上げに貢献するという話は、それほどめずらしいものではないが、この一節は示唆に富んでいる。ぼくたちは、かぎられた情報だけを手がかりに「文庫X」を買うか買わないかを決める。このとき、さわや書店(そして、仕掛け人の長江さん)は、読者と「未知の著者」とをつなぐ役割を果たしている。たまには「今の自分」の判断を疑ってみてはどうかと、背中を押すのだ。

学生たちが教員をえらぶのは、書店で本をえらぶのに似ている。実際に、シラバスの一覧というのは、書棚のようなもので、一つひとつのシラバスには教員の想いが書かれている。ぼくは、シラバスを介して学生たちと出会う(もちろん、他にも本や論文、SNSなどを介して出会っているはずだ)。「研究会」に興味があるという学生と話をしていると、ぼんやりと「ぼくではなくて、他の先生のところで学んだほうがいいのではないか」と思いいたることがある。ぼくが受け入れを拒んで、他の先生に押しつけようとしているわけでもなく、素朴にそう感じるのだ。分野にかんする説明をしたり、参考になりそうな本を紹介したりする。話しているうちに、お互いに「許容可能」かどうかを再考するきっかけが生まれる。

学生との会話をとおして、気づくことはたくさんある。ふたたび、「もし、3人の教員をえらぶことになったら」という課題への回答を眺めてみる。「想定外」の提案は、ぼくの先入観を揺さぶる。「今のぼく」の判断を疑ってみるよう促す。ぼくには、「未知の同僚」がたくさんいることを、あらためて思い知る。学生は、ぼくが「教員X」に出会うためのメディアなのだ。

(つづく)

書店員X - 「常識」に殺されない生き方 (中公新書ラクレ)

書店員X - 「常識」に殺されない生き方 (中公新書ラクレ)

  • 作者:長江 貴士
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/07/06
  • メディア: 新書
 

exploring the power of place - 039

【本日発行】️🏃🏻‍♂️「フィールドワーク展」まであと18日。今年度の成果を、丁寧にまとめたいと思います。学期末の慌ただしさのなかで、ちょっと手を休めて加藤研のウェブマガジン “exploring the power of place” 第39号(2020年1月20日号)『えびす(4)』をどうぞ。→ https://medium.com/exploring-the-power-of-place/tagged/039

◎ 第39号(2020年1月20日号):えびす(4)
  • クリスマス・プレゼント(田村 糸枝梨)
  • 美しさ(太田 風美)
  • 信じること(比留川 路乃)
  • 東京都写真美術館と僕(木村 真清)
  • 自分の感性とは(水野 健)
  • ノリコさん(坂本 彩夏)
  • 恵比寿の余白(加藤 文俊)
  • たい焼き「ひいらぎ」(笹川 陽子)
  • 恵比寿で見つけたこと(久慈 麻友)

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えらび、えらばれる。(1)

「研究会」と出会う。

100人の教員がいれば、100通りの「研究会(ゼミ)」があるのだから、えらぶのは難しい。でも、選択肢が多くてえらぶのが難しいこと、悩んでしまうことを、ポジティブにとらえるのがいい。迷うのは、悪いことではないからだ。まずは研究テーマ(学問領域)や方法論、成果物などを手がかりに、「研究会」について調べてみる。シラバスは、「研究会」を知るための大事な「接点」になるはずだ。授業を履修したり、見学に行ったり、あるいは友だちや先輩からの情報(うわさ)を聞いたりするのもいい。さまざまな方法で、じぶんに合っている(と思える)「研究会」をえらぶ。
「研究会」によって、事情はことなる。ぼくの知るかぎり、学生が50名をこえるような大所帯のところもあるし、数名のところもある。定員が決められている場合には、選考プロセスを経て、メンバーとしてむかえられる。だから、学生が自由にえらべばそれで決まるわけでもなく、何らかの課題(レポートや面談)をとおして認めてもらわなければならないこともある。

ぼくも、必要に応じて選考をしているが、とくにここ数年は、いくつかの「研究会」にエントリーする学生が増えているようだ。面談のときには「加藤研が第一志望です」などと言いながら、「合格」を伝えても(何の連絡もなしに)別の「研究会」に加わっている学生もいる。😔 いっぽうで、青田買いのようなふるまいをしている教員がいるとも聞く。学生の不誠実さを嘆きながらも、じつは教員も、こうした状況の一部を構成しているのだと思う。「研究会」をえらぶのが、なんだか面倒な手続きに見えてくる。

理由はともかく、まずは、学生がじぶんの「研究会」をえらんでくれることに感謝したい。えらばれることは、嬉しいことだ(ありがとう)。少し大げさに言えば、他の可能性を(ひとまず)「捨てる」決断をして、えらんでくれたからだ。もちろん、もっと軽い気持ちでえらんでいる学生もいるはずなのだが、このさい、それは気にしないようにする。とにかく、ぼくはえらばれたのだ。
学生は、数あるなかから「研究会」をえらぶ。そして教員は、希望者のなかから、学生をえらぶ。それも、決断だ。授業をとおして知っている学生なら、判断しやすい。レポートや面談でわかることもあるが、わからないこともたくさんある。「研究会」で活動するなかで、お互いに変わってゆくのだから、えらぶのは難しい。ぼくの「見る目」が試される。

えらんだ人に、えらばれたい。えらんでくれた人を、えらびたい。理想的なのは、「えらび、えらばれる」という関係だ。ここのところ、ずっと「えらび、えらばれること」について考えていた。そして昨年の秋、ふとした思いつきで、「研究会」の学生たちに、下記のような課題を出してみた。

【課題】(架空の話です)
カリキュラムが改訂され、今後、「卒プロ」を修了するためには(つまり卒業するためには)、3名以上の教員による「アドバイザリーグループ」を申請することが義務づけられました。あなたは、どの3人とともに「卒プロ」をすすめたいと思いますか?

  • 具体的に3名の教員名(SFCで「研究会」を担当している教員に限る)を挙げる。
  • なぜ、その3名なのか、じぶんの関心のあるテーマや方法論を紹介しながら、「アドバイザリーグループ」が妥当であることを説明する。

提出期限までに、23名から回答が提出された。なかなか面白い結果で、いろいろと考えるきっかけになった。ところでこの課題、架空の設定ではあるものの、それほど突飛な話ではない。大学院に進学すれば、主査と副査(2名以上)によって指導がおこなわれているので、文字どおり「アドバイザリーグループ」が必要になる。学部のカリキュラムも、「研究会」にかんしては、学期(半期)ごとに「移動」が許されているのだから、卒業するまでに複数の「研究会」に所属する学生もいる。同じ学期に「掛けもち」している場合もある。だから、担当教員を一人にかぎることなく、何人か頭に浮かんだほうがいいはずだ。

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学生たちが誰をえらんだのか、簡単にまとめてみた。1行目は、同僚の先生がたの名前(イニシャル)、2行目は、その先生の名前を挙げた学生の人数である。たとえば、回答した23人中9人がYSさんをえらんだということだ。見てのとおり、続いてHI、TK、MNさんの名前が挙がった。なるほど。すでに一緒に調査研究をしたり、「卒プロ」の合同発表会をしたりという関係を知ってか知らずか、「想定内」の名前が挙がった。組み合わせで見ると、「YS・HI」「YS・MS」を「指名」した学生が、それぞれ3名、2名だった。
結局のところ、23名の名前が挙がった。たしか100名くらいは「研究会」の担当者がいるはずだから、仮にこの課題の設定どおりの仕組みになって、学生が自由に教員をえらべるようになったとすると、同僚のおよそ4人に一人が、ぼくと一緒に「アドバイザリーグループ」を構成する、潜在的なメンバーだということになる。

(つづく)