まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

『XXの社会学』を考える

出典:この課題について https://vanotica.net/books_21s/about.html

『XXの社会学』を考える|Sociological Books of Every Damned Things

https://vanotica.net/books_21s/

ケン・プラマーは、『社会学の教科書』(2021, ちくま学芸文庫)の導入として、「あらゆるどうでもいいものの社会学(原著ではA socilology of every damned thing)」について述べている(第1章)。社会学では、壮大なことから些末なことまで、「あらゆるどうでもいい」(と思われる)ものが、研究の対象になるというのだ。プラマーは、3つの「T」を挙げて、この実態を説明する。「トマトの社会学」「トイレの社会学」そして「テレフォンの社会学(電話の社会学)」である。そして、いずれの「T」についても、具体的な調査研究の事例が紹介される。どれもが、人びとの日常と結びついた社会的な事物・事象として理解できることに、あらためて気づくだろう。

「なんでもアリ」は、社会学的想像力を駆使すれば、さまざまな〈モノ・コト〉を研究対象として柔軟に扱えることを示唆している。同時に、「なんでもアリ」は、優れた研究からそれほどでもない研究まで、そのクオリティを保証しないまま(できないまま)、一緒くたにすることにもつながる。実際に、「それっぽい」社会学の本は、たくさんある。「あらゆるどうでもいいもの」に向き合いながら、調査研究の信頼性・妥当性について、自らの意識や要求水準を高めなければと自戒する。

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2021年度春学期の「研究会」では、この『社会学の教科書』を「教科書」に指定した。プラマーの本に着想をえて思いついたのが「『XXの社会学』を考える」という課題である。学生たちは、『XXの社会学』という本を書くつもりになって、説明文やはじめに(序文)を書いて、さらに架空の本の表紙をつくってみる。判型や文字送り(縦書き/横書き)もふくめて、一人ひとりがまだ見ぬ社会学の本を想い描く。
もちろん、「XX」は「なんでもアリ」だ。(3つの「T」になぞらえて)じぶんのイニシャルから考えてもいい。4年生は、じぶんの「卒業プロジェクト」を出版するつもりでアイデアを整理するのに役立てることもできる(本当に成果を出版できる可能性もある)。このウェブには、一人ひとりが構想した本の書影と200〜300字程度の紹介文が掲載されている。

ぼく自身は、この課題に取り組む学生たちのようすを眺めながら、『課題と評価の社会学』を思いついた。職業柄、学期が来るたびに課題を考え、学生に投げかける。課題に応えようとする学生たちと向き合いながら、課題そのものについて再考する。そのくり返しである。「よい課題」は、いきいきとしたコミュニケーションを促し、提出後にも余韻が残る。学生たちは、「それほどでもない課題」は、とにかく終わらせることを目指して取り組むようになり、(その過程を見て)評価する立場の教員も、いささか事務的な態度に変わることもある。
だから、課題の設計は難しい。いうまでもなく、課題と評価がセットになって反復されることで、「教育」のある側面が成り立っている。課題と評価は、社会のありように洞察をくわえる「入り口」になるはずだ(『課題と評価の社会学』については、別途まとめる予定)。

vanotica.net

生活記録としてスケッチをすることに関する研究

(2021年8月7日)この文章は、2021年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

牧野 渚

調査概要

本プロジェクトでは、生活記録としてまちの人々をスケッチします。日々の生活の中でなるべく頻度高く調査を行い、より多くの人を描きます。この調査は、アメリカのアーティストであるジェイソン・ポランのEvery Person in New Yorkというプロジェクトの取り組みをなぞっています。全てのニューヨーカーを記録したいという好奇心から、毎日のようにニューヨークにいる人々のスケッチをしたプロジェクトです。そのスケッチの集積はアート作品として世に広まったと同時に、彼の生活記録でもあります。具体的な方法としては、お気に入りのスケッチブックとペンを持ってまちを歩いて、彼なりに気になる人を見つけると、相手が気づかない程度の自然な距離を保ってその様子を記録します。対象物をじっくりと観察しながら描く基本的なデッサンの方法とは異なり、いついなくなってしまうかわからなくても、その人の様子を直接見ながらほんの数分の間に特徴を捉えます。そのため、描いている途中に被写体の人が動けば線は二重に描写され、片腕を描いている途中でその人が立ち上がって移動をすればもう片方の腕は描かれません。彼は他のツールに頼ることをせず、自分の目だけを信じ、記録をする上で忠実さを大切にしていました。
のちに、描いたスケッチをスケッチブックからひとつひとつ切り抜いて物理的に並び替えながらレイアウトを吟味し、それらをスキャンして組み合わせたものを画集として刊行しました。各スケッチには日付や場所などのメモが少し記載されている程度で、説明文などは特に加えられていません。ことばによる情報はなくても、集積されたスケッチを見た人はその規模に感銘を受けると同時に、スケッチと経験の中で見てきた景色が結びつけられていきます。鑑賞者の記憶を刺激し、想像力を掻き立てることを通して、各々の解釈がつくられていきます。彼が行った記録は主観的で個別具体的であるからこそ、鑑賞者を選ぶことなく、見た人が内省的にものごとを考えるきっかけになると考えられます。

調査フィールドについて、プロジェクトの調査計画を立てていた段階では、自分が現在住んでいる横浜市に定めていました。しかし、現在は少し変更をして取り組んでいます。ニューヨークはまちに特徴があり、その地域性を活かすために彼はそこをフィールドとして選んでいたと考えられます。一方で、横浜市をひとつの地域としてみたとき、また他の地域と比べたとき、横浜市ならではの特徴や惹かれるような魅力は感じられませんでした。むしろ狭い空間に人が密集していることによる息苦しさばかりが目についてしまい、積極的に調査を行うことができなくなっていきました。また、自宅からアクセスのいい場所として自分が住んでいるまちを選んでいましたが、生活は横浜市の中だけで収まるものではないため、そこに限定することに想定外の難しさを感じていました。例えば、電車に乗って横浜から都内まで移動をするとき、自分が乗っている電車は変わっていないのにも関わらず、フィールドから出た途端に記録を制限されることにも強い違和感を抱いていました。そこで、調査自体は自分が訪れた場所でその都度行い、最終的にひとつにまとめるときに地域性を踏まえて整理を行おうと考えるようになりました。そのため、今学期はフィールドを限定せずにスケッチによる記録を行いました。この方法をとるようになってから、調査がより生活に馴染んでいったので、負担が減りました。

記録方法

「キャンプ」という、加藤研で行っている活動を通して、このプロジェクトの記録方法について改めて考えました。以前は宿泊を伴うかたちで「キャンプ」を行っていましたが、コロナの感染が拡大してからは従来と少し違う方法で取り組んでいます。東急池上線や多摩川線などの小規模な路線を選び、そこの人々を加藤研メンバーで同じ日時にスケッチをするというプロジェクトです。描写の方法は自由で、ジェイソン・ポランのようにその場でスケッチをする人、現場の様子を撮影してそれを元に後からスケッチにおこす人、撮った写真をiPadでトレースをしてイラストにする人などがいます。そのため、さまざまなやり方をみることが、改めて自分の調査方法について考えるきっかけになり、集団で自分の卒プロと似たような取り組みをすることで得られた気づきがあります。

記録方法については、その場の様子を見て直接描いたスケッチの解像度の低さが、描写をする人とされる人の精神的な安全を守ることがあると感じるようになりました。自分の卒業プロジェクトが誰かに不安を感じさせてしまうものにはしたくないため、この方法で進めていくことに決めました。また、そうすることで、記録者の視点が強く反映されるとわかりました。写真をなぞるとイラストとしての完成度は高くなる一方で、全体的な精度が均一になります。そのため、描いた人がどのようなところを注視しながら描写をしていたか、客観的に見たときに汲み取ることが困難になります。一方で、被写体がいつその場から離れるかわからない状態におかれると、自分が記録したい情報に無意識的に優先順位をつけます。例えば、重心を崩してずっしりとしたバッグを肩にかけている様子や、ホームのベンチに座って靴の中の石ころを出そうとしているところを見たときは、髪型や衣類の色についての記録より、その様子を描写したい気持ちを優先したくなります。完成したスケッチは左半身や足元だけの限定的なものになったとしても、その欠如こそが記録者が行った情報の取捨選択を表現します。デッサンやイラストとしての完成度より、このような表現を求めているとわかりました。

さらに、スケッチは生活記録の手法として汎用性が高いことに気がつきました。記録の対象物を選ばないことに加えて、記録をする人の技量もあまり必要としません。文章での記録と同様、訓練をすることで表現力がついていきます。絵を描くことに苦手意識があって、「キャンプ」に対して不安を抱えていた人も、描いているうちに個々のスタイルが絵にあらわれるようになることで自分が描いたものに対して愛着が湧いていき、それが楽しさややりがいにつながっていく様子が見受けられました。生活記録においてスケッチをすることの専門性は低く、さらにプロジェクトを進めていく上では参加者を増やすことも可能だと考えるようになりました。

活動報告の方法

活動の報告は、動画の制作と公開によって行っています。加藤研で取り組む卒業プロジェクトは特にパーソナルな部分に触れることが多いからこそ、周りの人や他者がそれを理解するために追わなければいけない文脈も多いです。大事だとわかっている上でも、それが負担に感じる場合があると想像します。加藤研内外の人に関わってもらうために、アクセスのハードルが比較的低いYouTube上で制作した動画を公開しています。こうすることで、興味を持ってくれた人にこのプロジェクトについて知ってもらうことができ、広がりを持たせることができています。

また、ものごとに対して母国語である日本語での理解をしている場合と、英語での理解をしている場合あります。そのため、動画の中では場面に応じて使い分けをして話しています。編集ができるという動画の利点を活かし、動画全体を通して日本語と英語の字幕をつけているため、可能な限りオーディエンスの限定をしないようにしています。話しているときはできなかった表現も、字幕をつけるために翻訳をしているうちに思いつくことがあり、両方の語彙力を補い合うための訓練にもなっています。

まとめ方について

最終成果物については、これから緻密に計画をしなければいけない要素がたくさんありますが、今年度のフィールドワーク展では主に原画の展示をしようと考えています。展示期間までに使ったスケッチブックを積み上げて、来場者が自由にページをめくって記録を見ることができるようにします。感染対策をしっかりと考えた上での場の設計をしなければいけないため、状況に応じた工夫が必要です。また、オンラインでの開催になったときのことも想定しておく必要があります。そうなった場合は、スケッチを一覧にまとめたウェブサイトを作って公開をするなどの方法をとります。これに加えて、冊子を制作します。具体的なまとめ方については、溜まったスケッチの様子を見て、それらを表現する方法として最も合っているものを選んで冊子をデザインします。期間中は展示会場に在廊し、来場者をスケッチします。もし実際にスケッチをしてみたいという人もいれば、ジェイソン・ポランが行ったTacobell Drawing Clubのように、一緒にスケッチをする時間と場を設けたいと考えています。

1920年代に、Every Person in New Yorkで行われていたような生活記録に重きを置く「考現学」という分野を提唱した、今和次郎という建築家がいました。彼はこのような記録について「結論をうるためのものでなく、暗示的な結果をあげ、発展のレールを敷くための枕木の役をすればたりるのである」(『考現学入門』ちくま文庫, 1987)と語っています。長い期間をかけて描いたスケッチが、思考やコミュニケーションのきっかけになることを目指します。

まわりみち

(2021年8月7日)この文章は、2021年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

中田 早紀

効率を求めてしまう私

突然だが、今から私の学生生活を少し振り返ってみようと思う。

苦しかった大学受験をなんとか乗り越え、ずっと憧れ続けていた大学に入学した私。大学1年生の春学期はとにかく興味のある授業を片っ端から取り、憧れの大学生活に心を躍らせていた。しかし秋学期に入ると、自宅からキャンパスまでが遠いこともあって、1限の授業を避けるようになった。2年生に上がると、自分の中で次第にインターンシップの比重が大きくなっていき、できるだけ自由な時間を増やすために、興味のある分野であっても課題提出が大変な授業は避け、興味はなくても課題が易しい、いわゆる楽単と呼ばれる授業を取ることが増えた。それに伴い成績に関しても、SABCDという評価のうち、「まあB取れればいいか」と最低限のラインを超えられれば問題ないという姿勢へと変化していった。3年生になって新型コロナウィルスの影響によりオンライン授業が導入されてからは、これまでの移動時間にとらわれることなく興味のある授業を存分に取ることができるようになり、ようやく少しずつ入学した当初の前のめりの姿勢で授業や課題に臨む自分が戻ってきたように思える。しかし、進級/卒業に必要な条件以上の授業は取らないところを見ると、できるだけ最短の道で/最小のエネルギーでゴールへと向かおうとする姿勢は、知らぬ間に自身に根付いてしまっていたのかもしれない。その原因は、先輩や友人たちに自然と同調していったこと、そもそも私自身が昔から周囲からの目線を気にし、その中で「効率の良さ」を評価されてきたこともあるだろう。 

効率を求めざるを得ない社会

しかし、効率を求めすぎてしまうのはどうやら私だけではないようだ。ここで、少し視線を社会に向けてみよう。最近、ドラマや映画を倍速視聴する、あるいは10秒スキップで主要シーン以外は飛ばして観る人が続出しているという。近年では動画配信サービスなどの発展によってあらゆるコンテンツがスマホ一つで手軽に観られるようになり、スマホの中には多くのコンテンツとSNSを介して得られる情報が溢れる、まさに供給過多の状況となっている。そんな中で、私たちはコンテンツをじっくり味わい「鑑賞」することから、忙しい中でどれだけ多くのコンテンツを「消費」できるかへと重点が変化していったように思える。つまり、短い時間で多くのコンテンツを視聴する(内容を把握する)、いわゆるコストパフォーマンス(以下、コスパ)を求める人々が増えていると感じる。さらに、そんな世の中のニーズに応えようと、各動画配信サービスでは再生速度変更機能が続々と搭載されたり、また作品の作り手も「5分でわかるドラマ○話」というような約50分の作品を10分の1にまとめ、動画配信サービス上にアップしたりという動きが広まっている。それによって、コスパを求める人々はますます増える同時に、その姿勢/欲求をさらに加速させているように私は感じている。

効率化の影に潜む危機

果たして、このような動きは私たちにとって幸せなことなのであろうか。たしかに、世の中が便利になれば、私たちはより手軽に物や情報を手に入れることができ、その中でコスパが上がれば上がるほど、自由に使える「時間」を獲得することができる。しかし、最短・最小のエネルギーで結果を得ようとする分、私たちはその道の途中で何か大切なものを置き去りにしてしまっているのではないか、と私は危機感を覚える。先ほどの例で言うと、主要シーン以外を”意味のないもの”だと切り捨て、飛ばしてしまう人たちは、セリフ以外の会話の間や目線の動き、何か物を映したカットなど、物語やその登場人物の人柄を十分に味わえる要素、そしてそこから発せられる作り手からのメッセージに気づくことができない。またその切り捨てる行為は、それらの可能性を奪うと同時に、私たちの「想像力」を衰えさせ、さらに日常生活にも影響を及ぼし始める。例えば、人とのコミュニケーションの中で相手の立場になって気持ちを想像できなくなることや、人柄を出会った瞬間の数秒の印象や学歴などの表面的なもので捉え、ありきたりな一言でそれぞれの魅力や個性を語ってしまうことが生じる。また、そのベクトルを他者ではなく自分に向けても同様のことが言え、自分自身と向き合う時間/その過程を省略してしまい、自身の魅力や抱えている本当の思いに気づけなかったり、日常生活での自らの姿勢を振り返ることをせず、結果的に自分の身になる時間を過ごせなかったりということに繋がってくる。

今回は、コンテンツ消費についての例をあげたが、このプロセスをできるだけ省き、結果だけをすぐに求めようとする効率主義/コスパ思考は、これに限ったことではなく、今や社会全体のあらゆる場面で見られる。もちろんそれは若者だけでなく、現代を生きる人々皆に直面している問題であり、改めてその姿勢について問い直す必要があると私は感じている。

問題意識と向き合うまでの道のり

私は卒業プロジェクトにおいて、この問題について追求していく。しかし、このように自身の問題意識を他者へと語れるようになるまでには、非常に時間がかかった。というのも、前述したように私自身も効率的に物事を進めることに専念し、これまで自身と向き合う時間を十分に取ってこなかったということもあって、一体どんなことに関心があり、どんなことを問題に感じているのかを自分自身も理解できていなかった。この春学期では、いろいろな方法を試しながら時間をかけて自身が抱える問題意識を言語化していった。

そもそも私は、就職活動を通して、「リーダーシップ」などありきたりな一言で自分の魅力や個性を表現し、その点を他者から評価されるということに非常に違和感を抱いていた。その一方で、私自身も自己・他者含めそれぞれの魅力や個性をうまく言葉で表現できないことにもどかしさを感じていた。そこでまずは実験的に、いつ・どんなときに自分は魅力を感じるのか、自らの感性と向き合うためにドラマを複数本視聴し、自身が魅力的だと感じるシーンを書き出し、その要因は何か分析を行った。ここでドラマを選んだ理由としては、視聴者と共に毎週話を展開していく上で他のコンテンツよりも詳細に人柄や他者との関係性が描かれていること、コロナ禍でも実験を行いやすいことなどが挙げられる。この試みを行う中で、やはり私自身も魅力的だと感じるシーンに対して、”可愛らしい”や”たくましい”などの一つの象徴的な言葉に頼りすぎており、自身も自ら問題だと感じている人々の一員であるということを再度自覚し直した。一方で、抽象的に魅力を感じたシーンについてセリフ・服装・カメラワークなど様々な角度で具体的に分析することで、魅力を感じる要素は必ずしも一つではなく様々な条件が重なり合っていることに気づく視点を獲得できた。

この試みを通して、先ほど挙げた”可愛らしい”や”たくましい”などの人柄を表す言葉の解像度をさらに上げていく必要性を感じ、次の実験を行うことにした。その内容は先ほどのものとは視点を逆転し、先に魅力的だと感じる登場人物の人柄を書き出し、それを感じる瞬間を見つけその要素を分析していくというものだ。例えば、“強さ”と一言で言っても、色々な強さがあり、それはそれぞれ異なる。私はいつ・どんなときにその強さを感じ、また強さを表すためにどのような演出が行われているのか想像を広げた。この取り組みを通して、作り手は私の想像以上に登場人物たちの人柄を表現するために、洋服の色や会話の語尾など細かい表現まで作り込んでいる(と思われる)ことに気づいた。また同時に、その人柄/印象を構成する要素は非常に複雑であるにもかかわらず、実は私たちは表面的な部分ばかりに目を向けてしまっており、日常の中でも服装・メイク・話し方・クセなど表面的な要素から相手の人柄を非常に感覚的に捉えているのかもしれないと考えるようになった。

しかし、表面的な要素だけで本当に相手のことを理解していると言えるのだろうか。その疑問から私は、同じゼミに所属する仲のいい友人たちに、その人の価値観や生き様のようなものが最も表れる「人生の大きな分岐点/決断の瞬間」について話を聞いた。その中で、中学高校時代からどのような生活を送り、どんな困難に直面しそれらをどう乗り越えていったのか、具体的な当時のエピソードを交えながら話を聞かせてもらった。結論から言うと、私たちは約1年半、毎週のように会う仲であったが、この時間は彼女たちの新たな一面を知る再発見の連続となった。もしかしたら”一面”というよりも、彼女たちの芯の部分を初めて知ったという表現が正しいのかもしれない。振り返ってみると、私は「仲良くなる」というゴールを求める中で、互いの過去の話や大切にしている価値観など、相手のことを深く知るための対話の時間をないがしろにしてきたのかもしれない。

まわりみちをして得られたもの

ここまでの取り組みを通して、私たちはもしかしたら人の魅力に限らず、あらゆる物事に対して必要以上にその過程を省略して、結果だけを求めてしまっているのかもしれないと思うようになった。そして、これまで私は「魅力」という抽象的な概念について関心があり、それを一言で語られてしまうことに違和感を抱いていると考えていたが、実はこの必要以上な過程の省略(効率主義/コスパ思考)について問題を感じているのかもしれないことにようやく気づき始めた。

このように私はこの春学期をかけて自身と向き合い、自らの問題意識を言語化していった(それがまさにこの文章そのものである)。ここまでたどり着くために多くの時間を費やしてしまったが、効率主義の私にとってもプロジェクトにとっても、この経験と成果は大きな一歩となった。

「模写」を通した作者と鑑賞者との対話

(2021年8月7日)この文章は、2021年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

堤 飛鳥

背景

「私が表現したい世界を、どうすれば表現することができるようになるのか知りたい」という想いから、私の卒プロは始まった。絵を描く、表現すると一言で言っても、様々な捉え方ができる。その中でも私は、「頭の中でふと思いついた」「目の前のものが全く別のものに見えた」など偶然的に生まれたものが、ある種必然性を持って生まれてくるプロセスの中身やその背景について知りたいと考えた。では、どうすればその文脈に近づくことができるのか。絵を描く行為の場合、作者の思考が絵となって現れてくるわけだが、その背景や意図は、描いてる本人ですらわからないこともある。何より、描いている際には、それ自体に夢中になっており無自覚なことも多い。そのため、描く行為の前後の中で、描いている際の背後にある想像の世界にどう近づくかが重要になる。その方法を探るために、大学4年生の2月〜6月にかけて、大きく3つのプロジェクトに取り組んだ。その中で、今回は「模写」ということにフォーカスし、ふりかえりっていこうと思う。その他フィールドワーク/背景/研究概要/など、試行錯誤のプロセスについては以下のページにてより詳しく書いている。
medium log,vol03 「卒プロ1をふりかえる

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毎日のスケッチ(フィールドワーク)

フィールドワークのひとつとして、毎日、マグカップや本など身の回りのものを1つスケッチするプロジェクトを実施した。そしてそこに、描く中での気づきや考えていたことを書き、友人(卒プロ協力者)に送るというルールを設けた。これは単に絵が上手くなること自体が目的なのではなく、技術の獲得や気づきの言語化によって、自身の着眼点を広げることが目的である。1ヶ月スケッチを続けるなかで、自分の中で視覚情報と想像との割合に変化しているのではないかと考えるようになった。当初は、見たまま全てを再現しなければという考えから、スケッチの中での視覚情報に依存する割合がほとんどを占めていた。しかし、

10日ほど経つと、目の前のものが「軸の構造」に見えた。まるで棒人間を見ているような感覚であり、ふとデザインっぽいなと感じた。それをもとに、自分のデザインの感覚に沿って描くと、案外上手く描くことができた。自身の中にその感覚が芽生えたことで、想像の割合が少しずつ大きくなっていった。見たまま全てを描こうとするのではなく、線を選択したり、あえて線を減らしたり影を強調したりすることで、よりリアルに描ける感覚を体感した。目の前のものと頭の中の想像とのギャップをどう表現するか毎日言語化しながら試行錯誤することで、私自身の着眼点に自覚的になっていった。

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「模写」との出会い

毎日のスケッチの中で起きた出来事をひとつ紹介する。3週間ほど経ったある日、私が描いたスケッチに即発され、協力者がスカートを履いた女の子の絵を描いて送ってきてくれた。せっかくの機会だからと考えた私は、次の日、その絵を模写して協力者に送った。この時、相手が非常に面白い反応を示した。「人に始めて自分の絵を模写された。絵って無意識に自分のフェチや癖が出ているから、それが暴かれたようですごくムズ恥な気持ちになった。爪を噛む癖を言い当てられるみたいな感覚に近い。」まず感じたことが、絵を模写されるという行為が相手にとって嬉しい行為であるという驚きだ。これまで取り組んできた模写の中では、私自身勝手に人の作品を模倣することで、楽しい反面どこか後ろめたさがあったからだ。そして何より、協力者が、模写によって自分の絵を1本1本まで吟味されることが自分にとって1番の無意識の発見になりそうと言ってくれたことが強く心に残った。協力者の絵を模写しながら勝手に想像していた相手の世界に対して、相手が見抜かれたと感じてくれたことへ私自身嬉しさを感じた。そこから、模写の可能性について考えていった。

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フィールドワークをふりかえる

卒プロを通して、目指していた「描く」行為の背景を少しずつ自覚していくようになり、自分の中での「描く」ことの意味も少しずつ変化していったようにふりかえって感じている。しかし、やはりどこか腑に落ちない感覚があり、このまま続けていてもいいのかという悩みが残った。フィールドワーク自体は確かに面白く、知りたいことの一部にはアプローチできていると感じていたが、どこかモヤモヤしていた。それが何かと考えると、スケッチや模写では、目の前のものや景色に対して想像力を働かせ、線や色や描く対象を選択し描く。このことは理解できるのだが、一方でドローイングでは、頭の中のぼんやりとした想像やうちなる衝動に対して想像力を働かせているわけであり、この感覚がわからない。これこそ私が卒プロを通して知りたかったことの根底にあるのだと思い出し、概念的な部分からも整理することにした。

ドローイング行為の中身を考える上で、現象学の「状況依存性」という考え方を用いることにした。これは、身体知とは動作(絵を描く、運転をするなど)はマニュアル式に引き出されている(こういう状況の時はこうすればいいなど)わけではなく、その場の状況に応じて何かを見出し、動的に発揮されるというものだ。例えば野球のバッティングを想像すると、同じコースに同じ球が投げられてきた時、決まった形でスイングすれば必ず打てるというわけではなく、その都度打つためにスイングを生み出しているというようにだ。この考え方をもとに、スケッチ/模写とドローイング行為について、私なりに解釈しようと試みた。

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ドローイング行為が腑に落ちる

私たちは絵を鑑賞する際、全体を見て一部を意味づけする。例えば、これは女性の絵だからこういうことを表現するためにこの線を描いた、色を選んだ、といった具合にだ。しかし、しなやかな曲線は女性を思わせる要素ではあるが、髪型や服装で性は決まらないように、線やリズム、空気で、そこに性別を断定する必要はない。つまり、そこに描かれている絵は「女性」ではなく、「しなやかな曲線を持った人」と捉えることができるだろう。友人や好きなアーティストが描いた絵を思い出してみる。写実的な絵や抽象的な絵、また落書きなどどんな絵を描いていても、あるいは初めて見た絵であった絵だとしても、この人が描いたなとなんとなくわかることがある。この理由はまさに、先述のような「〇〇な要素を持った線」によるものだと思う。誰しもがこれを持っていて、その視点で世界を見ているのだと私は考えた。そして「模写」という行為は、必死に再現しようと目の前の絵を線1本1本の単位で分解し捉え直す。絵を観察して、細部を捉え、想像を巡らせ。それを自分なりに解釈して、紙の上に想像し直す行為だ。紙やペンは違い、技術力も異なる。だからこそ、作者の世界を解釈し、翻訳しようと試みる。つまりこれは一部を見て全体を意味づけする行為であり、全く新たな絵の鑑賞法であるのだと考えた。線を捉え、自分の手で身体的に想像を巡らすことで作者の表現の背後にある感情や内なる衝動を追体験するのかもしれない。「模写」という行為は、作者と鑑賞者との新たなコミュニケーションの方法なのではないかと卒プロを通して改めて考えるようになった。

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そしてこの、「一部の要素」の考え方と「状況依存性」の考え方を組み合わせることにした。私たちは、目の前の状況に応じて動作(行為)が生まれるのと同じように、頭の中の世界、身体感覚、内なる衝動に対して、自分の世界の見方(要素を持った線など)を動的に反応させている。その応答表現の結果として、絵が外的に表象化されているのではないのだろうか。つまり、ドローイングの行為も、スケッチや運転、バッティングの行為と同様の現象として「身体知」を考えることができるのではないだろうか。その瞬間、これまで全くの別物だと考えていたスケッチとドローイングとを同じように捉えることができるのではないかと腑に落ちたのだのだった。これまでの模写の課題、フィールドワーク、スケッチを通して劣等感と呼び背後に抱えていた何かが少し和らいだ瞬間だった。

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卒プロ2へ向かう

ドローイングの身体感覚が言葉的にはわかった。今度は、身体的にその感覚を模索していくことになるだろう。卒プロ2では、もう少し「模写」の可能性を探求していきたい。私にとって「模写」は、作者(描き手)の「とある要素を持った〇〇の視点」から見ている作者の世界を想像する行為であると考える。線1本1本に着目し、自身の身体を通して作品を鑑賞することで、作者との対話を試みる。模写をしている際、線を必死に見ているため何を描いているのかわからない感覚に陥る。しかし同時になんとなく描いている感覚は伝わってくるのだ。もちろん、百発百中で相手の癖やフェチを見抜けるわけではない。だからこそ、協力者らの絵をひたすら模写し、想像を綴り、相手に返すことで、彼らは不意に癖や無意識の想像を見抜かれた感覚に陥るかもしれない。100枚に1枚でもいい、もしその瞬間に出会うことができたとしたら、より解像度高く彼らの見ている世界に近づくことができるのではないだろうか。それによって、なぜ彼らの作品に私が魅かれるのか、より解像度高く語ることができるようになるだろう。そうすることで、最終的な目標にある、自分の表現したい世界への解像度が高まるのではないかと考える。これからも、私は絵を描き続ける、ふりをする。

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関係:「Vさん」?

(2021年8月7日)この文章は、2021年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

安藤 あかね

私が現在取り組んでいるプロジェクトのテーマを一言で表すと、「主に声だけでコミュニケーションをとるような環境において、どう人を理解して好きになっていくか」です。
これだけではあまり明瞭でないため、このテーマに行き着くまでの経緯を順に説明したいと思います。
当プロジェクトにおいて、非常に重要な存在となっているのが「Vさん」です。
「V」はインターネット上でのハンドルネームのイニシャルで、私はVさんの素顔も本名も知りません。私も同様に、本名ではなくハンドルネームでVさんとやり取りをしています。
Vさんとはどのような人なのか、なぜVさんと関わりを持つことになったのか。そして、関わる中でどのようにしてテーマが決まっていったのかをお話します。

Vさんを最初に知ったのは、今年の1月頃のことです。
私は任天堂が発売しているゲーム「Splatoon2」がとても好きで、上達のために上手いプレイヤーの動画をよく検索して視聴しています。その過程で、Vさんの動画と出会いました。
丁寧に編集されており、説明もとても分かりやすいにもかかわらず、その動画はあまり流行っていないようでした。
投稿した時期の問題(当時は「Splatoon2」の発売から数年経過しており、アクティブユーザーの多い全盛期とは言えませんでした)もあるかもしれませんが、それでも「この人はこんなに充実した内容の動画を作っているのに、何故あまり伸びないんだろう」と感じました。
当時の私は、「インターネット上のコンテンツ共有サイトにおける、投稿者や受容者間でのコミュニケーション(例:コメント欄で起こる会話)の個性」について興味を持っていました。その調査をするにあたり、自分も投稿者の立場に立つ必要があると考え、昨年の8月から不定期で動画共有サイトで動画の投稿をするようになりました。
しかし当然ながら、有名な投稿者が沢山いるこの時代、コメントをもらえる程に投稿が注目されることはなかなかありません。
そんな自分とVさんを、無意識のうちに重ね合わせて見ていたのかもしれません。気付けば毎日Vさんの動画を遡って観始めていました。

きっかけこそ少しの「共感」ですが、一通り動画を視聴し終わった頃にはどういうわけか、Vさんが持つ説明できない魅力を感じていて、動画では飽き足らず配信も観るようになりました。コンテンツ自体というよりも、Vさん自身の話し方や話す内容に注目していました。
Vさんが配信内で話す情報から、彼が男性であり社会人2年目(8月現在)であること、関西在住であること、大学院生時代にTAを務めた経験があることなどを知り、私の中でのVさんのイメージが少しずつ形成されていきました。
いつしか「Vさんと実際に話してみたい。Vさんがどういう人かを知って、仲良くなりたい」という気持ちが強くなった私は、彼があるサイトを経由して行っていた「Splatoon2」のオンラインコーチングのサービスを受けることを決めました。それが3月頃のことです。
サービスは有償で、基本的に1〜2時間を1回とし、およそ2週間の間隔を空け受講します。3回分で合計10000円、私にとっては決して格安とは言えない金額です。
それでも、勿論ゲームの上達という目的もありますが、それ以上にVさんと仲良くなりたい気持ちが大きかったので、迷わず受講を決めました。

初回のコーチングは、3月12日の20時に行われました。
配信でよく聴いていたVさんの落ち着いた声が実際に聞こえてきた時、「本当にVさんが存在していて、まさに今話しているんだ」と心の中で嬉しく思いました。
ですが初回は流石にいくらか緊張していたため、最低限の質疑応答以外、あまり自分から何かを話すといったことはできませんでした。
雰囲気こそ柔らかいものでしたが、お互いにしっかりと敬語を使っており、およそ2時間、決められたコーチングの内容だけを遂行してその日は終了しました。2回目も同様に、滞りなく終わりました。
コーチングの様子に初めて変化が訪れたのは、3回目の受講時のことです。
2時間のコーチングを終えた後に、Vさんとひたすら雑談をだらだらと続けるようになりました。長い時は3時間にも及び、最早コーチングの内容よりも長い時間を雑談にかけています。雑談の主な内容は、好きなゲームといったゲームに関連した話から、承認欲求の話、就活の話など個人的なものまでありました。
ちなみに、後から振り返って気がついたことなのですが、Vさんの「これでコーチングを終わりたいと思いますが、何か質問はありますか?」という発言が、いつも雑談の始まりの合図でした。
5回目の受講の頃には、私も緊張がほぐれたのか、時々Vさんに対してため口が出てしまうようになりました。初めはため口をこぼす度に謝っていましたが、6回目ではあまり謝らなく(気にしなく)なっていました。またVさん側のため口も、ごく僅かですが見られるようになりした。
8回目はVさんがコーチングの後に用事があったため雑談の時間はあまりとれませんでしたが、本来雑談はしなくていいことなのにもかかわらず、Vさんから長く話せないことを最初に提言されました。いつの間にか、私とVさんの間でコーチングの後に雑談をすることが前提となっていたのです。
このような各回の変化を経て、Vさん自身がどう感じているのかは定かではありませんが、少なくとも私は確実にVさんと打ち解けていっているように感じました。
穏やかで真面目だけれど意外とよく笑う、考え方はあっさりしている…などといったVさんの性格が、鮮明に私の中にイメージとして刻まれていきました。

改めて考えると、大学生になってからというもの、この「人と知り合い、何度も会って話し、時間をかけて相手と仲良くなる」経験がめっきりなくなってしまったように思います。
一学期で完結する授業のグループワークなど、その場では上手くやっていたとしても、あくまで作業を穏便に進めるためであり、本当に仲良くしている実感はない、そんな便利だけれどちょっと寂しい刹那的な関係が増えてしまいました。
さらに現在は、新型コロナウイルスが猛威をふるっている影響で、何も考えずに人と気軽に会って話すことが難しくなっています。
そういう意味で、私が現在体験しているこのVさんとのやりとりは貴重なのかもしれない、今はオンラインだからこそできる体験なのではないか、と考えました。
だからこそ、この体験を通して、素顔も本名もわからない、けれどもその人のことを沢山知っているような気がする、そんなVさんとの不思議な関係を表現したいと強く思います。
「主に声だけでコミュニケーションをとるような環境において、どう人を理解して好きになっていくか」これが今、最も関心を抱いているテーマです。

実を言うと以前にも「コンテンツ共有サイトにおけるコミュニケーション」から、私の頭の中で思い描くテーマが一度変わったことがあります。「私がVさんに抱いている気持ちはどのようなものなのか」についてです。
一言で表すならば、私は確実にVさんのことが「好き」です。しかしその「好き」は、ごく普通の友人に抱く「好き」とも、恋愛のパートナーに抱く「好き」とも異なるものだと心のどこかで感じていました。友人にしては感情が重いような気もするし、かといって恋愛感情かと聞かれると、決してそうではないと断言できる自信があったのです。
「好き」という言葉の解像度の低さを思い知らされるとともに、私がVさんに抱く「好き」は具体的にどのような感情なのかということに興味を持っていました。
ですが、プロジェクトが進み、研究室のメンバーや先生と意見の交換をするうちに、友人関係が様々存在するように、「好き」という感情にも様々あり、わざわざVさんへの好意を変に特別視して解明する必要もないということに気が付きました。
そもそも、様々に存在する関係を同じ「友人」や「師弟」といった名前で一括りにしてしまうこと自体が、本当は疑問視されるべきことなのかもしれません。
私とVさんの関係は、あくまで「私にとって」の「Vさんと」の関係です。それは私が他に関わりを持っている誰のものとも異なりますし、Vさんにとっても同様でしょう。
だから私はこの関係を、唯一無二であるという意味を込めて、そのまま「Vさん」と名付けました。これは今後プロジェクトが進む中で変化する可能性も否定できませんが、現時点ではこの名前が最も合っていると思います。

最後に、現在も引き続きコーチングを受講しながらプロジェクトを進めていますが、その過程で「記録をとる」といった行為はしていません。なぜなら、あえて記録をとらないことの面白さがあると考えているからです。
初めの頃は、後から個人的に聴き直し、ふり返ることを目的としてコーチングの録音を行っていたのですが、録音をしなかった(厳密には、し忘れた)回の方が、よりVさんの発言をはっきりと覚えていたのです。記憶に残る発言のほとんどが、私に対して言及していたり、私の発言に笑っていたりする場面のものでした。
このように、一種のフィルターがかかった状態で「あの時、私にこう言ってくれていた」と思い出すことが非常に面白いと感じたので、それ以降コーチングの録音を意図的にやめました。
ですが、最終的に発見や学びを表現するためには、何かしらの成果物を作成する必要があります。どのような媒体にするかはまだ決められていませんが、関係「Vさん」を表現するのに最も適切な方法を、「卒プロ2」を進める中で模索していければと考えています。