まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

Day 0: 前夜

2022年8月18日(木)

土佐町へ

5:30ごろ起床。しばらく、窓の外に広がる海と空を眺めていた(ずっと見ていても飽きない)。三重県の沖あたりだろうか。電波がないので、スマホのチェックはなし。いわゆるデジタルデトックスというやつだ。船内はとても静かだ。みんな眠っているのか、そもそも利用客が少ないのか。シャワーを浴びて、しばらく本を読む。あと7、8時間はこのスピードですすむ。

このフェリーを利用するのは、今回が初めてだ。乗船のときにはクルーに迎えられたわけだが、あとはほぼすべてが自動販売機に委ねられている。船上の愉しみのひとつが食事なのに。COVID-19の影響でいろいろ変わったのかもしれない(今回乗ったのは「びざん」)。「オーシャンプラザ」には、冷凍食品(レトルト)の自動販売機と電子レンジが並んでいる。おつまみ、麺類、ごはんものなどなど、種類は豊富だ。もちろんビールもアイスも、三宅島に通っていた頃に「定番」だったカレーヌードルも買える。浴室のそばには、シャンプーやパンツ、サンダルの自動販売機もある。

海を眺めながら、朝ごはんを食べた。風が強いみたいだ。しばらくして、船の揺れが気になりはじめた。ほとんど乗り物酔いはしないのだが、ちょっとうねりが強くて、ベッドに横になった。午前中は、本を読んだりごろごろしたり、のんびりと過ごしていた。お昼過ぎに、ようやく電波が入るようになって、メールを確認した。およそ12時間ほどスマホを使わなかっただけなのに、すごく大変な経験をしたような気になった。

13:30ごろ、ほぼ定刻に沖洲港(徳島県)に着いた。そして、土佐町を目指す。だいたい150キロくらい。ナビによると、今回の会場となる施設「いしはらの里」まで2時間ちょっとのドライブだ。徳島自動車道〜高知自動車道を経て、大豊(おおとよ)ICを出ると、あとは目的地まで一本道だ。吉野川に沿ってカーブをくり返しながら、渓谷をすすむ。木々の緑がとても美しい。30℃をこえているが、東京の30℃とはちょっとちがう。窓を開けると、涼やかな空気が入ってくる。

ワークショップの会場(+宿泊施設)となる「いしはらの里」は、廃校になった小学校(旧石原小学校)をリフォームして「集落活動支援センター」として整えた施設だ。さまざまなイベントが行われていて、数年前から宿泊事業もはじめたという。シャワーやエアコンなど、綺麗に整備されているが、小学校の風情はちゃんと残っている。図書室も教室も、誰もが懐かしさを感じるにちがいない。元図書室、元教室に布団をしいて寝ることになる。
今回お世話になる町田さん、森野さんと少し話をしているうちに(じつは、ぼくよりも早く到着した石川さんが、すでに細かい打ち合わせを済ませていた)、近所を散策中だった石川さんと三宅さん(前泊のSA)が戻ってきた。

まずは、はるばる連れてきたプリンターを部屋に運んでテストした。精密機器なので、来る途中に何かあったら明日からのワークショップが台なしになる。梱包を解いて、電源を入れる。無事に印刷できたのでひと安心だ。陽が落ちると、ずいぶん涼しくなる。

晩は「いしはらの里」で、地の食材をつかったメニュー。どれも美味しかった。この施設が、集落の人びとによって支えられていると聞いて、素晴らしいことだと思った。実際に使いながら、みなさんが工夫や改修を重ね、少しずつ「いしはらの里」が魅力のある場所に育っているようだ。食堂から、体育館で空手(だと思う)の教室がおこなわれているのが見えた。親御さんの迎えのクルマが数台、終わるのを静かに待っている。

食後は受付の段取りを考えたり、グループ分けを思案したり。他の会場の先生がたとZoomでつないで、ようすを報告しあった。明日は、いよいよ参加者を迎えてワークショップがおこなわれる。じぶんで望んで計画したとはいえ、家を出てから船で17時間、そのあと2時間のドライブを経て、会場にたどり着いた。長い道のりだった。まだはじまっていないのに、もう達成感がある。

Day -1: 出航

2022年8月17日(水)

ひさしぶりの船旅

暑い日が続いている。昨日の東京の最高気温は、36℃をこえた。10年ほどかかわっている夏の恒例のイベントがはじまる。3年ぶりに、対面の実施だ。今年については、地方でも開催することになって、ぼくは、石川さんと一緒に土佐町(高知県)でのワークショップを担当する。

秋学期まではまだ時間があるが、なんだかくたびれている。じぶんのこともままならないのに、いろいろな事案に向き合って対応するのが役目だ。ひとつ落ち着いたと思ったら、つぎが来る。スピードを求められる場合も少なくないので、仕事が雑にならないようにと気をもむ。人と人とのコミュニケーションのありようが、この2年間で少しずつ変わってきていることを実感しながら過ごしている。
とくに春学期になって、対面での場面が増えたことで、生活のリズムにも影響が及んでいる。顔を見ながら話をすることの価値は疑いようがないが、画面越しのやりとりに慣れすぎてしまったためだろうか。直接、顔を合わせて語る、そのやり方を忘れてしまったり、あるいはさほど経験がなかったり。ぎこちなさを感じることが多い。身体も心も丁寧に整えなければと思う。

大学の一斉休業(この期間は1週間ほど事務室が閉室する)を経て、8月も後半に入った。じつは、ドタバタしていて(もちろん、いまだにCOVID-19の影響下にあるので)、いわゆる「夏休み」らしい時間を過ごしていない。今回、土佐町に出かけるのが、この夏のおそらく唯一のイベントだ。
もちろん、ワークショップの最中は「業務」なのだから、「夏休み」気分ではいられない。準備をすすめながら、緊急時のために、そして大きな機材をはこぶために、クルマで移動するのがよいと考えた。そうすれば、行き帰りの道中をのんびりと愉しむことができるはずだ。到着したら「業務」がはじまるので、その前後をゆっくり味わうのだ。

じつは7年前のちょうどいまごろ、土佐山田までクルマで出かけた。そのときは(陸路で)淡路島を経由し、高松で過ごしてから山を越えて土佐山田に向かった。帰りも、同じ道のりを運転して帰った。今回は、往復1500キロのドライブは気がすすまず、船に揺られて過ごすことにした。まずは、有明(東京)から沖洲(徳島)までフェリーで行き、そこから土佐町に向かう計画だ。

「業務」以外の部分をそぎ落とせば、ずいぶん楽になることはわかっている。多くの人は、移動時間を最短にするように計画する。大判プリンターをあきらめて、飛行機で行くことにすれば、羽田からわずか1時間ほどで高知空港に着く(旅費も申請できる)。だが、ぼくとしては10数年にわたってポスターづくりのワークショップを全国各地で実施してきた経験から、大きなサイズで印刷されるポスターの魅力を知っている。行った先で工夫することもできるが、今回はかなりタイトなスケジュールで動くことになりそうだ。単純な発想だが、そんなときはプリンターを載せて出かければよいのだ。

『顔たち、ところどころ』(2017)は、何度も観た(まだの人はぜひ)。あの二人のエネルギーには遠くおよばないが、クルマを走らせ、たどり着いた場所で人びとの「顔たち」を大きく印刷する。まちかどに貼られた「顔」は、鏡のように人びとを映す。ぼくにとって、憧れの情景だ。だから、今回はあの映画の素敵なシーンと重ねながら土佐に向けてドライブすることができる。面倒も手間ひまも引き受けよう。費用も時間もかかるが、それでもかまわない。ささやかすぎる冒険を、大切な思い出にする。なにしろ、60回目の夏なのだ。

水曜日なので、いつものように会議がいくつかあって、夕方まで画面を眺めて過ごしていた。いそいそと荷物を積んで出発。有明のフェリーターミナルに着いて、手続きを済ませた。ほどなく誘導されて船内にクルマを停めた。ひさしぶりの船旅だ。窓の外には東京ゲートブリッジが見える。19:30ごろ、ほぼ定刻に出航。

見過ごされた「ケア」を掬い取る

(2021年8月7日)この文章は、2021年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

今村 有里

はじめに

ケアは私たちの身近な活動であり、しかも、ケアを受けていないものはいないと断言できるほど人間存在にとって重要な活動であるにもかかわらず、なぜその活動とそれを担う者たちが、長い歴史の中で軽視、あるいは無視され、価値を咎められてきたのだろうか。(岡野八代、『ケアするのは誰か?』)

私が「ケア」を卒プロのテーマとして選んだ背景には、社会学の授業や研究会を通して学んだ様々な問題の根底に、ケアに対する過小評価が潜んでいる、とある時強く思ったことがきっかけだった。個人の自律や能力を重視しすぎた社会では、人間の根源的な営みである他者への依存的行為、すなわちケアの重要性が看過され、それらは社会から無くならないにしても、より個人的で閉鎖的な範囲へと追いやられている。コロナ禍で他者との非接触が謳われ、人との関わり合いが制限されていく光景を目の当たりにしながら、このケアの問題について、卒業プロジェクトを通じて深く考えたいと思った。ケアの重要性を見直すことが、個人の弱さや傷つきやすさを認め、自分と他者との繋がりを再考するといった、人間存在の存在自体への理解につながると考えた。

ケアという概念について

「ケア」という言葉を聞くと、まず初めに医療や介護現場を思い浮かべることが多いが、近年は「誰しもが他者との関係の中にある」というより広義の意味で使用される場合も多い。この考えは、そもそも私たちは生まれた瞬間から一人で生きることはできず、また自己完結できない存在であることから、人は誰しも程度の差はあれ、他者に依存して生きざるを得ない、という事実を前提としている。この人間存在にとって必然的で避けることができないケアは、多くのフェミニストたちが着目してきた分野の一つであるが、中でもアカデミズムにとりわけ大きな影響を与え、また私自身がケアの概念について興味を持ったきっかけが、キャロル・ギリガンによる『もう一つの声』であった。彼女が、女性たちの経験から聞き取った声は、「ケアの倫理」という言葉で解釈され、ケア現場に留まらないその応用性を説いた。そもそも近代民主主義においては、他者の権利を自らの権利と競合するものと捉え、諸権利問題に順列をつけ整理しようとする「正義の倫理」が重視され、その結果、他者への共感や自己批判の中で生じる他者への責任といった、弱いものへの視線から発せられる「ケアの倫理」が見過ごされがちになっている。ギリガンは、社会においてはこの「正義の倫理」だけでなく、「ケアの倫理」の重要性が考慮されるべきだとし、両者は相反するものではなくむしろ統合されるべきだと主張した。「何が正しいか」と問う正義の倫理とは対照的に、「どのように応じるか」というプロセスを重視するケアの考え方は、昨今の自己責任論の限界を提唱する概念としても注目を集める。新自由主義に起因する経済格差、さらにコロナ禍によって、既存の価値観だけでは乗り越えられない状況に直面する現在は、自らの権利を他者と競合するものとして捉えず、むしろ見知らぬ誰かのニーズを代弁し、それに応えようとする想像力と判断力が求められていると思う。このようなケアの根底にある考えは、民主主義の後退に抗い、人々に政治的市民としての特性を養う力をも有している。

その後、哲学者のエヴァ・フェダー・キテイはケアをめぐる思想に大きな発展をもたらした。彼女は、誰もがみな母親の子供であるという素朴な前提に警鐘を鳴らしながら、ケアする側の中動性について言及する。ケア労働は、依存する者たちの生死に関わるため、それは誰かが担わなければならないものであり、この道徳的問いかけが家庭内でケア労働を行う女性たちを苦しめているという。このような状況に置かれる多くの女性たちは、強制されたわけでもないが、自由な選択でもない責任の引き受けを「公的に精査しなくともよい私的な出来事として、やり過ご」されてしまう。しかし同時に彼女は、ケアを「他者への依存を不可避とし、偶然とも言える相互依存のなかで、他者のニーズを充たすために、ときに奔放する人々の実践から世界を捉える」ことだと定義し、ケアがもたらす広がりを幅広い範囲に訴えかた。日本でも、フェミニズム思想家の岡野八代氏は、幼児期から老齢期まで、「人間は誰かに一方的に依存しなければ生きていけない時期」があり、誰もがケアされる人間になりうるし、それをケアする人も常に存在する、といったケアする側とされる側に想像力を促す思想を提唱する。誰しもをケアの関係の中に位置付け、またその政治、社会的意義を再認識することにより、二元論的思考や正義を追求する姿勢、あるいは競争や市場原理主義に基づく強権主義などとは相反する価値観の中で、個人では克服困難な出来事を対処できる可能性が注目されている。このような思想的背景をもとに、卒業プロジェクトでは複数のケアの現場へのフィールドワークを行おうと考えた。フィールドに複数の現場を選んだのは、ケアを題材にした鷲田清一著作の『〈弱さ〉の力』を参考に、一つの現場に囚われないケア概念の広さや可能性を理解したいと考えたためだ。

哲学対話

春学期は「哲学対話」に参加し、一つの問いをめぐって発生する対話の中におけるケアについて理解を深めた。そもそも哲学対話とは、1960年代にアメリカで始まった「子供のための哲学」という活動が起源であり、思考力を鍛えるプロセスとして他者との対話に着目した取り組みである。現在は日本の教育現場においても、アクティブラーニングの一環として取り入れられるようになり、さらには地域での活動として哲学対話が開かれることも度々ある。一般的な哲学対話の授業では、生徒同士が「生きるとは何か」「自由とは何か」といった素朴な問題や身近な問いについて、意見を出し合い、考えを深めていく。一見ケアとは遠く見える実践ではあるものの、ここでは容易に答えの出ない問いを考え抜き、またそれを自己のうちに受け入れる力を育成するとともに、対話を通して得られる他者への共感や想像力を養うことも期待される。これらは、「他者と関わる」という広い意味でのケアの実践として捉えることができる。

私は今年度の5、6月にかけてオンラインでの哲学対話に参加し、主に大学生同士で哲学的問いを介した対話を行った。1回目の問いは、「大人になることとは何か」、2回目は「間を読むとは何か」、3回目は「愛したいか、愛されたいか」という問いで哲学対話を行なった。対話は全て4〜5人で行い、2時間ほどかけて一つの解答に辿り着こうと意見を重ねた。はじめは、誰がどのような意見を出したか、どのような方向性で対話が帰結したのかを分析しようとしたが、数回参加してみると、その内容に一定の方向性はなく、参加者それぞれがその場での対話を即時的に楽しんでいることがわかった。

哲学対話の魅力とケア的側面

 そこで、なぜ人々は哲学をするために集うのかという疑問と、私自身が参加することで実感した対話後の変化を手がかりに、哲学対話におけるケア的要素の分析を試みた。そもそも、哲学対話は普段の日常会話や大学でのディスカッションとは明らかに違う他者との関わり合いであった。その特殊性は、対話が行われる以前の場の設計によって色濃く表れている。私が参加した哲学対話では、対話が始まる前に以下の3つのルールが必ず参加者に共有される。①哲学の専門用語を使わない、②人の話は遮らない、③否定的な言葉は使わない、という3つである。これは、哲学対話に勝ち負けではない、という前提によって作られた参加者が常に心に留めておくべきルールである。また、オンラインという特殊な状況下では、頷き、聞いている姿が見えるよう、「なるべく画面をオンにしてください」と運営の方からの呼びかけが行われる。さらに、一般的な哲学対話は、年代によって気になる問いがや共感できる部分が異なることを前提とするため、近い年代の人と対話することを基本としている。哲学対話では、対話をするという能動的な行為よりも、誰かの話を聴くという受動的な姿勢が何よりも重要となり、一人ひとりの意見が同じように尊重される場の設計が意図的に行われている。そのため、場の設定は他者の意見を受け止めるという行為自体が重要視され、他者のこぼれ落ちるような疑問や率直な意見を受容できる環境を意図的に作り上げるのだ。

集まった人たちは一人ひとり、違う場所からこの世界、この社会を見ている。そして、その全体を俯瞰できる人はどこにもいない。だから哲学カフェは、語ることと同じくらい聴くことを大事にする。(鷲田清一,『哲学の使い方』)

普段、私たちは他者との会話の中で、無意識的に順序をつけて聞くことや話すことを実践している。「この人の意見は合理的だから聞こう」「この人は偉いから正しいことを言っているはずだ」「この人の言っていることはよく分からないから聞き流そう」などといったように、正しさを基準とした正義の視点で他者をジャッジしてしまう。その結果として、自分自身の発言も、合理的かつ論理的であらねばならないというプレッシャーを受け、誰かの顔色を伺って本音を言うことを制限してしまうのではないか。しかしながら、一つの哲学的な問いを前にしたとき、私たちの間に差異は存在せず、それぞれの生きる現実が同じ価値を持ち、またそこから発せられる意見も同じように尊重される。正義が重視される社会の風潮の中で、哲学対話は他者の意見の尊さや素晴らしさ、そして自分の意見の価値を再確認できる、そんな特殊な場であった。これは、紛れもなく哲学対話が「聴く」ことを重視し、その場に誰しもの意見を受容する態勢が存在するからだと感じた。この聴く態度を持つことから出発した対話は、まさに他者を他者として尊重するケアの倫理によって構成され、自己と他者の関係性の再編を促す特別な対話の試みであった。

今後

春学期は主にこの哲学対話に参加しフィールドワークを行なった。一般的な「ケア」の観点から見ると、少し特殊なフィールドではあったが、ケアの可能性やその議論の範囲を広げたいという狙いには合致した取り組みであったと評価できる。そして、哲学対話の調査に加えて、学期終わりには神奈川県藤沢市のケア施設「あおいけあ」や多世代居住アパート「ノビシロハウス」の見学に行き、従来のケア現場における調査にも少しずつ着手し始めた。そもそも、高齢者の数が増え続ける日本では、介護職の担い手とその重要性が増しているものの、医療職・介護職だけでは社会を支えるには不十分である。そこで、日常的なケアの必要性を広めるために、現在さまざまな取り組みが行われており、「あおいけあ」や「ノビシロハウス」はその先駆けとして世界から注目されている存在である。一般の人とケア現場を隔離するのではなく、むしろうまく融合し、多くの人との交流の中で自然とケアが生じる場づくりが行われており、その特殊性に私自身も強く惹かれた部分があった。

今後、調査を進めるにあたって、このようなケア現場に焦点を当てるのかは検討中である。広義のケアについて考察したいという目標とは齟齬が生じる懸念もあるが、実際のケア現場の実態を知る必要性もあると考えている。ケアというテーマの中で何を見出したいかという目標が明確ではない中で、フィールドを決定し、調査を進めていく難しさがつきまとうが、今回哲学対話の参加を経て感じた自分自身の感覚の重要性は忘れないでいたいと思う。私自身が、「ケア」という行為そのものに対して敏感になり、日常生活にあるさまざまな場面でその要素を見つけ出し、またその意義を語れる存在であれるように、今後も学術的な理解を深めつつ、調査を進めていきたい。

フィクション映画監督という立場が持つ暴力性への抵抗

(2022年8月7日)この文章は、2022年度春学期の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

中田 江玲

なぜこの研究を行うのか

① 社会的背景

2022年、著名な映画監督による性加害が立て続けに告発されたことが契機となり、日本の映画業界におけるハラスメント行為の常態化に対する批判が強まった。同年3月18日には映画監督6名によって構成される映画監督有志の会が「私たちは映画監督の立場を利用したあらゆる暴力に反対します」という声明を出すなど [1]、映画業界における労働環境改善に向けた活動が従来よりも顕著に見られるようになった。

映画製作を進める上での決定権を多く持つ監督という立場は、その特性により映画製作の現場において優位的である。映画撮影の現場は、慢性的な人材不足・長時間の拘束・低賃金などの不安定で劣悪な労働環境であるため[2]、身体的・精神的負荷がかかりやすい。このような負荷は権力に関係なく生じるが、監督やプロデューサー、助監督などはそれらの立場が持つ優位性を利用してハラスメントというような暴力行為に至りやすい。

また、映画撮影の現場において契約書を交わすことなく就労しているスタッフが多いため、個人が権利を主張しにくい環境であり、それによって権力関係をより強固なものにしている。2019年度に経済産業省が行った調査によると、映画スタッフのうち約8割がフリーランスであり、そのうち仕事に従事する際に契約書を貰っていないと答えた人が過半数を占める[2]。働く内容に合意が取れていないまま撮影現場に入ることで柔軟に働かざるを得なくなり、過度な要求に対しても異議を唱えにくくなっている。

映画が芸術的な文脈において語られることも、監督という立場の権力を強めている要因の一つであると考えられる。ビジネスとして商業映画を製作する場合、その映画には資金に相応した、あるいはそれ以上の価値が求められる。映画の価値は娯楽性と芸術性という2つの面によって評価されるものであり、前者は興行収入によって、後者は個人によって判断される。映画祭において受賞する映画が審査員による話し合いで決められることは、映画の芸術的価値が個人に委ねられていることが分かる例である。製作中、つまり公開前の映画である場合、興行収入によって映画の娯楽的価値を量的に判断することは難しい。そのため撮影したカットに価値があるか否かの判断は監督個人の芸術的感覚に委ねられる場合が多く、監督の曖昧な指示が許容されやすくなっている。監督による指示の正当性を求めない状態は、撮影を進める上でスタッフや役者との合意形成を無視できる権力を監督という立場に与えることになる。

映画監督という立場を利用した加害行為が無視されてきた背景があるからこそ、私は『暴力性』という言葉を用いながら向き合うことの重要性を感じている。そして、映画監督という立場が『暴力性』を必ず備えてしまうからこそ、それに警戒し、思考と実践による終わらない抵抗を持続させなくてはならない。

② 個人的背景

私はカメラを持って撮影し、監督として演出を行い、編集をする。自ら映画監督であると名乗れるほどの実績はないが、監督として携わった映画を見てもらえる機会がここ数年で少しずつ増えている。そのような状況の中、今まで自分が監督として携わった映画製作を振り返り、自分が備える暴力性に対して自覚的であったか不安に思うことがよくある。自分の属性に対する理解が深くなければ、自らが有する特権に気付かず、無自覚な差別を行ってしまう。映画監督という立場を経験し始めたばかりの私には、その立場が備える優位性や権力によって生じる暴力を想定しきれておらず、無自覚に誰かを抑圧しているのではないだろうか。

フィクション映画を作る際、監督やプロデューサーが企画の立案を行い、脚本家が脚本を執筆する。近年は映画監督が脚本も兼任することが多いため、脚本の中に登場するキャラクターが監督の想定を超える動きをすることはほとんどないと言えるだろう。一方で、映画撮影現場になるとキャラクターの主体が役者まで拡張されるため、監督が想定していたものとは異なる動きをキャラクターが行う可能性がある。私には、役者がもたらすキャラクターの未知性に対して驚き、十分な合意が得られないままに監督という立場を利用して指示通りに演じさせようと試みてしまった経験がある。

映画撮影の現場では、監督が行う演出に対して役者は「はい、分かりました」と応答し、議論することなく演技がなされる場合が多い。私が監督として参加した映画の現場でも役者と意見がすれ違うことは特になく、キャラクターの主体が映画撮影の現場で拡張されるという作用を意識していなかった。役者によって与えられるキャラクターの未知性を私が初めて自覚したのは、前回の映画撮影時に役者から「私のキャラクターはそう振る舞わないと思います」と意見を言われたときだった。今でもその時に私がつけた演出が間違っていたとは思わないが、その時の対応に対してはもっと別の方法があったと考えている。物語全体を考えながら、各シーンにおけるキャラクターの動きに整合性があるかを確認するのは監督という立場が担う役割である。そのため監督は役者と話し合いながら、キャラクターの主体を共に作り上げていく必要がある。一方で、キャラクターの主体が役者まで拡張したことを無視し、役者がもたらす未知性を恐れ、十分に議論もしないまま排除しようとすることは暴力的な行為である。

映画撮影時に監督が役者に演出を行う際は、役者という立場のもつ中動性に意識を向けなければならない。役者が自らの身体を能動的に動かして演技をしていたとしても、そこには監督の意向に基づき動かなければならないという受動性が権力関係によってもたらされていることも無視できない。監督の演出通りに役者が演技を行ったとしても、監督が(無自覚であっても)その立場を利用して役者の自由意志を奪っている可能性は常に存在している。このような役者という立場のもつ中動性を理解した上で、なるべく監督と役者が合意した演出の上で演技が行われるように、キャラクターの行動原理や行動の意図、または感情の表出方法について話し合うべきである。とはいえ、権力関係の中での合意は双方の意思を完全に反映しているとは言い切れない。そのため監督という優位な立場からは、役者の自由意志を奪わないための働きかけを行うことしかできない。

私はこのような背景から、映画監督という立場が備える暴力性を自覚しながらも、それに抵抗し続けるための研究を行うことに決めた。

研究の目的

まず、映画監督という立場の持つ暴力性をなくすことは不可能であるということを念頭に置く必要がある。映画監督という立場が持つ優位性はその決定権に由来しているが、映画製作を進めるための判断を行うことは監督という立場のもつ役割であるためそれを回避することは不可能である。本研究は、課題解決といったような正解を求める活動ではない。

この研究の目的は、映画監督の持つ暴力性をなくす特効薬を見つけることではなく、映画監督という立場が備える暴力性についての理解を深めることである。

また、本研究では映画監督という立場にのみ焦点を当てているが、映画製作において暴力性を備えているのは監督だけではないということも明記しておきたい。映画監督という立場から振るわれる暴力の可能性にのみ気をつけ、警戒すればよいわけではない。私が最終的に目指すのは、映画製作に関わる全ての人が安全に、安心して製作活動に携わることができる環境である。

研究方法

フィクション映画監督という立場が持つ暴力性に対する理解を深めるためには、映画製作の現場に入り、フィールドワークを行うことは必要不可欠である。一方で、どのような立場から観察を行うかについては選択の余地がある。1つ目の方法として、調査者として映画製作に直接関わらずに記録のみを行うことが挙げられる。2つ目は、映画監督以外の立場から映画製作に関わり、調査を行う方法だ。そして3つ目の選択肢は、研究者自身が映画監督として映画製作を行う調査方法である。私はこの中から、3つ目に挙げた方法を実践することに決めた。

この研究テーマを決定してから、監督以外の役職で撮影の現場に入った。調査目的ではなかったが、その経験から監督自身でなければその立場が備える暴力性について気付けないであろうと感じた。調査者として映画監督という立場の備える暴力性を観察するためには、暴力が実際に実践されなければならない。そのようなことはあるべきではなく、なおかつその場合は研究目的である「フィクション映画監督という立場が持つ暴力性への抵抗」から外れてしまう。一方で、研究者自身が映画監督として映画製作に関われば、暴力の実践可能性を感じた時点でその立場のもつ暴力性を観察し、記録することができる。実際に今までの私が監督として映画製作を行う際、「このように振る舞うと、監督の持つ権力によって相手を威圧してしまう可能性がある」と感じ、気をつけた経験がある。卒業をした後も私自身がフィクション映画を監督する際にこの研究の内容を実践していくためにも、研究者自身が映画監督として映画製作を行う調査方法が最も有用であると考えた。

本研究では、研究者である私自身が監督としてフィクション映画のある特定のシーンの製作を複数回行い、その過程を記録する。製作する映画への理解度によって権力関係が強まることを懸念するため、映画の製作は全て同じ役者とスタッフで行う。また、この研究で観察する映画製作は<本読み>から<上映>までとする。

「なぜこの研究を行うのか」で挙げたように、映画監督はその立場を利用して、役者との合意形成を回避しながら演出をすることが可能である。一方で、これは役者の自由意志を奪うことにつながるため、行われるべきではない。このような暴力が生じやすい構造を考慮し、本研究では映画製作の際にLearning Trough Discussion(=LTD)という手法を用いる。これはアイダホ大学のWilliam F. Hill 博士が1962年に考案した共同学習法の技法であり、論理的・批判的思考スキルの改善や、言語スキル・コミュニケーションスキルの改善などの効果が得られるとされている。[3]映画製作において表現の擦り合わせを行うためには、脚本を正確に読み取り、キャラクターなどの行動についての考察を言語化する能力が必須である。もしこのような能力がなければ、演出を行う際に合意形成を試みることができず、監督という立場を利用して、暴力的になる可能性が大きくなる。LTDを使用することにより、演出意図の説明が要求されやすくなる環境を作り、映画監督という立場が持つ暴力性への抵抗を示していく。

本研究では、映画製作における脚本読解用にLTDの内容を以下の通りに応用する。

卒プロ2に向けて

2022年度春学期は、映画監督という立場や映画業界のもつ構造的な問題点について明らかにしてきた。卒プロ2では、映画監督という立場が備える暴力性に対して警戒しながら、監督として実際にフィクション映画を制作していく。

参考文献
  1. action4cinema /日本版CNC設立を求める会│「私たちは映画監督の立場を利用したあらゆる暴力に反対します。」(2022/3/18) https://action4cinema.theletter.jp/posts/877aa260-a60c-11ec-a1bd-3d3b3c9fc3bd
  2. 経済産業省│「映画制作の未来のための検討会 報告書」(2020/3) https://www.meti.go.jp/meti_lib/report/2019FY/000489.pdf
  3. 安永悟│「実践・LTD話し合い学習」ナカニシヤ出版(2016)

札幌と私の生活史

(2022年8月7日)この文章は、2022年度春学期の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

大河原 さくら

1. 生活史と私

岸正彦編、東京の生活史に聞き手として参加し、生活史を知った。東京の生活史とは、150人が東京にまつわる150人に生活史の聞き取りを束ねた一冊である。生活史とは「個人の人生の語り」のことであり、質的調査法の一種である。私は、大阪から東京に拠点を移したばかりの構成作家の方に聞き取りを行った。聞き取りを通じて、今まで感じたことのない確かな手応えを感じた。それは、誰かが残さないと残らなかった語りであるという語りの固有性への実感である。政治家やスポーツ選手などの著名な人物の語りは残されやすい。しかし、私たちのような一般人が語ったことはさまざまな人がアクセスできる形でアーカイブされづらい。その固有性に聞き取りを行うやりがいと意義を感じた。「普通の人」の語りを集めたスタッズ・ターケルの「仕事!」や「大恐慌!」では、語りの生々しさに圧倒される。上記の2冊のような、個の集積となる一冊を制作したいと考えた。

また、「札幌と私の生活史」は、一般化に抵抗する一つの手段である。女性か男性か、学生か会社員か、私達は社会的なラベルを受け入れて生活をしている。それらのラベルは、他者を判断するには効率的に作用する。しかし、ラベルに囚われ、他者を理解することを蔑ろにしていないだろうか。私は長い語りに耳を傾け、そして残すことによって一般化へ小さく争いたいと考える。

「問題発見・問題解決」を掲げるSFCにおいて、切実な問題意識がないことに長い間焦っていた。学部の前半では、問題解決の手法を学べる授業を履修したり、研究会に所属した。しかし、生活史を知ったことで、そもそもの問題発見、設計を探ることに時間をかけても良いと知った。そう考えたのは、今期のオーラルヒストリーの学びが大きく影響している。ゲスト講師であった岸政彦先生の授業では、語りを残すことそのものの価値を知った。また授業の担当教員である清水先生から、研究において情報収集や材料集めに時間をかけることの実感を得た。卒業プロジェクトという限られた機会において、結論を出すことを急がず、語りの収集に集中する決意をした。

2. 札幌と私

大学3年の秋学期から休学し、札幌に移り住んだ。感染症の爆発的な流行による自粛生活でストレスを蓄積し、生活圏を変えたいと切に感じたことから移住した。札幌は、父親の仕事の関係で小学3年生から中学3年生まで過ごした土地である。また、大学2年時に参加した移住イベント、「北海道移住ドラフト会議」も大きなきっかけである。移住したい参加者を「選手」、移住してほしい地域や企業を「球団」とし、北海道への移住を促す逆指名型のイベントである。

小中学校では学校外での出会いはほぼなかった。しかし、大学生になり交友関係が広がり、北海道の人の魅力を実感した。イベントで出会った地域のプレイヤーは、心から北海道という土地の可能性を信じていた。課題先進地域と呼ばれる北海道でゲストハウスを開き、観光資源を最大限に生かそうとする人、地域おこし協力隊として街の魅力を発信する人など、自分の特性と地域が重なる方法で課題解決に取り組む人々に出会った。その姿を目の当たりにし、一時的な滞在ではなく、長期的に暮らすことで北海道の魅力、そして限界を観察したいと感じたこともきっかけである。

札幌は積雪量が120cmを超えるにも関わらず、人口が190万人を超える世界にも例を見ない都市だ。生活するうちに札幌に暮らす人々のおおらかさや他者を排除しない志向に居心地の良さを感じていった。干渉しすぎないが、困ったときにはお互い様であるという支え合う文化に触れた。数ヶ月後、資金もなく、働き口もなかった私が一人暮らしを賄えるほどとなった。これは紛れもなく札幌で出会った人々からの援助によるものである。9ヶ月間生活する中で、札幌という街が居場所であり、逃げ場所となった。札幌への湧き上がる思い入れの原点は出会った「人」である。私の札幌を構成する、その人々の語りを残したいと考えるようになった。

3. 聞き取り

2021年9月から聞き取りを開始した。東京の生活史の際に受講した研修、また「ライフストーリー・インタビューーー質的研究入門」(桜井厚,小林多寿子)や「プロカウンセラーの聞く技術」(東山紘久)、「質的社会調査の方法--他者の合理性の理解社会学」(岸正彦,石岡丈昇他)を参考にしながら行った。生活史の聞き取りで、最も課題に感じているのが「積極的に受動的になる」という姿勢である。これは、前述の研修での岸正彦先生の言葉である。生活史は、項目を明確に決め、順番通りに聞きとる構造化インタビューとは異なる。生活史の聞き取りにおいて、その場に身を任せ、語りをサポートするように聞きとる。語りを遮らないように適切な相槌をうち、語りの一部を反復するなどして話を引き出す。聞き取りを重ねる中で、徐々にこの姿勢を会得しつつある。当初は、面白い話を引き出そうと前のめりに語り手と向き合っていた。しかし、それでは相手を萎縮させてしまう。問いを立てたり、相槌を打つことで、語りの補助線を引くようにきく。2、3時間にも及ぶ聞き取りの中で、いかに相手が喋りやすい相槌や問いを立てるかが重要だ。オーラルヒストリーの授業での言葉を借りると、「温度のあることば」をできる限り多く拾い上げられるように努めている。

4. 「すすきのと私の生活史」から「札幌と私の生活史」へ

卒プロの構想を始めた3年の秋学期では、札幌の中でも繁華街であるすすきのに焦点を当てていた。すすきのはアジア最北の繁華街であり、無数の飲食店がひしめきあう。札幌で生活する中で、外食の際にはすすきのに出ることが多かった。飲み屋で出会う人々は生活圏内のコミュニティとは外れ、多様なバックグラウンドの人々が多く、刺激的だった。札幌最古の地下街「すすきの0番地」では、獄中で陶芸を極めた人、透視ができるサラリーマン、昼の11時から12時以外は常に飲酒している人など、本当か嘘かわからない話を聞かせてくれる興味深い人々ばかりであった。最初はそんなすすきのの有象無象の語りを残したいと考えていた。

しかし、知人から聞き取りを始めるうちに考えが変わっていった。清水先生から「そもそも大河原さんがなぜ札幌、そしてすすきのに魅力を感じているのか考え直してみたら良い」と言っていただいた。そこで、加藤研での発表や同期への相談をするうちに、すすきのという土地というより、そこで出会った人々に惹かれていると改めて気がついた。今までは繁華街である「すすきの」に絞って語り手を一から探していたが、私の生活圏であった札幌市全体に広げることにした。

聞き取りを行う中で、気づいたことが2点ある。1点目は、ごく狭い界隈での共通言語や共通知識を無意識のうちに体得していたことである。役所の方の個人名や地域では有名な飲食店、複雑な人間関係など9ヶ月間のうちに共通知識を獲得していたことを実感した。個々の文脈を理解していることで、より一歩迫った話を聞くことができる。一方で、界隈の狭さへの違和感や居心地の悪さもまた事実である。独特な界隈性を言語化していくというのも一つの方向性だと感じている。

2点目は、札幌市民は人の流動性に慣れているということである。エキセントリックリサーチの中間報告会で石川先生に「札幌は移動民が多いのでは」と指摘をいただいた。確かに、転勤、Uターン、Iターンで札幌を訪れる人々に多く出会ってきた。中には定住を強く決意するのではなく、自身のライフキャリアを鑑みて移住する人々もいる。私自身もその1人だ。一時的に札幌を離れ、東京で暮らしている語り手もいる。札幌市民には移動民を受け入れる心理が働いているのかもしれない。

上記の2点の仮説を携えつつ、聞き取りと編集を進める。語り手は私が札幌で生活する中で出会った人々である。アルバイト先の上司、通っていたカフェのオーナー、インターン先の先輩など、私の札幌の生活の一部だった人々に聞き取りを行う。

5. 既存の生活史を読む

すでに出版されている生活史集を読み、編集方法を検討した。1つ目は「新宿情話」(須田慎太郎)である。本書は、新宿で暮らし、働く人々の語りを束ねた本である。語り手は踊り子や風俗嬢、喫茶店のオーナーなど、繁華街ならではの職業が目に付く。語り手の氏名や職業などを明記しており、聞き手による語りの解釈も含まれている。聞き手がフォトジャーナリストということもあり、語り手の写真も掲載されており、語りをより現実的なものとして読むことができる。

次に、「東京の生活史」(編・岸正彦)である。自身も聞き手として参加した。聞き手を公募し、150人が150人がきいた東京にまつわる語りを束ねた一冊だ。2022年には、紀伊國屋じんぶん大賞を受賞した。岸正彦氏は「必然的に、偶然集まった」東京の街を著した一冊だと述べる。語りは1万文字ほどで、「あ〜」や「えっと、」などを削らずに文字起こしし、編集がされている。聞き手の解釈はなく、語り手らしさを残す編集がなされている。

他にも「仕事!」「大恐慌!」(スタッズ・ターケル)、「ハマータウンの野郎どもー学校への反抗・労働への順応」(ポール・ウィリス)「街の人生」(岸正彦)を参照する中で、できる限り聞き手の解釈を介せず、語り手の語りのままを残したいと考えるようになった。札幌と私の生活史は、研究の材料としての資料ではなく、ただ語りを語りとして残すための一冊だからである。東京の生活史を主として参考とし、聞き取りと編集を行う。

6. 展望

「札幌と私の生活史」を一冊として完成した暁には、聞き取りに協力してくださった方との場を札幌で企画し、本を直接お渡しすることを目指す。そして、卒業後、札幌と私の生活史を携えて、東京の生活史の札幌版を企画したい。