アンオフィシャル・ガイド(1)個人展示編
ぼくたちは、毎年2月上旬に「フィールドワーク展」を開催しています。学部4年生・大学院生のプロジェクト報告や、学部1〜3年生のグループワーク、全国のまちを巡る「キャンプ」など、加藤研究室の1年間の活動成果を報告する場です。2004年度に第1回を開催して以来、今年度で14回目となります(これまでに開催した「フィールドワーク展」→ http://fklab.today/exhibition)。今回は「いろんなみかた」というタイトルで、展示の準備がすすめられています。
そもそも、フィールドワークは身体全体で受けとめる体験なので、その成果はパネルにしたり展示台に載せたりできる性質のものではありません。しかしながら、あえて何らかの形をあたえることで、会話のきっかけをつくることができます。語られることによって、フィールドワークの体験が(不完全ながらも)再現されます。会場にいる研究室メンバーとのコミュニケーションをとおして、ぼくたちの活動に触れていただければと思います。なにより、まちなかで展覧会を開くのは、フィールドで考えたこと・気づいたことは、フィールドに「還す」べきだと考えているからです。
1月12日から、「広報担当」の学生たちを中心に、Facebookのページ(https://www.facebook.com/fw1014/)で展示内容の紹介がはじまりました。ぼくのコメントを添えながら共有してきたので、コメントの部分だけ、ここで束ねておきます。つまり、「アンオフィシャル・ガイド」です。まずは個人展示編から。
移動する「家族」(“Families” on the move)|大橋香奈
ビデオカメラをもって、人びとの暮らしに近づこうするとき、とくに調査対象者との信頼関係に細心の注意を払うことが大切です。適切な距離を保ちながら、過度に感情を移入しないように努めなければならない。それを意識していても、フィールドワーカーは、ひとりの人間です。現場に足をはこび、調査対象者との関係が深まるにつれて、そう簡単に「折り合い」がつかないこともあります。現場とかかわりを持たない〈観察者〉ではなく、むしろ、能動的に現場に介入してゆく〈関与者〉としての自分に気づきます。
『移動する「家族」』は、人と向き合い、ともに編纂することで紡がれる〈ものがたり〉です。少しずつ撮影がすすみ、今年が3回目の上映です。一昨年、昨年はちいさなディスプレイでしたが、いよいよ大きなスクリーンで最新版を鑑賞することができます。この作品には、さまざまな「家族」の移動ばかりでなく、じつは作者自身の移動の軌跡も描かれているのだと思います。
Montage|松浦李恵
ケータイやスマホとともに、「インスタ」は、私たちの日常のリズムに浸透しています。いつでもスマホを片手に歩き、「インスタ映え」などと口にしながら、まちのようすや運ばれてきたランチの写真を撮って公開する。口コミ効果に期待して、わざわざ「撮影用」と称して準備をしている店さえあります。このちょっと不思議なふるまいは、いまや全世界的に広がっているようです。
「インスタ」にかぎらず、多くのSNSはタイムラインという、ひと筋の流れをつくります。それは、刻々と流れゆく性質のものです。『Montage』は、まずはこの流れを復元するところからはじまります。私たちは、正方形に切り取られた〈モノ・コト〉から、そのときのようすを思い出すことができます。それは、「インスタ」にならなかった、フレームの外側にあった〈モノ・コト〉の記録です。一連の流れとして眺めると、写真と写真の〈あいだ〉にまで意識が向かうはずです。なにより、「インスタ」は私たちのイメージを表現し、交換する装置です。〈モノ・コト〉の真偽は、さほど重要ではないのかもしれません。新宿ゴールデン街に「住む」|大川将
フィールドワークは、孤独な作業です。とりわけ「参与観察」は、試行錯誤をしながら現場にとけ込んでゆく、時間を必要とする手続きです。『新宿ゴールデン街に「住む」』というタイトルどおり、しょうは、ゴールデン街に通い続けました。1年間でも、「こちら側」と「向こう側」を行き来していると、調査者自身も変化します。実際に、しょうは、少しずつ「向こう側」のことを自信をもって活き活きと語るようになりました。それは、フィールドワーカーであることの自覚の表れだったのでしょう。
調査の成果は「小説」として綴られました。すでに全文を読む機会があったのですが、「フィールドワーク展」では体裁が整えられた「本」を読むことができるはずです。研究会(ゼミ)での最後のプレゼンテーションが、あまりにも印象的だったので、その晩、ぼくはこんなふうにツイートしていました。
😌自分が積み重ねてきたことを丁寧にふり返りながら、「去年の今頃」を想う。その過程を、遠巻きながらも眺めてきた。実体験に裏打ちされたことばは、やはり重みがある。静かなのに心が波立つような、愉しいのに哀しいような。いいプレゼンテーションだった。— 加藤文俊 (@who_me) 2017年11月28日
Variety of Interactions|Chrysoula Panagiotidou
ぼくがアメリカの大学院に留学して、初めて(英語で)書いたレポートの評価は「C-」でした。期限までに、レポートを書き終えるだけでせいいっぱいだったのを覚えています。教室にいるときは、聴くのに一生懸命で、意見を求められても「文章」ではなく「単語」で応えるような感じ。それなりに大変だったのですが、ふり返ってみると、あの頃の日々が、じぶんの考え方やふるまいに少なからず影響をあたえているように思います。あれからずいぶんと時間が流れて、いまは、じぶんが留学生を受け入れる立場になりました。
クリサは、少しずつ日本語を使うようになって、いままで以上に好奇心をかき立てられているように見えます。ことばが変わると、見える〈世界〉も変わるからです。もちろん翻訳できないことはたくさんあって、とくに意味づけや表現にかかわるやりとりは、もどかしいはずです。でも、その不自由さがあればこそ、「伝え合う」ことの大切さを実感します。ことばがわからなくても、つまり、ことばがなくても、「だいじょうぶ」だと思える場面がたくさんあることに気づきます。まずは、語らう時間をつくることからはじまるのでしょう。
その意味で、「STAND BY YOU」は、とても難しいプロジェクトでした。というのも、「普通じゃない」選択をした人びとにインタビューをしている、きよと自身が「普通じゃない」選択をしてきたからです。調査のデザイン自体が、調査者とインタビュー相手との距離の調節が難しい状況を生み出しています。お互いに共通点があるからこそ理解できることはたくさんあるはずですが、上手にじぶんを「異化」しないと、何もあたらしいことは見えてきません。そのチャレンジに、どのように向き合ったのか。成果物の仕上がりに、期待しましょう。