Day 4:ふり返る
2018年8月9日(木)11:00〜(@大学)
⛅️4日目。台風の行方が心配だったので、1時間遅れでスタート。結局のところ、東京・神奈川はさほど影響を受けずに済んだようで、朝から蒸し暑くなった。きょうは、これまでの3日間のフィールドワークのふり返りをおこなう。
折り本
まず「折り本」は、データの一部を修正し、簡単な紹介文を添えて、PDFファイルとともにウェブで公開した。コンビニのネットプリントを利用して出力してみたが、なかなかキレイにできた。今回は、グループ(ペア)で一冊。やろうと思えば、ひとりで一冊もできるはずだ。そうなると、たとえば20人でまちを歩けば、20冊のちいさな本ができる。それは、まちがいなく楽しい。
[折り本をまとめてダウンロードする http://fklab.net/pdf/sakuragaoka_orihon.pdf]
マップ
つづいて、3日間のフィールドワークをふり返りながら、みんなでマップ上に「ピン」を立てた。8人が、それぞれの歩いた軌跡や出会った〈モノ・コト〉を思い出しつつ、同じマップ上に「ピン」を立て、コメントや写真を載せた。他愛のないものもあるが、もちろん、それでかまわない。一人20個くらいを目安に作業したので、地図はだいぶ賑やかになった。ひとまずひと区切りということで、このマップは、しばらくこのままにしておくつもりだ。というのも、できるかぎり(少なくともいまの段階では)、みんなの意見を集約するようなことはせずにおきたいからだ。
8人いれば、その数だけ、桜丘町での過ごし方がある。一つひとつの「ピン」は、じぶんの(あるいは誰かの)主観的・個人的な体験の記録だ。それをマップという形で一覧しながら、こんどはその断片をつなぎ合わせてみる。じぶんの「見え」を見つめ直して(Seeing the "seeing" of onself)、さらに他者の「見え」を参照しながら(Seeing the "seeing" of others)、桜丘町を再編成してゆく。そのプロセスで、ぼくたちはさまざまなことを学ぶ。そのためにも、すべての「ピン」を集めてグルーピングしたり、ラベルをあたえたりすることは、ちょっと保留しておく。ばらばらにしておくのだ。
桜丘のマップ|8月5日(日)〜7日(火)までの3日間、桜丘町を歩いて気づいたこと・感じたことを、一人ひとりがマップ上に位置づけた。(※アイコンをクリックするとコメントや写真を参照できます。)
スライド資料から
この一連の考え方は、『キャンプ論』*1でも触れているが、『ものと人の社会学』*2の序文「スナップショットの方法」に負うところが大きい。実際に、今回のプロジェクトにかぎらず、ぼくたちのふだんの活動を整理し、実践的な活動に結びつけるさいに、この論考は役に立つ。
スライドに要約しているとおり、まずは、じっくりと眺めることから。ぼくたちは、まち歩き/フィールドワークの成果を、すぐに言語化・形式化しようとしがちである。言うまでもなく、その要請がある場合も少なくない。多くの人は、わかりやすい「こたえ」や「手がかり」が求めているからだ。だが上述のとおり、ことばを当てはめることは(ひとまず)しないでおく。
その上で、一つひとつの「ピン」(一枚一枚のスナップショット)を組み合わせて、じぶんなりのストーリーを構成してみる。そのプロセスをとおして、じぶんにとってのまちの理解がかたどられることになる。ひとたび輪郭が見えてくると、こんどは、その「外側」へと想像力をはたらかせることができる。
2007年の夏(もう、ずいぶん前だ)、「100人の浅草モダン」という企画にかかわる機会があった。100人の参加者が、それぞれレンズ付きカメラを手にして浅草のまちに散る。決められた時刻までに撮り終えて、あとですべての写真を展示するというものだ。東京駅、築地、東京タワーなど、対象地を変えながら、何年か続けて実施されたイベントだ。その概要などをまとめたリーフレットに、『みんなの写真』というタイトルの文章を寄せた。*3
ふだんは、気に入ったものだけえらんだり、適当に順番を並べかえたりして、写真を眺めることが多いのですが、この展示は、撮った写真がすべて、しかも撮った順番どおりに並べられてしまいます。これは、あとから編集することが許されない、「連写真」ともいうべきものです。正確な時間まではわかりませんが、27枚の写真を順番に見ていくと、どのような順序で、何を見ながら浅草での時間を過ごしたのか、歩いた軌跡を大まかに復原することができます。「連写真」は、紙芝居のように、じぶんの状況を追体験できることが愉しいのですが、写真と写真の「あいだ」の部分も気になります。コマとコマの「あいだ」にじぶんが何をしていたのか…。それを考えてしまいます。途中で学生たちと早めのお昼を食べて、ビールを一杯。その「あいだ」は、撮影が中断されます。シャッターを押さなかったという「記録」は、写真と写真の「あいだ」に残ります。
いうまでもなく、「記録」することに一生懸命になっていると、その場に「介入」することはできません。仲見世を歩きながら、焼きたてのアツアツのおせんべいを味見したいとき、カメラのファインダーをのぞいていたら、食べることはできません。食べていたら、試食の様子を「記録」として残すことはできなくなります。つまり、「記録」を残すという役割は、「介入」を放棄することによって成り立つのです。逆に、現場への「介入」は、まさに体験としてその場を味わうということなので、「記録」にこだわっていては、もったいないのかもしれません。ときどき、愉しく過ごしたときの写真が、一枚もないことに気づきます。きっと、シャッターを押す余裕がないほど、夢中になっていたからです。
写真がひとつの「記録」であることはまちがいないでしょう。でも、写真として残されてゆく〈モノ・コト〉は、もしかするとそれほど重要ではないのかもしれない…と考えることもできます。むしろ、意味があるのは、シャッターを押すことができなかった時、押さなかった時の「記憶」なのかもしれません。写真として展示されている〈モノ・コト〉の「あいだ」にこそ、ぼくたちの体験が写されているのです。
さらに興味ぶかいのは、あの日、まちを撮影していたのは、ひとりだけではないという点です。100人分の「連写真」を目の前にすると、まずはそのボリュームに圧倒されます。順番にじっくり、ゆっくり見ていくと、ひとりひとりの歩いた軌跡がわかります。だれかの写真が、じぶんの歩いた軌跡と重なったり、すれ違ったり。同時に、いくつもの「あいだ」を想い浮かべることもできます。じぶんの「あいだ」の時間を、だれかの写真が埋めてくれることもあるはずです。実現できるかはわかりませんが、いちど、みんなの写真をすべて床の上に並べて、それこそビールでも飲みながら、あれこれおしゃべりしながら、並べかえてみると面白いにちがいありません。それは、2700 の細片から成る巨大なジグソーパズルのようなものです。当然のことながら、完成予想図はないので、想像力も根気も必要な作業になります。そもそも、完成させる必要さえないのかもしれません。
一枚一枚の細片をつなぎ合わせ、いくつもの「あいだ」を埋める試みをつうじて、ぼくたちの日常生活が、じつに豊かで起伏に満ちていることに、あらためて気づくでしょう。100人が、1000人、10000人になったとしても、すべてを「記録」することは不可能です。ぼくたちが写真を撮れば撮るほど、ジグソーパズルは大きくなり、埋めるべき「あいだ」も増えてゆきます。それでもなお、カメラを持ってまちを歩きたくなるのは、みんなの写真があれば、探している細片に出会う可能性が広がるような気がするからです。
その翌年(2008年)には、「100人の東京タワー」のお手伝いをしたが、そのときは『ちょっとの力』というタイトルで文章を書いた(抜粋)。*4
(中略)
毎年、どこかのまちや建物が「お
題」として与えられ、私たちは、「ちょっと」写真を撮りに出かけ ます。キラリと光る1枚も、指が写り込んでしまった失敗作も、す べての写真が束ねられたとき、あの雨模様の土曜日が、豊かに復原 されます。少数の「専門家」が、記録写真を撮るのではなく、10 0人分の「ちょっと」が、東京の風景を残してゆくのです。「ちょ っと」という気軽さのなかに、とても強い力を感じます。それは、 私たちが、東京の風景に対していだいている、無償の愛情なのかも しれません。
1枚の写真でとらえられた「決定的瞬間」ではなく、100人が写した3000枚近い写真の連なりから、まちを感じ取ること。桜丘フィールドワークのマップも、基本的には同じ考え方にもとづいてつくっている。少数の「専門家」が語る桜丘町ではなく、たとえば100人が、少しずつでも桜丘町について語る。その細片をつなぎ合わせることこそが、ぼくたちの日常生活をいきいきとさせる。解釈が多様であることを前提に、まちを性格づけるための方法や態度に興味があるのだ。
ブックマーク(リンク集)
さらに、みんなでもう一つ作業に着手した。それは、ウェブ上で閲覧できる桜丘町にかんする情報のリスト(ブックマーク)づくりだ。自治体からのお知らせ、再開発計画の資料、ニュース、ブログ記事など、桜丘町にかかわるネタにアクセスするための「入口」として整えてみようと思う。全員で手を動かして、1時間足らずで70件ほどのリストができた。これについては、継続的に作業をすすめて、もう少し整理できたら公開しようと思う。
「桜丘フィールドワーク」は、ここでひと休み。1か月後にもう一度集まって、まとめをおこなう。ひとまず、お疲れさまでした!🐸(つづく)