まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

水路に沿って

月に一度、同僚の諏訪さんと、まちを歩いている。あらかじめ決まった道筋も、目的地もない。ぼくたちの身体の感覚にまかせて、ただ「歩くために歩く」のである。五感を開放していると、不思議なことに、細い路地や坂道、ゆるやかに蛇行する小道に足が向く。*1

最近は、スマートフォン*2がまち歩きに役立っている。写真、ビデオ、音声、歩数計など。気負うことなく、記録ができる。そして、ぼくたちの彷徨いを、より刺激的な体験に変えてくれるのが「東京時層地図」というアプリだ。GPSをつかって、現在位置をとらえ、昔の地図(たとえば、文明開化期の頃)の上に表示してくれる。*3つまり、「いま」の場所に確実に立っていながら、100年以上も前の地図のなかに、じぶんたちを見つけることができるのだ。

昨年の暮れ、武蔵小山の界隈を歩いていたとき、じぶんたちが、かつての用水路の上に立っていることがわかった。とたんに、ゆるやかなカーブの道*4が、水に見えてきた。水が流れていたことを知って、その幅にも考えがおよぶようになった。水路の幅が広ければ、それは境界となる。だが、狭ければ、それは人と人との交流をもたらす。水の跡は、すなわち生活の跡だ。ふつうの地図だと、いかにも無愛想に、水路の上を、区の境界線が走っている。

6年ほど、不動前で暮らした。
山手通りと直行する禿坂(かむろ坂)は、桜並木だ。春になると、ベランダから、立派な桜を見下ろしたものだ。禿坂上の交差点から、武蔵小山に向かってしばらく歩くと、急に視界が広がる感じがする。*5いまは、信号機があって直進することができるが、ぼくが暮らしていた大部分の時間は、丁字路だった。このあいだ気づいたのだが、視界が広がるだけでなく、道の両脇の、桜の色も変わる。*6落ち着いて品のある桜色ではなく、商店街に飾られているプラスチック製の花を思わせるピンク色なのだ。

山手通りから、道を真っ直ぐに伸ばす工事が完了すれば、ここは抜け道になる。そう、あたらしくつくられている道なのだ。当然、昔の地図には載っていない。*7道幅のみならず、桜の色までもが、人工的だ。ピンク色の無粋さについて、ぶつぶつ言いながら、諏訪さんと歩いた。しばらくすすむと、工事がまだ終わっていないことがわかった。あたらしくできた信号を直進しても、車は不自然な形で行く手を阻まれ、細かい道へと迂回せざるをえなくなる。コンクリートのブロックが、まるでバリケードのように積まれている。

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道路の工事を阻む、立ち退くことに抵抗し続けている建物が一軒。近づいてみると、文字どおり、その一軒だけが闘っているように見えた。周りは、開通すべき道路に合わせて土地の輪郭が変わって*8いたり、「事業予定地」として空き地*9になっていたりする。その一軒は、頑固に寡黙に建っている。

親父は、きょうもヒマではあったが、いつものように店を開けていた。景気は悪いが、毎日をくり返すのだ。店の前は、いつもと変わらず、平和だ。隣の小学校からは、子どもたちがはしゃぐ声が聞こえてくる。ずいぶん寂れてしまったが、この商店街では、隣どうし、ずっと仲良くやってきたのだ。店の前の道は、ゆるやかに蛇行している。人工的に引かれた直線ではなく、自然がつくった曲線だ。左に向かえば武蔵小山、右に向かうと林試の森。区の境界線*10になっているが、わずか数メートルの道幅だ。月曜日の定休日を除いて、親父は、まるで機械のように、おなじことをくり返している。おなじだが、それはちがう毎日だ。

水を感じながら歩くと、人びとが集まっていた風景が目に浮かぶ。ふだん、あまり意識せずに「川に分断されて…」などと話していることがあるが、諏訪さんは、
断つと分けるはちがうんだ*11と言った。
なるほど、たしかにそうだ。ぼくたちの下を流れている水は、人びとの関係性を断つものではなく、むしろゆるやかに分けるものなのだろう。

最初は「歩くために歩く」ということだったが、数回くり返しているうちに、ぼくたちは、水路に沿って歩くようになっていた。それは、彷徨いのなかに、発見の瞬間があったからだ。だが同時に、ひとたび水路を感じてしまうと、その「見え」から抜け出すことも難しい。少し大げさに言えば、ぼくたちは、水の痕跡を求めずにはいられない身体になってしまったのかもしれない…。
坂道を上っていくと、親父の店は、立ち退きに抵抗する孤独な一軒に見える。だが、水路に沿って歩くと、親父の店はあたりにとけ込み、学校や他の商店と寄り添いながら、まち並みをつくっている。*12

親父は、どうしてもタバコをやめることができない。
身体に悪いことはわかっている。家族にも口うるさく言われている。だが、くり返される毎日のふるまいのなかに、タバコを吸うことも、組み込まれているのだ。店のシャッターを開け、掃除をするのと同じだ。やめてしまえば、何かが変わり、もしかすると、ずいぶん楽になるのかもしれない、と思う。意地を張っているつもりもない。とにかく、やめられないのだ。

ぼくと諏訪さんは、何度か立ち止まって写真を撮った。フレームで矩形に切り取るという作業も大切だが、それ以上に、どこに立ち、どこを向いてファインダーを覗くかによって、ことなる了解へと誘われる*13ことを実感した。水路は地中に姿を消しても、大いなる時間の流れを感じさせてくれる。身体の向きを少し変えるだけで、まったくちがう「物語」になる。

毎回、3時間ほど歩いたあとは、お茶を飲みながら、その日の所感について語り合う。いつも、気づくことがたくさんある。月に一度の彷徨いは、身体にも心にも効く。

 ●この文章は、数年前に同僚の諏訪さんとすすめていた「まち観帖」プロジェクトのなかで綴られた「まち観がたり」の一篇です。フィールドワークをとおして獲得した〈ことば〉(まち観の型ことば)に裏打ちされた、セミ・フィクションです。

参考

  • 加藤文俊・諏訪正樹(2013)「まち観帖」を活用した「学び」の実践 SFC Journal, “学びのための環境デザイン” 特集, Vol.12, No.2, pp. 35-46.
  • 加藤文俊・諏訪正樹(2012)フィールドワークのための身体をつくる:「まち観帖」のデザインと実践(第39回研究発表大会梗概集, pp. 68-69)
  • 諏訪正樹・加藤文俊(2012)「まち観帖:まちを観て語り伝えるためのメディア」人工知能学会第26回全国大会,2P1-OS-9b-6

*1:見慣れた風景から遠ざかってみることは重要だ。真っ直ぐで平坦な道、視界の開けた道は、人びとの「計画」が関与した証である。ふと引き寄せられるのは、なんらかの違和感があるからかもしれない。二人でまち歩きをしていて、徐々に、お互いがどのような箇所に関心をいだくかについて、理解が深まっていった。基本は、五感を開放しておくことだ(型ことば11〜13を参照)。

*2:フィールドワークに必要なデジタルメディアを携行するは、ここ数年いろいろと試してきた。まち歩きの「装備」は重要である。とくに、自らの行動軌跡をある程度復元できるようなメディアを携行したい。われわれのつくった「まち観房具」も、地図とカードを一緒に持ち歩けるように工夫したものだ。数回のまち歩きをつうじて、便利なサイズや機能を検討した。

*3:過去との対応づけは、まち歩きを豊かにする。現在の位置を知ることは重要だが、その場で過去の様子を知ることも大切だ。たとえば古地図や「東京時層地図」を持って出かけたい。

*4:ゆるやかなカーブの道は水の痕跡かもしれない。かつての水の流れが塞がれ、道に姿をかえていることは少なくない。あるいは、川に沿って道ができていたことも想像できる。カーブから、水を感じてみよう(型ことば17番)。

*5:視界の変化に気を配る。視界が広くなる、あるいは狭くなる場所は、人びとの生活を知る手がかりになることが多い。

*6:色の変化・相違に目を向ける。まちの彩りの変化や相違についても考えてみる。それは、事業計画による、変化の表れであることが少なくない(型ことば41番)。

*7:手持ちの地図と現況をつねに照らし合わせてみる。微細な変化を三のがさないように観察しよう。地図には、さまざまな情報が埋め込まれているので、あらかじめ眺めておくといいかもしれない(型ことば8〜10を参照)。

*8:このあたりは、やはりいろいろな力関係の所産として、土地の形状が不自然なところがある。たとえば、ある部分だけ、フェンスで囲まれている。生活の場は、人びとの手が加わって、形を変えながらいまの風景を構成している。輪郭や形状の変化は、何かの予兆として読み解くことはできるだろうか(型ことば3を参照)。

*9:空き地から、どのような「物語」を読み取ることができるか。過去の姿や未来を思い浮かべてみる。何かが始まる(あるいは終わった)ことを知るきっかけである。

*10:地図上で馴染みのある境界線は、バーチャルな「線」である。「線引き」には、もちろんさまざまな理由があるはずだが、それは人びとの生活実践と直結しているとはかぎらない。いっぽうでは、さまざまな人工物を手がかりに、人びとにとっての「境界」をさがすこともできるにちがいない(型ことば40を参照)

*11:ふとしたひと言だったように記憶しているが、境界の意味について考えさせられた。「断つ」と「分ける」のちがいについては、このあとのまち歩きにも影響をあたえている。心理的・物理的に越えがたいエッジ(edge)は、人びとの交流・交換を隔てるものである。だが、配置やサイズによっては、それはパス(path)として機能する。

*12:この日は、シークエンスとして眺めることの大切さ、そして面白さを実感することができた。まち並みや風景は、ひとつの連なりとして理解されている。人びとの住まい方を見るとき、隣接関係に注目する。数年間、近所に住んでいたが、まったく気づかなかった。どの通りを、どの向きに歩くかというのは、知らず知らずのあいだに習慣化してしまうためだろう。その連なりを構成しているのは、たとえばこのケースでは水路であった(型ことば22を参照)。

*13:調査者の視座・視点・視野についても考えておきたい。どの位置に立ち、どこを向いて、どの位のフレーム(頻度やインターバルもふくめ)で写真を撮るかによって、調査者の理解はことなる。リアリティは、どこかに「ある」のではなく、見る人しだいで変容する。当然のことながら、記録のための装置やメディアが変われば、また別のリアリティが表れる