まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

フィールドワーク

(2021年5月29日)この文章は、2013年5月に書いたものです授業や「卒プロ」の指導で参考資料として共有するため、ブログで公開しました。本文は一部修正しましたが、ほぼ執筆時のままです。

「現場」を畏れること

フィールドワークは、社会や文化を理解するための「方法」である。当然のことながら、「方法」である以上、正しいやり方を身につけておくことが望ましい。おそらく、そのための近道はなく、自らの時間とエネルギーを注ぐことによってのみ、身体的な知識を獲得することができる。フィールドワークには、根気が求められるのだ。そう考えると、「方法」はもとより、それを学ぶ過程を愉しむことができるかどうかという点は、無視できなくなる。

フィールドワークは、愉しい。人に出会い、その暮らしや想いに触れることは、ときにはじぶんの人生観をも変えてしまう。そして、フィールドワークの体験が愉しいからこそ、私たちは日記やアルバムのような形で記録を留めておこうとする。つぶさに見ることは、「ちいさなメディア」をつくる直接的なきっかけになるのだ。
まず、その愉しさに向かうために、考えておきたいことがある。それは、「現場」を畏れるという態度だ。たとえば、まったく言葉の通じない国に赴き、いままでにない違和感を感じながらまちを歩いている状況を想像してみよう。看板には奇妙な文字が並んでいて、読むことはできない。道ゆく人に声をかけようにも、最初のひとことすらわからない。こうした居心地の悪い状況で、私たちはどうふるまうのか。おそらく、まず私たちにできるのは、観察することである。五感を開放して、身体で感じながら(必要に応じて警戒しながら)その状況で、どのようにふるまうのが「適切か」ということを考えなければならない。じっくりと人びとを観察し、過去の経験や常識と照らしながら、目の前にある状況を理解しようとするはずだ。

フィールドワークは、ある種の居心地の悪さを意図的につくりだす試みだと理解することができる。つまりそれは、「現場」に居ることを畏れる態度で、まちや人びとに向き合うことだと言えるだろう。いま述べたような、異国での体験であれば、それは意識しやすい。というより、意識せざるをえない。だが、私たちのふだんの生活のなかで、「現場」に対して畏れを抱くことはとても難しい。それは、日常生活に慣れ親しんでいる証なのだが、ひとりの「調査者」としてふるまうためには、あたりまえの日常を、異国を旅する気持ちで眺めてみる必要がある。
そもそも、(本当に困ったときには)聞けば教えてもらえるだろうという思い込みが、私たちの観察眼を曇らせているのかもしれないのだ。あるいは、経験や常識が邪魔をすることも少なくないだろう。「じぶんも似たような経験をしたことがある」「あれはどこかに載っていた」などと、じぶんの頭で多くを判断しようと試みているとき、すでに「現場」での直接体験には目が向いていないのである。その意味で、じつは、一番避けたいのは「わかったつもり」になることだ。 
フィールドワークは、人との距離のとりかた、関係の築きかたと密接に関わっているという。そして、観察することは、すでに関わりをもつということなのである。もちろん、別の章でくわしく語られているように、まちや人びとの暮らしを知るためには、インタビューという方法が重要な役割を果たす。だがその前に、無知・無力な存在として、じぶん自身を「現場」に放り出すことだ。

続けること

つぎに大切なことは、続けることである。「現場」に対して畏れを抱くことは重要なのだが、フィールドワークの「方法」を身につけるために、何らかのきっかけを探すことからはじめよう。たとえば、歩数計を持ち歩いてみること、奮発してカメラを新調すること、「お気に入り」の場所を何度も訪れてみることなど、動機もすすめかたもさまざまで良いはずだ。肝心なのは、まちや人びとの暮らしを観察・記録すること自体が愉しくなければ、続けるのが難しいということである。先ほど、居心地の悪さについて述べたが、異国で戸惑う感覚そのものを、発見や気づきの契機として愉しめるようになることに意味がある。やがて、フィールドワークが、少しずつ日常の習慣に変わってゆく。そして、いずれは「現場」のほうが、「調査者」を呼ぶようになるだろう。
では、無理なく続けられるような、じぶんにとって「適切」だと思われるフィールドワークのスタイルは、どうすれば獲得できるのだろうか。ある研究では、私たちが我を忘れて、「無心」になって何かに向き合うときには、能力と課題の難易度とのバランスが必要になることを示唆している。私たちは、課題や目標が難しすぎると諦めてしまうし、逆に簡単すぎると飽きてしまう。ちょっと背伸びをすれば届きそうなところに課題を設定することができれば、モチベーションを維持しながら課題に取り組み続けることができる。

たとえば、フィールドノートについて考えてみよう。フィールドワークをすすめるとき、見たこと、聞いたことは、じぶんの記憶が新鮮なうちに書き留めておくことが重要だと習う。写真を撮ったり音声を録音したりすることは、ひと頃にくらべるとずいぶん楽になっているが、やはり、一度じぶん自身で文字やスケッチにしておくといい。疲れていても、できるかぎりその日のうちにふり返って、フィールドワークの進捗のみならず、じぶんの感情の流れも記録しておくことが望ましい。
フィールドノートの重要性については、頭で理解していても、実際には「三日坊主」になってしまうことがある。そこで、バランスの問題を考えるのだ。たとえば、三日で一枚のフィールドノートを書くくらいなら、あまり負担に感じないかもしれない。文字も減らして、ちいさなハガキ大のカードに書くことにする。もちろん、これによってフィールドノートに記録される情報量は少なくなるが、たくさん書くことが負担になって続かなくなるよりは、少しずつでも、確実に日々の記録が残されるほうが有意味な場合もある。 

f:id:who-me:20210529135344j:plain食卓のお引っ越し(稲田, 2005)

 『食卓のお引っ越し』で綴られた三日に一枚というフィールドノートは、ほどよいバランスが実現された好例で、数か月間、途切れることなく食卓を記録している*1。記録を続けていくうちに、引っ越しにともなって家族構成が変わり、それが食卓に並ぶ料理の数や内容に表れてくるという、ゆるやかな変化が明らかとなった。
継続は、私たちの学びの源泉であるが、さまざまな事情で、一度きりになってしまうフィールドワークも少なくない。回数のみならず、滞在できる時間について制限されることもある。だが、日ごろから続けることの意義を理解し、観察や記録を習慣化しておけば、わずかな時間であっても、豊かな感受性を活かしてまちや人びとに向き合うことができるはずだ。

身体を変えること

これまでの議論をふまえると、結局のところ、フィールドワークという「方法」を学ぶということは、自らの身体(身体感覚)を変えるということだと言えるだろう。「わかることは、変わること」だと言うが、まさにフィールドワークは、頭のなかの知識のみならず、私たちの身体の動きとして理解されるべきものだ。それが、フィールドワークの面白さであり、難しさでもある。
私自身の経験からも言えることだが、フィールドワークが日常的なふるまいになると、地域のこと、身の回りのことにかまわずにいられなくなる。すでに述べたとおり、私たちは、(インタビューなどをとおして人との直接的な接点をもたずとも)たんに観察をはじめた時点で、すでに「現場」との関わりをもつからである。正義感や使命感には個人差があるが、観察を続け、「現場」を深く知れば知るほど、私たちは何らかの形で「現場」に働きかけたいという気持ちになる。つまり、観察と提案は分かちがたく結びついているのだ。

「ちいさなメディア」は、フィールドワークの賜物だ。スタイルは多様だが、日常生活をつぶさに観察し、その当事者・関与者たちにできるだけ近づくことを心がけていれば、おのずと何かを語りたくなる。「ちいさなメディア」として形になっているのは、語らずにはいられない想いの表れだと考えられるだろう。
「ちいさなメディア」の作り手たちは、制作の過程を愉しみながら、おそらく、人やまちへの感謝の想いや発見の喜びを還そうと試みている。そして、誰かの顔を想い浮かべながら、あるいはまちの風景を想いながらつくられたメディアには、たとえそれがささやかなものであっても、大きな力が宿っている。「ちいさなメディア」は、まちや人びとに関わりをもったことの当然の帰結として、生まれる活動なのである。

さらに、『調査されるという迷惑』を読むと、フィールドワークをおこなう私たちの責任について考えさせられる。まちや人びとは、どのように「調査された」のか。私たちは、自らのふるまいに自覚的であるとともに、関わりをもった「現場」のことを熟考しなければならない。フィールドワークをする身体は、「ちいさなメディア」の完成度を高めるためだけにあるのではない。私たちは、「調査される」ことの意味や、観察対象となった「現場」の状況を慮りながら、フィールドワークという「方法」について考えてみる必要がある。 

「現場」と別れること

フィールドワークは、愉しい。わずかな時間であっても、細やかな目で観察すれば、まちや人びとの様子がわかるようになる。人と出会うことで、あたらしい関係性のなかに、じぶんの居場所を見つけることもあるだろう。だが、「現場」との関わりをどうとらえるかについては、よく考えておくべき大切なことがある。それは、フィールドワークをどのように終わらせるか、つまり、どのように「現場」と別れるかという問題である。
「ちいさなメディア」の特質をふまえると、取材・執筆・編集・デザインから、完成した媒体の流通にいたるまでの工程を、少人数(場合によっては一人)でこなすことになる。フィールドワークは、そのプロセスのなかでも重要な位置を占めていると言えるだろう。これまで述べてきたとおり、人びとの暮らしに近づき、できるかぎり自然な姿を観察したり記録したりすることは、フィールドワーカーに求められるふるまいである。だが、やがてはフィールドワークを終了させなければならない。幸いなことに、報告書でもフリーペーパーの記事でも、多くの場合は原稿のしめ切りがあるおかげで、(ひとまずの)「終わり」を迎えることができる。それが「現場」と別れるタイミングになる。

だが、別れることが容易でない場合もある。調査者としてナイーブであればあるほど、フィールドワークをつうじて育まれる、「現場」への想いは強くなる。知らず知らずのうちに、調査対象となったまち、そして出会った一人ひとりに対する優しさや寛容さが芽生えてくる。「ちいさなメディア」の多くは、それぞれの場所や地域の個性に溢れていて、まさに、地域に根ざした内容が語られているところに魅力がある。最初のうちは、自らを「異化」することで、(状況に関わりを持たない)「観察者」として新鮮な驚きや発見を綴ることができる。フィールドワークを続けていると、やがて、人びととの関係性が深化し、「関与者」としての自覚も生まれてくる。「現場」に近づいて、ふだんは見逃してしまいそうな些細な物事にも目を向けることが重要だと言いながら、同時に、しかるべきタイミングで現場から離脱できるように、近づき過ぎてはいけないという、いささか矛盾することが要求されるのかもしれない。

フィールドワークをすすめる上で、慣れや「わかったつもり」には、じゅうぶんに注意が必要だ。フィールドワークの成果が、「ちいさなメディア」となってまちへと還っていくことを考えるとき、つねに人びとに響くものをつくりたい、つくり続けたいと願うはずだ。そのためには「つかず離れず」という、「現場」との距離感が重要になる。それが、フィールドワークの本質だと言えるかもしれない。
現場に密着した、活き活きとした「ちいさなメディア」をつくるために、移り住む(あるいは生まれ育ったまちに戻る)必要はない。フィールドワークをする身体は、どこか特定のまちでのみ活かされるものではないからだ。ふだんからフィールドワークに備えておけば、どのまちに行っても、まちや人びとの魅力に光を当てることができるにちがいない。「現場」との別れに手間取ることがなければ、すぐにまた、あたらしい「現場」へと向かうことができる。

参考

  • 加藤文俊(2009)『キャンプ論:あたらしいフィールドワーク』慶應義塾大学出版会
  • 宮本常一・安渓遊地(2008)『調査されるという迷惑:フィールドに出る前に読んでおく本』みずのわ出版

*1:稲田桃子(2005)『食卓のお引っ越し』