まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

エレベーターという密室から考える — 人と人との距離感と「気まずさ」の解像度

(2026年8月7日)この文章は、2026年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

伊東 柚香|Yuka Ito

 

はじめに

エレベーターは、見知らぬ他者や関係性の曖昧な相手と、数十秒という短い時間を共有する空間である。会話が交わされることもあるが、その声は自然と小さくなり、互いに周囲を意識した振る舞いが見られる。その場では立ち位置や姿勢、ボタンを押すタイミングなど、言葉にならないやり取りも絶えず行われている。私たちは相手との距離を測りながら、その場に応じた振る舞いを無意識のうちに選択しているのである。
私は以前から、人と人との距離感や、その場に流れる空気に関心を持ってきた。なかでも「気まずさ」という感覚は、日常のさまざまな場面で経験するにもかかわらず、その正体を言葉で説明することが難しい。私が以前から関心を持ってきたのは、人そのものではなく、人と人との「あいだ」に生まれる空気や距離感である。
その関心の背景には、これまでの対人関係や集団生活の経験がある。小学生の頃は特定のグループだけに所属することを避け、複数のグループを行き来しながら過ごしていた。中学校では周囲の空気に合わせて振る舞うことが自然になり、高校では約100人が所属する吹奏楽部で活動するなかで、大人数だからこそ生まれる複雑な空気や人間関係を経験した。友人との会話では、奇数人のグループになると会話から取り残される人がいないよう、自然と間をつなぐ役割を担うことも多かった。
大学では演技を学び、この関心はさらに明確になった。演技では、台詞だけではなく、立ち位置や身体の向き、視線、呼吸、沈黙の長さによって、その場の空気や関係性は大きく変化する。同じ言葉でも、身体の距離が少し変わるだけで相手との関係性はまったく違って見える。こうした経験を通して、人は日常生活の中でも無意識に身体を使いながら他者との距離を調整し、その場に応じた振る舞いを選択しているのではないかと考えるようになった。
こうした関心をもとに、人と人との距離感が日常の中で最も凝縮されて現れる場所はどこなのかを考えた。そのなかで着目したのが、エレベーターである。見知らぬ他者や関係性の曖昧な相手と数十秒という短い時間を共有するエレベーターでは、会話を交わす場面であっても、その場の空気を読みながら互いとの距離を調整しているように見えた。そのような人と人との「あいだ」の振る舞いを観察できる場として、エレベーターを本研究のフィールドに選んだ。
このような状況を考える上で参考にしたのが、社会学者アーヴィング・ゴッフマンの「儀礼的無関心」という概念である。都市空間では、人は他者の存在を認識しながらも、必要以上に干渉しないことで互いの距離を保っている。相手をあえて見続けないことは無関心ではなく、「あなたを侵害する意図はありません」という社会的な配慮でもある。このような振る舞いは、都市で見知らぬ他者と共存するための暗黙の作法として機能している。
私は、この「儀礼的無関心」が特に色濃く表れる場所の一つがエレベーターではないかと考えた。人々は数十秒という短い時間のなかで、互いの存在を意識しながらも、適切な距離を探り続けている。そのなかで生まれる「気まずさ」の正体を知りたいと考え、本研究を始めた。

エレベーターを観察する

春学期は、駅や百貨店、大学、アルバイト先など、日常生活の中にあるさまざまなエレベーターで観察を行った。エレベーターに乗車し、その場で起きた出来事や感じたことをフィールドノートに記録した。観察回数は40回を超えている。

研究を始めた当初は、扉が閉まり、密室となったエレベーターの中で人々がどのように過ごしているのか、「気まずさ」はどのような場面で生まれるのかという点に関心があった。しかし、記録を重ねるにつれて、自分が抱いていた前提と実際に観察した出来事との間には少しずつずれがあることに気づいた。
こうしてフィールドワークを続けるうちに、私の関心は「エレベーターは気まずい場所である」という前提を確かめることではなく、「気まずさ」とは何なのかを考えることへと変化していった。

ドアが開く前から始まる距離の調整

当初、私はエレベーターの扉が閉まり、密室になってから「気まずさ」が生まれるものだと考えていた。しかし、観察を重ねるなかで、その前提は少しずつ揺らいでいった。記録を見返していると、人々は扉が開く前からすでに互いの存在を意識し、距離を調整していることに気づいたからである。
電車のホームには乗車位置を示す列がある一方で、エレベーターの前には明確な待機列がないことが多い。それでも人々は互いの位置や周囲の様子を見ながら、誰が先に乗るのか、何人までなら乗れるのか、自分は乗るべきか、それとも次を待つべきかを、その場の状況に応じて判断している。
例えば、「あと一人なら乗れそうだが、ここで乗ると窮屈になりそうだから見送る」「大きな荷物を持った人を先に乗せる」といった行動は、誰かに指示されて行われるものではない。その場にいる人同士が互いの様子をうかがいながら、その場にふさわしい距離や順番を探っているように見えた。
私が観察対象として考えていたのは、エレベーターの内部だけだった。しかし実際には、エレベーターという空間は、扉が開く前からすでに始まっていた。乗り込む前のわずかな時間にも、互いの距離を調整しながら、その場に応じた振る舞いが選択されている。この気づきは、「気まずさ」が密室だけで生まれるものではないことを考えるきっかけとなった。

一人になれる場所としてのエレベーター

前章では、エレベーターは他者との距離を調整する空間として捉えていた。しかし、観察を続けるなかで、それとは異なる側面にも気づいた。それは、エレベーターが「一人になれる場所」として機能しているということである。
このことに気づいたきっかけは、アルバイト先での出来事だった。接客を終え、一人で従業員用エレベーターに乗り込んだ瞬間、私は無意識のうちに壁にもたれかかり、大きく息をついていた。さらに、閉ボタンを何度も押し、できるだけ早く扉が閉まることを望んでいる自分にも気づいた。
それまで私は、この行動を特別なものだとは考えていなかった。しかし、フィールドノートを書きながら振り返ると、接客中は常に周囲に気を配り、笑顔で振る舞い続けていた緊張が、エレベーターという密室に入った瞬間にほどけていたのではないかと考えた。
それ以来、エレベーターを「他者との距離を測る場所」という視点だけではなく、「ほんの数十秒だけ社会的な役割から離れ、一人になれる場所」という視点からも見るようになった。人と人との距離が強く意識される空間である一方で、誰にも話しかけられず、自分だけの時間を過ごせる空間でもある。この気づきは、エレベーターという場所が持つ性質を、より多面的に考えるきっかけとなった。

「気まずい」という言葉を捉え直す

フィールドワークを30回ほど重ねた頃、私は「気まずい」という言葉そのものに違和感を覚えるようになった。
当初、私はエレベーターで感じる居心地の悪さを「気まずさ」と一括りに捉えていた。しかし、フィールドノートを読み返していくと、「気まずい」と書いている場面には、それぞれ異なる種類の感情が含まれていることに気づいた。
そのことを強く意識するきっかけとなったのが、ある駅での観察である。私は、前を歩いていた利用者が後ろに人がいるにもかかわらず、「閉」ボタンを押した場面を見て、「後ろの人を乗せたくなかったのではないか」と解釈していた。しかし、後日、自分でも同じ位置に立って確かめてみると、操作盤の前から後方を確認することは思っていた以上に難しかった。私は、相手の行動に対して心理的な意味を与えすぎていたのである。
この出来事を通して、私は観察した出来事そのものではなく、自分自身の解釈を記録してしまっていた場面があったことに気づいた。フィールドワークでは、相手の行動を丁寧に観察することと、その理由を決めつけることは異なる。出来事そのものを記録することと、自分がそこに意味を与えることは別である。そのことを意識しながら観察を続ける必要があると考えるようになった。
また、別の日には、大声で会話を続ける利用者と同じエレベーターに乗り合わせたことがあった。そのとき私は強い居心地の悪さを覚え、「気まずい」と記録していた。しかし、後から振り返ると、その感覚は「気まずさ」というよりも、周囲の音量に対する不快感や警戒心だったのではないかと考えた。
このような出来事を振り返るうちに、私は「気まずい」という言葉を便利に使いすぎていたことに気づいた。これまで「気まずい」と表現していたもののなかには、緊張、不快感、恥ずかしさ、戸惑いなど、異なる感情が含まれていたのである。「気まずい」という一つの言葉で片づけるのではなく、その感情がどのような状況で生まれたのかを丁寧に見ていく必要があると考えるようになった。

所在のなさという視点

「気まずさ」という言葉を捉え直していくなかで、研究会でいただいたコメントの一つが強く印象に残った。それが、「所在のなさ」という言葉である。私はそれまで、気まずさを「人との距離」や「沈黙」の問題として考えていた。しかし、「自分がその場のどこにいる存在なのかわからない感覚」が気まずさにつながるのではないか、という視点は、それまで持っていなかった。
その言葉を思い出したのは、祖父が入院していた病院で、親戚と何度もエレベーターに乗ったときだった。親戚は初対面ではない。しかし、家族のように日常的に会う関係でもない。普段はお正月に会う程度であり、今回は祖父の容態悪化という特別な状況で集まっていた。そのような状況のなかで同じエレベーターに乗ると、不思議な「気まずさ」が生まれていた。
さらに印象に残った出来事がある。葬儀の日、エレベーターにあと一人乗れる状況で、中学生のはとこに声をかけたところ、彼は数秒だけ立ち止まった。結局乗ってきたものの、その一瞬のためらいがとても気になった。乗車後もしばらく沈黙が続き、私が「気まずいね」と声をかけると、彼も「気まずい」と返した。その瞬間、エレベーターの中の空気が少し和らいだことを覚えている。
この出来事を振り返ったとき、研究会でいただいた「所在のなさ」という言葉が結びついた。あの場には祖母、父、母、私、そしてはとこが乗っていた。彼は自分だけが少し異なる立場にいることを、乗る前のわずかな時間のなかで感じ取っていたのではないかと考えた。そして、その感覚はエレベーターに乗ってからではなく、乗るかどうか迷ったあの数秒から始まっていたようにも思えた。
興味深かったのは、病院の日の夜、今度は私自身が似たような立場になったことである。親戚との食事で人数の都合上、私ははとこ一家のテーブルに一人だけ座ることになった。自分の家族は別のテーブルにおり、「伊東家は私だけ」という状況だった。昼間に観察していたはとこと、以前私自身が同じような立場になっていたのである。

この経験を通して、「所在のなさ」はエレベーターだけで生まれるものではないことにも気づいた。自分だけ少し立場が違う、自分だけ所属が曖昧であるという感覚は、空間が変わっても生じる。気まずさとは、単に物理的な距離や沈黙だけではなく、自分がその場のなかでどのような位置にいるのかという感覚とも深く関わっているのではないかと考えるようになった。

その後の研究会でも、「すでに出来上がっている会話の輪に後から入ると気まずい」というコメントを別のメンバーからいただいた。例えば、話が盛り上がっているところへ途中から加わる場面や、自分だけ遅れてその場に入る場面で感じる気まずさである。このコメントもまた、「所在のなさ」という考え方と重なっているように感じた。自分の居場所が定まっていない状態や、その場との関係性がまだ築かれていない状態が、気まずさを生み出している可能性がある。
一方で、この出来事をきっかけに、「親密さ」と「気まずさ」の関係についても考え直すようになった。当初は、親しい相手ほど気まずさは小さいと考えていた。しかし、実際には恋人や長年の友人とはエレベーターでも気まずさをほとんど感じない一方で、家族とは気まずさを感じることがある。家族は最も親しい存在であるはずなのに、この事実は「親密さ」だけでは気まずさを説明できないことを示していた。

現時点では明確な答えは出ていないが、気まずさは相手との親密さだけではなく、その場における自分の位置や役割、そして「自分はここにいてよいのか」という所在の感覚とも関係しているのではないかと考えている。この問いは、春学期のフィールドワークを通して得られた最も大きな収穫の一つであり、今後も引き続き考えていきたいテーマである。

経験が空間の感じ方を変える

春学期のフィールドワークを通して考えるようになったのは、同じ空間であっても、人によってその感じ方は異なるということである。
当初は、エレベーターという空間そのものが「気まずさ」を生み出しているのではないかと考えていた。しかし、これまでの観察を振り返ると、「気まずさ」は空間だけで決まるものではなく、その場にいる人がそれぞれに持ち込む経験や関係性とも深く結びついているように思われた。
相手とどのような時間を過ごしてきたのか、その日はどのような出来事があったのか、自分はその場でどのような立場にいるのか。同じエレベーターに乗っていても、その場に持ち込まれる経験は一人ひとり異なる。だからこそ、同じ空間であっても、感じる「気まずさ」もまた異なるのではないかと考えるようになった。
春学期のフィールドワークでは、「気まずさ」の正体を明らかにすることはできなかった。しかし、観察を重ねるなかで、空間だけではなく、その場にいる人が積み重ねてきた経験にも目を向ける必要があるという、新たな視点を得ることができた。

おわりに

春学期では、「気まずさ」の正体を明らかにすることを目標として観察を始めた。しかし、観察を重ねるにつれて、「気まずさ」という言葉そのものを捉え直す必要があることや、空間だけではなく、その場にいる人の経験や関係性、所在の感覚など、さまざまな要素が関わっている可能性が見えてきた。その結果、答えを得るというよりも、新たな問いが次々と生まれる半年となった。現時点では結論には至っていないものの、「気まずさ」はエレベーターという空間だけから生まれるものではなく、人がその場に持ち込む経験や関係性、所在の感覚とも深く結びついている可能性が見えてきた。
また、フィールドワークを続けるなかで、自分自身の観察の仕方についても考え直す機会が多くあった。観察した出来事と、自分がそこに与えた解釈は分けて考えなければならないこと、そして、自分自身もフィールドの一部であり、ときには観察者であると同時に当事者にもなることを実感した。観察を続けることは、対象だけではなく、自分自身の見方を問い直すことでもあった。

秋学期は、引き続きエレベーターでのフィールドワークを続けながら、親密さの異なる相手と同乗した場合の違いや、自分から会話を始めた場合に空間がどのように変化するのかについても観察していきたいと考えている。また、エレベーターを観察するなかで、気まずさを和らげたり、人がその場を心地よく過ごしたりするための仕組みにも関心を持つようになった。エレベーターの中には、サイネージや紙の広告、BGMなどが設置されていることが多く、場所によってはエレベーターガールが案内を行っているところもある。こうしたものは単なる情報提供ではなく、空間の雰囲気や、その場で感じる居心地にも影響を与えている可能性がある。
今後は、フィールドワークを通して得られた気づきをもとに、「気まずさ」を紛らわせたり、人と人が同じ空間をより心地よく共有できたりするようなメディアや制作についても考えていきたい。