(2026年8月7日)この文章は、2026年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。
中島 羽那|Hana Nakajima

このプロジェクトでは、寮生誌「月刊イータ」を通して、メディアがどのように作られていくのか、わたしがメディアをつくることで変容していく経過を記録していく。
「月刊イータ」は、イータヴィレッジという学生寮のなかで、10名ほどの寮生が自主的に作っているZINEのことだ。2025年5月、表紙のイラストを依頼される形で「月刊イータ」の仲間に加わったが、初代編集長よりもわたしの方が編集に熱中していき、編集長を交代することとなった。編集長として、まずは5月号、そして7月号を制作した。7月号はORFで配布されたり、大阪で行われた学部説明会で配布されたりと、多くの人の手に届いた。その後長く間が空いて、今年の4月に組織体制や雑誌の見た目を大きく変えて、あたらしく発刊した。
初刊行から1年と3ヶ月が過ぎ、私自身は寮に住み始めて4年目になる。入寮した当初には見えていなかった寮の特徴や人間関係、共同生活の難しさや面白さが、現在では少しずつ見えるようになっている。
本プロジェクトでは、完成した雑誌だけを成果物とするのではなく、企画を考え、寮生に声をかけ、インタビューを行い、写真を撮影し、それらを誌面へと編集していくまでの過程も記録する。その制作実践を通して、寮生活がどのようにメディアへと変換されていくのかを考えていきたい。
すすめかた
「月刊イータ」の基本的な制作プロセスは、号ごとのコンセプトを決めるところから始まる。まず、現在の寮の状況や、制作メンバーが関心を持っていることをもとに、その号で扱うテーマを決定する。次に、テーマに応じて企画を考え、それぞれの企画で話を聞きたい寮生を選ぶ。その後、寮生へのインタビューや写真撮影を行い、集めた文章や写真を編集し、誌面としてまとめる。
本プロジェクトでは、この通常の制作に加えて、雑誌が完成するまでの過程自体も記録する。具体的には、編集会議や誌面制作の様子を映像として撮影する。また、企画が変更された場面や、メンバー間で意見が分かれた場面、インタビューの内容をどのように記事にするか悩んだ場面などを記録する。
さらに、制作期間中に寮内で起きた出来事や、制作を通して感じたことを、日記やメモとして残す。完成した誌面だけを見るのではなく、その背後にある迷いや判断、会話も含めて振り返るためである。
寮生へのインタビューでは、特別な実績を持つ人だけを対象にするのではなく、イータヴィレッジで暮らしているさまざまな人に話を聞く。寮内イベントや活動に関わっている人、部屋のレイアウトにこだわりを持つ人、寮の近くの飲食店に詳しい人、音楽や研究、趣味に取り組んでいる人など、どの寮生からもその人なりの寮生活を引き出すことができると考えている。
case1
制作メンバーと話していると、様々な私が浮き彫りになっていく感覚がある。
記事を作成しているとき、とある寮生のライターから、以下のような連絡が来た。
「トップからどんな状況か説明をしてほしい、と思っています。書いた記事がどうなってるか、それが書いてる側としては不安です。」
実のところ、彼からメッセージをもらってから、すぐに返事はできなかった。私はトップという自覚より、彼の友達だという感覚の方が強かったので、少しショックだったのだと思う。彼が言うように、わたしは月刊イータでメンバーからの期待や責任を背負う編集長である。しかし、わたしはこの寮に住む寮生でもあり、この寮生誌の行く末を観察し記録する調査者でもある。進捗がどうなっているか、自分が追加でやらないといけない仕事がないか知ることは、確かにライターにとって大切なことだ。しかし、プロセスを簡単に共有できればよいが、私の考えていることを全て伝えることは難しいし、何より体力のいることだ。たとえば長年一緒に制作をしていれば、プロセスが全く開示されていなくとも不安にはならないはずだ。「まあこの編集長なら大丈夫だろう」というように。そこには相手との信頼関係が築かれている。私の仕事に信頼をおいてもらうためには、私と相手との関係性、フィードバックのテンポ感、デッドラインを守ること、記事のクオリティに至るまで、様々な要素が必要になると考えた。
case2
私には寮生としての顔と、編集長としての顔が存在している。編集長としてやりとりしている時、寮生としての顔が覗く時がある。毎回インタビューを掲載するにあたり、事前に完成した記事を取材を受けてくれた寮生に送ることにしているが、寮生の一人から掲載の中止を依頼されたこともある。
「記事の内容がなんとなくしっくりこなくて、だからと言って代案も思いつかなくて。せっかく取材をしてもらって申し訳ないんだけど、掲載を無しにして欲しい」
彼女は絵を描いたり音楽を作ったりする寮生で、記事の中では現在の活動や彼女の創造性について話してくれていた。「しっくりこなくて」と言っていたが、取材された記事を読み返して、今していること・やりたいことと、取材当時のものが離れてしまったということなのではないかと考えた。二人で話し合った結果、取材内容は掲載しないことにして、代わりに彼女の作品を見開き1ページで掲載するということになった。
寮に暮らしている以上、取材した寮生ともよく顔を合わせる。この時考えていたのは以下のようなことである。「ここで掲載をしなかったら、この寮生と気まずくなるかもしれない」「なら、形を変えてでも掲載をして寮生がとってくれた時間を無駄にすることなく刊行したい」
編集長としての私は、よりよい誌面をつくりたいと考える。寮生としての私は、相手との関係を壊したくないと考える。この二つの顔は、はっきりと分けられるものではない。むしろ、互いに干渉しながら、私の編集の仕方を形づくっている。
case3
一年前の8月に刊行した「地元特集」では、寮生の取材記事を編集する上で重要な視座を得ることができた。原稿の中にはこちら側の都合で省く、あるいは修正するべき内容がある。しかし、そこにもしかしたら作成者の記事の意図や隠された本心のようなものがあるのではないかと考えた。
「何もしないと、自分の存在が抹殺されてしまうという恐怖があるんです。いや、もう既に抹殺されているのかもしれない。これ以上いくと、魂ごと消えそうで。ADHDで多動症というのもあるかもしれません。とにかく、リスクがあってもやりたいならやるべきだ、と。」

以上はとある寮生の紹介記事の文章である。以上の文章が、不特定多数に見られることによって、寮生にマイナスイメージを及ぼす可能性があるとして、省略するべきだ、という意見が制作メンバーから出た。結局そのままの内容で掲載したのは、以上の文章がこの寮生の芯をよく表現していると考えたからである。
この事例を通して、編集とは、文章を削って誰がみても問題がない状態にすることと、そのまま残して本人らしさを示すことの二択ではないと気づいた。本人の言葉を守りながら、読者にどのような形で届けるのかを考えることこそが、私の役割であり、何を記述するのかという判断だけでなく、記述した言葉にどのような責任を持つかまで含めて、編集なのだと考える。
3つのcaseから
三つの事例を振り返ることで、私には「寮生としての顔」「卒プロ生としての顔」「編集長としての顔」という、三つの顔があることに気付かされた。
寮生としての私は、制作メンバーや取材相手を、雑誌に関わる人としてだけではなく、日常生活をともにする友人や知人として見ている。記事の掲載をめぐって意見が食い違ったとしても、刊行後には同じ寮で顔を合わせ、関係が続いていく。そのため、相手との関係を壊したくないという気持ちが、編集上の判断にも影響する。
一方、編集長としての私は、制作全体の進捗を把握し、メンバーに必要な情報を伝え、誌面の質を保ちながら刊行まで進める責任を負っている。case1で制作メンバーから「トップ」と呼ばれたとき、私は初めて、友人として接している相手からも、編集長としての説明や判断を求められていることを強く自覚した。また、case2やcase3では、取材相手への配慮だけでなく、限られたページのなかで何を掲載し、どのような誌面を完成させるのかを考える必要があった。
さらに、卒プロ生としての私は、こうした出来事のなかにいる自分を、一歩引いた位置から観察しようとしている。制作中には、相手との関係や刊行のことで精いっぱいになり、自分がなぜそのような判断をしたのかまで考える余裕がない。しかし、出来事を記録して振り返ることで、返信できなかったことへの戸惑い、記事を掲載したいという執着、相手との関係を守りたいという気持ちなど、自分の判断の背後にあった感情が見えてくる。
この三つの顔は、場面ごとに完全に切り替えられるものではない。編集長として進捗を管理しているときにも、友人である寮生としての感情が入り込む。取材相手の希望を尊重しようとするときにも、雑誌を完成させたい編集長としての都合が含まれる。そして卒プロ生として記録するときにも、私は出来事の外側にいる客観的な観察者ではなく、制作に直接関わり、判断を下している当事者である。
つまり、月刊イータの制作を記録することは、編集の正しい方法を外側から分析することではない。複数の顔を同時に持つ私が、他者との関係のなかで迷いながら判断していく過程を記録することである。三つの事例で生じた迷いは、私が編集長として未熟だから起きたものというだけではなく、寮生、卒プロ生、編集長という立場を同時に担っているからこそ生まれたものだと考えることができる。
そして、この三つの顔の重なりによって、月刊イータの誌面も形づくられている。私が誰の言葉を残し、何を削り、どのような形で掲載するのかという判断には、誌面の完成度だけでなく、相手との関係や、卒業プロジェクトとして何を記録したいのかという意識が反映されている。月刊イータをつくることは、寮生を編集する行為であると同時に、制作を通して現れる複数の自分を発見し、自分自身のあり方を捉え直していく行為でもある。
これから
卒業プロジェクト2では、引き続き「月刊イータ」の刊行を続けるが、刊行物の数を増やすことだけを目標にはしない。企画を決めるまでの話し合いや、インタビュー、編集作業、完成した雑誌を読んだ寮生の反応までを記録し、ひとつの号が生まれるまでの過程を丁寧に振り返りたい。また、完成した記事と、実際のインタビュー記録を比較し、話し手の言葉が、編集によってどのように変化したのか、何が残され、何が削られたのかを確認することで、「編集しすぎない」とは具体的にどのようなことなのかを考える。
これからは、企画を決めるまでの話し合い、取材相手を決める過程、インタビュー、編集作業、完成した雑誌を読んだ寮生の反応までを記録し、一つの号が生まれるまでの過程を丁寧に振り返りたい。特に、予定どおりに進まなかった場面に注目したいとおもっている。記事が集まらなかったとき、取材相手から修正や掲載中止を求められたとき、制作メンバーと意見が分かれたとき、私は何を優先して判断しているのかを記録する。制作が順調に進んでいるときには、自分の役割や判断について深く考えることは少ない。しかし、問題が起きたときには、編集長としての責任、友人や寮生としての感情、自分の制作へのこだわりが表れやすい。そうした場面を記録することで、私自身の編集の特徴を明らかにできると考えている。また、完成した記事と、実際のインタビュー記録を比較する。話し手の言葉が、編集によってどのように変化したのか、何が残され、何が削られたのかを確認する。例えば、実際のインタビューでは長い沈黙や言い直しがあったとしても、記事では読みやすい文章に整えられている可能性がある。複数の話題が前後しながら話されていたものを、一つの筋が通った物語として再構成している場合もある。その結果、取材相手の考えが、実際よりも一貫しているように見えることも考えられる。どのような編集が、相手の言葉を伝わりやすくするために必要なのか。どの時点から、編集者の考えを相手の言葉に重ねすぎることになるのか。完成した記事と元の記録を比較することで、「編集しすぎない」とは具体的にどのような状態なのかを検討する。
さらに、雑誌をつくる私自身のあり方についても考えていく。私はなぜ雑誌をつくるのか。寮生のために制作しているのか、自分がつくることを楽しむためなのか、寮で過ごした時間を残すためなのか。おそらく、そのどれか一つだけが答えなのではなく、複数の理由が重なっている。
これからは、「月刊イータ」を完成させることと並行して、制作中の自分の感情や判断を記録する。その記録を通して、つくることが私にとってどのような意味を持つのか、また、メディアをつくることによって私と他者との関係がどのように変わっていくのかを明らかにしたい。
最終的に、「月刊イータ」を、寮の出来事を一方的に説明する広報物ではなく、寮で暮らす人々の異なる視点や言葉が並ぶ場所として成立させたい。そして、4年間暮らしてきたイータヴィレッジを、自分一人の視点だけで語るのではなく、さまざまな寮生の語りを通して記録していきたい。月刊イータが、この寮になにをのこすのかについて考える。一緒に寮生誌を作る寮生や読み手と話していると、月刊イータがきっかけとして作られた彼らとの関係性ものこしていきたい。こうした想いを抱きながら、この寮生誌の行く末を観察し記録することとする。
プロジェクト名、「Unedited」は、単に編集されていない状態を意味するものではない。雑誌をつくる以上、文章や写真を選び、順番を決め、誌面に収まる形へ整える編集は必ず行われる。それでも私は、寮生の言葉や出来事を、分かりやすい一つの物語にまとめすぎないようにしたいと考えている。人の考えは常に一貫しているわけではなく、時間の経過によって変わることもあれば、相反する感情を同時に持つこともある。私自身も、寮生、編集長、卒プロ生という複数の立場の間で迷い、その都度異なる判断をしている。
「月刊イータ」に残したいのは、完成された寮の姿ではなく、その時々で変化し続ける寮生の言葉や関係性である。完成した誌面だけでなく、掲載されなかった文章、変更された企画、制作中に生じた衝突や迷いにも、その時のイータヴィレッジの姿が表れている。編集によって一つの意味に回収するのではなく、整理しきれないものを残すことも、記録の方法の一つである。
月刊イータをつくり続けるなかで、私は他者を記録しているだけでなく、他者との関係によって変化する自分自身も記録している。これからも、誌面に現れる言葉と、誌面の外側に残された出来事の両方を見つめながら、編集することと、編集しすぎないことの間で考え続けたい。