まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

「考現学」の誘惑

(2021年5月5日)この文章は、2016年5月に書いたものです(依頼されて執筆したものですが、結局のところ形にならずに5年が経過しました)。授業や「卒プロ」の指導で参考資料として共有するため、ブログで公開しました。本文は執筆時のまま、必要に応じて脚注を加えています。

採集される日常

オランダの写真家、Hans Ejikelboomによる『People of the Twenty-First Century』には、彼が街頭で撮り続けてきた写真が並ぶ。彼は、一日に20分から数時間をかけて80枚ほどの写真を撮り、それを毎日、20年間続けてきたという。それぞれのページは、たとえば「赤いジャケット」「ベビーカー」「ルイヴィトンのバッグ」のように、テーマごとに構成されている。その日の「お題」を決めて、対象となった装いや持ち物などを塊集するというやり方だ。オランダの各都市をはじめ、上海、ニューヨーク、東京など、いくつもの都市で撮影されたスナップ写真なのだが、一つひとつの都市の歴史や文化の多様性を忘れて、被写体となった数多くの人びとのなかに、まさに(タイトルが示唆する)“21世紀の人びと”の共通性・同質性を見出すことができる。

いっぽう、Jason Polanの『Every Person in New York』は、2008年の3月に最初の投稿があってから、いまなお続いているブログである。タイトルのとおり、ニューヨークの“すべての人”をスケッチしようという試みで、説明文によると、彼は決められた場所に定期的に立って、2分間でスケッチを描くらしい。道行く人にわざわざ足を留めさせることなく、2分というわずかな時間であるからこそ、日課のようにスケッチを描き続けることができるのだろう。2015年には、ウェブに掲載されていたスケッチが束ねられ、ブログと同名の書籍が刊行されている。収録された30000点におよぶスケッチを眺めていると、いずれ本当に“すべての人”が描かれるような気にさえなる。むろん、書籍が刊行されてからもスケッチは続けられている。興味ぶかいのは、彼がいつ頃どこでスケッチを描くかという情報が提供されているという点だ。もし自分もスケッチに描かれたい場合には、その時間・その場所に赴くというわけだ。対象にえらばれれば、一連のスケッチのなかに自分の姿が織り込まれることになる。*1

もちろん、他にも類似の試みはたくさんある。私たちは、このような夥しい数の写真やスケッチのコレクションに触れるたびに驚嘆し、しばし時間を忘れてページを繰る。私たちが、日常を採集する試みに惹かれるのはなぜだろうか。

 

個性に近づく

私たちは、フィールドワークに出かけると、調査者としての役割を意識するようになる。そして、ごく自然に、普遍抽象的な言明を求める。具体的な事例をとおして、一般化を試みる。もちろん、調査と呼ぶからには、汎用性のある成果に結びつくことは大切な使命だ。だが、「考現学」的なフィールドワークの強みは、「個性」を扱うアプローチだという点にある。徹底して、人びとの暮らしやまち並みの詳細な観察と記述を試みる。個別具体的な目線に自覚的になると、知識のあり方だけではなく、コミュニケーションのスタイルまでもが変わってくるはずだ。それは、「例示的定義」をあたえていくことに他ならない。

例示的、個別具体的であるからこそ、私たちは実態をともなうかたちで共感したり反発したりすることができるのだ。だから、一般化・概念化への欲求をひとまず捨てる覚悟が必要だ。自分自身や身近な知人、友人、そして自分の身の回りの出来事と比べながら、一枚一枚の写真やスケッチを注視する。そのとき、私たちはたんにその時間を愉しんでいるだけではなく、人びとの暮らしやまち並みについて、自分なりの理解を創造しているのだ。これは、専門家が撮ったり描いたりした「決定的瞬間」ではない。何枚もの写真やスケッチを並べ替えたり分類したりしながら、少しずつ私たちの日常生活の輪郭が描かれてゆく。冒頭で紹介したような事例をふくめ、私たちが「考現学」的な方法や態度に惹かれるのは、おそらく量が質に変換されうることを実感するからだ。

こうした「考現学」的な調査には、多大な時間とエネルギーが必要になる。冒頭で紹介したように、自分なりのやり方を考案し、日常的に続けられる工夫と、なによりも、尽きることのない情熱があれば、一人で実践できるのかもしれない。もちろん、誰かの力を借りながら調査をすすめるやり方もある。今和次郎の『モデルノロヂオ』(1986, 復刻版)を見ると、彼自身によるまち歩きの報告とともに、連名で書かれた記録も数多くある。なかには、「採集者」として数名の名前(今に師事していた学生かもしれない)が並び、今和次郎自身は「説述」という役割を担って書かれたレポートもある。あるいは、『モデルノロヂオ』の共編著者である吉田謙吉(今和次郎の後輩にあたる)を「参謀総長」と呼んだり、「〜君に現役に廻ってもらって」といった記述があったり、まちを踏査するための調査隊ともいうべきチームが編成されていたことがうかがえる。

複数のメンバーから成るチームを編成して「考現学」的な調査をすすめようとする際、どのように調査を設計すればよいのだろうか。チームワークや成果のまとめ方など、考えるべきことは多岐にわたる。なかでも、まず重要だと思われるのは、「調査マニュアル」ともいうべきものを整備することだ。いわゆる「ローラー作戦」のように広い範囲をカバーする場合、あるいは何度かに分けて同じフィールドを訪れて時間的な変化をとらえたい場合には、対象となるフィールドをいくつかに区分したり、時間のシフトを決めたりして、分担することになる。数を数えるという単純な作業であったとしても、調査対象を的確にとらえるためには、調査者のあいだに生じうるバイアスを極力減らす努力が必要で、そのためには、情報の共有やトレーニングが欠かせない。

今和次郎らによる調査報告に触れるとき、私たちはイラストや図解などに目が行きがちだが、多くの場合、調査の過程にかんする記述や「調査規定」が付記されている点にも注目したい。成果のみならず、方法そのものも記録・公開することは、調査の設計という観点から、きわめて示唆に富んでいる。すでに10年以上前のことになるが、ゼミの学生たちとともに、1926年に行われた「銀座風俗採集」を辿るフィールドワークを実施したことがある。もちろん、すべての面において完全に調査を再現できたわけではないが、実際にまち歩きをはじめるにあたって、オリジナルの記述を全員で確認した。あれこれと想像しながら、私たちなりにアレンジが加えたものの、たとえば、「京橋から新橋までの間を調査区間とす。」「主として西側を調査す。」「調査区間を20分の歩度で歩く事とし、その途上に於て前方より歩み来る人のみを調査の対象とし、立停る人、追い越す人その他一切を調査に加えず。」のように、歩く経路やスピードなど、調査者のふるまいを規定する指針が明記されていたおかげで、不完全ながらも、当時の「風俗採集」のようすを追体験することができた。

 

フィールドワーカーの想像力

チームによるフィールドワークは、容易ではない。一人ひとりの能力やセンスが問われることもたしかだが、チームですすめるという方針を採用した時点で、私たちはチームづくりの課題に向き合うことになるからである。それは、フィールドワークの基本的なマナーや礼儀をはじめ、記録の方法、情報共有、成果のまとめ、表現のスタイルにいたるまで、「全体」としてフィールドワークを設計する視野が求められる。もう一歩すすんで言えば、調査チームのメンバーが、お互いに(健康的に)競いながら感性や能力を高め合う、「学習コミュニティ」の醸成を目指すことが望ましい。

調査者は、ひとたびチームのメンバーになると、共通のボキャブラリー(調査に関わる専門用語、略称や符号など記述に必要な決まり事をふくむ)を身につけ、つねに適切な方法で情報共有を心がけるよう求められる。チームのリーダーは、「調査規定」の形式化や、メンバーのトレーニング(実習)も計画しなければならないだろう。

ここで重要なのは、調査のためのチームづくりには、重要な問題が埋め込まれているという点だ。というのも、「調査規定」の整備やトレーニングなど、調査方法の形式化は、メンバーそれぞれの個性を奪うことになるからである。チームにおいて「一人前」になることは、「余計なことは考えずに、調査規定のとおりに観察・記録をおこなう」能力を身につけることだ。極端に言えば、いつ、どのような状況でもチームの一員として適切にふるまうことができる、お互いに交代や補完が可能なメンバーになることが要請されるのである。誰がやっても、同じようなデータが収集できること、つまり調査の再現可能性が担保されてこそ、調査の規模を拡大したり、長期にわたってデータ収集を継続したりすることができる。

だが、私たちは、フィールドワークをすすめているとき、しばしば予期せぬ出来事に遭遇する。偶然の出会いや、発想の連鎖が、あたらしい知識の創造に結びつくことを、私たちは経験的に知っている。いっぽうでは「調査規定」を従順に参照し、できるかぎり効率的に調査をすすめていながらも、あたらしい発見のためには五感を開放しておかなければならない。まさにフィールドワークの現場で、(ある程度)臨機応変に判断しながら、調査のすすめかたを修正してゆく態度も必要だと言えるだろう。

私たちのコミュニケーションは、〈見る=見られる〉という関係によって成り立っている。人びとの装いや流行(ファッション)は、まさに視線のやりとりをとおして構成・再構成されるコミュニケーションだと言えるだろう。かつては、モードの先端を牽引する「モデル」たちと出会うために、まちに出かけた。「モデル」たちにとって、街頭は舞台であり、人びとの視線を集めることによって自らの装いへの意識を高め、さらに感性が研かれていった。私たちは、メディアを介して見聞きする流行や風俗を、自分の目で直接たしかめるために路上に向かう。

雑誌などの媒体は、もちろん重要な情報源であり続けるはずだが、ネットワーク環境の変化にともなって、私たちが消費する視覚情報が急速に肥大化している。人びとの装いがスナップ写真として雑誌のページ、さらにはウェブページに定着されるようになり、その過程で、私たちのふるまいや心理構造も少しずつ変容してきたと考えられる。多様な人びとのふるまいは、分類・配列できる対象として理解され、「〜系」「〜クラスター」といった呼称をあたえられて整理される。

分類枠組そのものが、これまで以上に身近な存在になったということだ。私たちは、さまざまな変化に迅速に対応するために、あらかじめ決められた分類枠組や解釈のしかたを、さほど疑うこともなく受け容れてはいないだろうか。すでに述べたとおり、私たちの想像力は、一般化・形式化への欲求を断ち切って、個性に着目することによって刺激される。「モデル」は、そのままコピーするための「ひな形」ではなく、批判の対象であり、また乗り越えるべき対象のはずだ。

  

「定点観測」のこれから

アクロス(パルコ)が、渋谷・原宿・新宿の3地点ですすめてきた「定点観測」は、1980年にはじまったので、2016年は36年目になる*2。時代は変わり、記録や記述の方法も変化しているが、文字どおり「定点」を決めて調査が続けられてきたことはとても意義ぶかい。これまでに蓄積されてきたデータをどのように活かし、人びとの装いや風俗を読み解くのか。「調査規定」の整備をはじめとする調査の組織化について、いくつかの観点からあらためて考えておく必要があるだろう。

まず、重要だと思われるのは、データを「〜系」「〜クラスター」といった呼称をあたえること自体の意味を問う姿勢だ。私たちはSNSなどを駆使しながら日常生活を組み立てている。視覚情報が肥大化しているとはいえ、デジタルメディアによって、私たちのまちへの関心が駆逐されるわけではない。路上とメディア環境は協調的に併存しているという点をふまえて、あたらしい感性と技術によってフィールドワークの方法を再定義・再編成していくことになるだろう。

そして、被写体となった人物とともに写り込んだ風景に注目することも大切だ。言うまでもなく、全世界的な「トレンド」として語られるファッションや風俗もある。だが、たとえば「定点観測」が、ある地点によって行われたという事実を、あらためて考える必要がある。私たちは矩形に切り取られたスナップ写真を眺めながら、フレームの「外」へと想像力をはばたかせながらも、ローカルな意味づけを試みる。そのいとなみこそが、「考現学」が個性を探究する方法であることを再確認する契機になる。

こうした変化をふまえて考えると、私たちは、人びとの装いやふるまいを「属性」としてではなく、「状況」としてとらえることの重要性に気づくだろう。「〜系」「〜クラスター」という呼称をつかう場合でも、それが固定された「ラベル」であるかのように理解するのではなく、ある条件のもとで場合によっては一時的に生起する「状況」として理解することが重要だ。

近年、ネットワーク環境を前提として、私たちの「モビリティ(移動性)」に関わる諸側面の再編がすすんでいる。ケータイからスマートフォンになり、誰もが高画質のデジタルカメラを持ち歩くようになった。スナップ写真は、ハッシュタグとともに即座にアップロードされ、SNSを介して拡散する。位置情報などは、自動的に写真に埋め込まれるようになった。当然のことながら、私たちのコミュニケーションや人間関係が、組み替えられている。

さらに言えば、いまや自撮りの時代である。ファッションや持ち物の自撮り写真をInstagramなどを介して公開している人は少なくない。これまで時間とエネルギーを投じて整備されてきた「定点観測」の方法が、モバイルメディアの受容・普及にともなって、変化しつつあると考えることもできるだろう。自らをプロデュースし、ネット上に絶え間なくスナップ写真が投稿されている状況は、これまでの「定点観測」の方法にどのような影響をあたえるのだろうか。まさに、私たちが「つねに動いているということ(always on the move)」を明示的に扱う、調査・研究の方法と態度が求められていると言えるだろう。

 

参考

  • Jason Polan(2015)Every person in New York. Chronicle Books. (http://everypersoninnewyork.blogspot.jp/
  • Hans Eijkelboom(2014)People of the twenty-first century. Phaidon Press.
  • 今和次郎・吉田謙吉(編著)(1986)『モデルノロヂオ(考現学)』(復刻版)学陽書房

*1:2020年1月、Jason Polanが37歳という若さで他界したという突然の訃報に驚かされた。2021年には、2冊目のドローイング集『Every Person in New York Vol.2』が刊行されている。

*2:この原稿を執筆後、5年が経過しているので、「定点観測」の歴史はすでに40年以上になる。

COVID-19と展覧会

この文章は「かんガエル。」からの転載です。→ https://kangaeru.iincho.life/entry/2021/03/24

成果をまちに還す

年度末には、1年間の活動を紹介するちいさな展覧会を開いている。もともとのきっかけは、2003年にさかのぼる。学生からの情報で、デザインや建築系の学生有志が「卒業制作展」を企画していることを知った。個人でのエントリーがほとんどだったようだが、「研究会」として(つまりグループとして)出展を申し込むことにした。横浜の赤レンガ倉庫が会場で、とても楽しい時間を過ごすことができた。当然のことながら、教員として仕事をしていてもすべての学生と接するわけではないので、こうした機会があると、いろいろな出会いがある。
なにより、学生が主体となって企画や渉外、広報にいたるまでがんばっているようすは、それだけでいい刺激になった。美術系・芸術系の大学であれば、学部や大学が「展覧会」(いわゆる「卒展」)を学事日程に位置づけていることも少なくない。カリキュラムに組み込まれていたり、資金面でのサポートがあったり、展示をつくること自体を教育の一環として、実践している場合もあるはずだ。

ウチの場合は、そういうわけでもなく、「言い出しっぺ」になる学生がいるとグループが組織化されてイベントが実現する。上手に引き継がれると恒例のイベントとして定着してゆくのだが、いつでもそうなるとはかぎらない(どちらかというと、続かずに消えるパターンが多いように見える)。なんとなく予想はしていたのだが、つぎの年は、その企画についての話題がなかなか聞こえてこなかった。ならば、じぶんたちでギャラリーを借りて展覧会を開けばいい。そう思ってはじまったのが「フィールドワーク展」である。2005年2月に展覧会を開いてから、以来、会場を変えながらも毎年続けてきた。今回は、17回目の開催だ。*1

f:id:who-me:20200206165534j:plain【2020年2月|フィールドワーク展XVI:むずむず】去年は、リアルな空間で展示を見ながら語らっていた。(恵比寿, 弘重ギャラリーにてhttps://vanotica.net/fw1016/

ぼくたちの調査研究は、フィールドワークやインタビューといった方法を使いながらすすめることが多いので、当然のことながらキャンパスの「外」との接点が生まれる。まちに暮らす人びとと出会い、信頼関係をつくるところからはじめて、良好な関係を築くことができると、調査が終わってもそのつき合いは続く。そう理解すると、調査研究の成果は、大学に留めておくわけにはいかない。「外」で成果を発表するのは、お世話になった人びとへ感謝の気持ちを伝えるためでもある。まちなかのギャラリーを借りて開催すれば、通りすがりの人に見てもらうこともできる。また、学生の調査研究の成果であっても、教員であるぼくが唯一の評価者である必要はない。そもそも「正解」のない題材をあつかっているのだから、多くの目で眺め、いくつもの声でふり返ったり語ったりすることが重要なのだ。
「フィールドワーク展」は、何年か続けているうちに、1年間のリズムを刻むイベントとして欠かせないものになった。年が明けて、学期末の試験やレポートの提出が終わるころに展覧会が開かれる。慌ただしく過ごすことになるが、設営、展示を経て撤収まで済ませると、ようやく1年が終わって節目が来るような、そんな感じだ。毎年、ほぼ同じ時期に開催するので、卒業生たちが展示の会場を訪ねて来るようになった。ちょっとした「同窓会」のようなもので、ぼくにとっては、年に一度、お互いの近況を知る機会になっている。また、最初はまったく想像していなかったのだが、「外」で開催することで、学生たちの家族も展示に足をはこんでくれることがわかった。たしかに、キャンパスで報告会を開いていたら、教員と学生だけの「閉じた」集まりになってしまう。その意味でも、まちにひらくこと、まちに還すことの大切さを実感している。

 

展示とコミュニケーション

ところで、「展示」にはいろいろなやり方がある。これまで「フィールドワーク展」というタイトルで続けてきたが、回を重ねるごとに、ぼくたちにとってどのような展覧会が望ましいのかがはっきりしてきた。
たとえば、ぼくたちが美術館や博物館を訪れるとき、多くの場合、企画の説明パネルを読み、あらかじめ決められた「順路」にしたがって、一つひとつの作品と向き合う。作品のそばにはキャプションのパネルがあるので、補足的な情報をえることができる。ガイドツアーで巡ったり、音声ガイドを聞きながら会場を歩いたりすることもある。いずれにせよ、ぼくたちが出かける「展示」では、会場で作者本人に出会うことはあまりない(トークショーが企画されたり、運が良ければ在廊中の作者とことばを交わすことはある)。
そもそも、作者が同時代を生きているとはかぎらないのだが、展覧会では、時代や場所を超えて、作品を介して作者と出会うことができる。それが、「展示」の価値なのだろう。実際に、ぼくたちは、展示の会場に足をはこぶことで、多くの「巨匠」たちに出会ってきたのだ。

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【2019年2月|フィールドワーク展XV:ドリップ】(渋谷, LE DECOにてhttps://vanotica.net/fw1015/

展覧会では、作品をとおして作者の考えを知る。完成にいたるまでの試行錯誤の過程を想像しながら作品と向き合う。作者の世界観や時代精神などに触れ、ちいさな旅に誘われるような気分になる。「フィールドワーク展」で展示されるのは、個人やグループですすめられたフィールドワークの成果だ。言うまでもなく、フィールドワークは一回性の〈現場〉によって成り立っている。つまり、その〈現場〉を直接体験として理解しているのは、調査者のみだ。それ以外の来場者たちは、個別具体的なフィールドワークの「ものがたり」を間接的に知ることしかできない。だからこそ、フィールド調査では、目の前の〈モノ・コト〉をつぶさに観察、記録して、詳細に記述することが重要になる。調査を終えると、写真やフィールドノートをもとに〈現場〉の復原を試みながら、文章を書いたり、図解や地図、表などで表現したりする。ゼミの活動の一環としておこなうフィールドワークは、数か月から1年近くにおよぶ場合もある。

「フィールドワーク展」では、さまざまな工夫をしながら、フィールドワークで体験したことをコンパクトにまとめて展示する。そのために、じぶんで集めたデータを取捨選択し、編集・加工するセンスと能力が問われることになる。成果は、パネルや冊子、動画、模型などになって、会場に陳列される。
じつは、重要なのはその先である。ぼくたちの展示は、その場で来場者のかたがたと話をすることで成立しているからである。フィールドワークの体験は、どれほど緻密にデータを編集しても、「見ればわかる」ほど単純ではない。調査者の意味づけや解釈は、誰かに語ることによって、逐次書き換えられてゆく。複雑な現場であれば、ぼくたちの理解はコミュニケーションとともに移ろう。それがフィールドワークの本質であり、展示すべき内容だと言えるだろう。
もちろん、いろいろな考え方があると思うが、ぼくたちの展示は、作者と作品をできるかぎり切り離さないという姿勢で設計される。それは、複雑な〈現場〉の理解が、コミュニケーションのなかで逐次創造されると考えているからである。その意味では、フィールドワークの成果は、いつ完成するのかわからない。だから、「加藤研の展覧会」は、一般的なイメージとはちがうのかもしれない。

 

オンラインで展示する

この1年は、COVID-19の影響を受けながら窮屈な毎日を強いられた。「外」に出ることが許されない状況で、フィールドワークもインタビューも、あたりまえのことではなくなった。先行きが不透明ではあるものの、なんとか「フィールドワーク展」はリアルな空間で開催したいと思っていたので、そのつもりで会場の予約をした。2015〜2017年度にかけて使ったことのあるギャラリーだ。それなりの広さがあるから、レイアウトや「順路」を工夫できそうだ。可能なかぎり「密」を避けるように、事前予約制にして人数を制限しよう。学生たちは「コロナ対策班」を編成して、あれこれと考えはじめていた。

展覧会をつくるさいには、会期中だけではなく準備や設営、そして撤収にいたるまで、密接なコミュニケーションが必要になる。秋口まで、ほとんど会う機会がなかった学生たちは、うれしさ(これまでのストレス)も手伝ってか、すぐに近づこうとする。これは、秋学期の授業をキャンパスで開講したときに、間近に見て実感したことだ。気持ちはわかるが、準備や設営のさいに、何かあっては困る。
年末に向けて、報告される感染者数が日ごとに増えていった。オンライン開催の可能性も考えつつ、それでも対面で開催するつもりで準備をすすめていた。会期は2021年2月5日から7日までの3日間で、年末には展覧会のウェブを公開した。予約用のフォームへのリンクも掲載した。

1月7日、2度目の緊急事態宣言が発出された。それに伴って、大学としての「活動指針」も書き換えられた。大学生にとって、年度末の成果報告の機会が「不要不急」なはずはないのだが、なにより、ぼくたちが予定していた展示の会期だと、緊急事態宣言が解除されていないことになる(緊急事態宣言は、その後、さらに2週間延長された)。あれこれと可能性を考えてみたが、やはりムリをしてギャラリーで開催するのはやめようと思った。そもそも、この状況では、あまり気乗りしないだろう。準備をするぼくたちもそうだが、わざわざ会場まで足をはこんでもらうのも気が引ける。
今年はオンラインで開催するしかないのだろうか。対面での実施をあきらめようと思いながらも、オンラインで展覧会を開くことには抵抗があった。というのも、すでに述べたとおり、ぼくたちの展示はコミュニケーションのなかでつくられるからだ。「見ればわかる」ような成果のまとめ方ではない。ライブ配信や遠隔会議のようなやり方だと、どうしても一方的に情報を「伝達」するような仕立てになってしまいがちだ。そもそも、タイル状に顔が並んでいる画面は、息苦しい。それは、まさにパノプティコン(一望監視装置)の風景であって、作品を見ながらギャラリーを回遊する感覚とはまったくちがう。また、画面でスライドや動画が表示されると、ぼくたちは集中して作品(発表)を見つめることを余儀なくされる。
もっと、のびやかなオンラインの時間をつくることはできないのだろうか。オンラインで実施するにせよ、どうすればよいのかわからずにいた。

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そんなとき、同僚からGather.townを紹介してもらった。どうやら、すでに学会のポスター発表などで使われているらしい。しばらく前の世代のゲーム画面のようだが(ぼくにとっては、むしろ、このほうが親しみがある)、ちいさなアバターで、画面のなかを動き回ることができる。平たいディスプレイであることには変わりないが、これはコミュニケーションをよく考えたシステムのように見えた。直感的に、これは「使える」と思った。

毎年、中心になるのは学部の「卒プロ」の成果を発表する4年生たちだ。1月16日、4年生たちとミーティングをして、今年の「フィールドワーク展」はオンラインで開催することに決めた。 会期まで、3週間弱である。そこからGather.townのなかに、展覧会の会場をつくることになった。オンラインの空間なので、かなり自由ではあるが、実際に使い方を覚えながら「フィールドワーク展」の会場づくりをはじめた。ちょうど1月中旬から2月にかけて、Gather.town自体も少しずつバージョンアップがすすんでいて、途中で仕様が変更されることもあった。

4年生の「卒プロ」の展示、グループワーク、そして全員ですすめたフィールドワークなど、1年間の活動の成果として、それなりにコンテンツは充実している。日ごとに会場のレイアウトに変更をくわえ、さらに、利用のための(操作ガイドの)ビデオをつくったり、物販のサイトをつくったり、少しずつ賑やかになっていった。梱包や搬出、搬入、設営といった作業がないので、いつもと勝手がちがう。オンラインでの開催を決断したときは、ずいぶん落ち込んだが、会場が彩られてゆくのを見て、少しずつ前向きな気持ちになった。前日には無事に会場が整って、みんなで記念撮影をした。

そして、無事に「フィールドワーク展XVII:つきみててん」がはじまった。初のオンライン開催である。初日の朝から人が集まって、最初は戸惑いながらも、会場のなかを歩き回るようになった。ディスプレイで会場全体のようすを俯瞰できるのは、オンラインならではの不思議な感覚だ。Gather.townは、とてもよくできている。複雑な動きはできないが、アバターを操作しながら会場を徘徊するのは、思っていた以上にじぶんの身体とつながっている感覚だった。画面のなかで誰かに近づけば、ビデオは鮮明になり、声もはっきりと聞こえるようになる。離れるとビデオは半透明になって、声も遠くなる。微妙な距離にいれば、近くにいる人の会話もなんとなく聞こえてきた。
会場には、コミュニケーションの身体感覚があった。結果としては、とてもいい展覧会になった。3日間で280名ほどの人が、展示を見に来てくれた。ぼくたちが理想とする、会場でのコミュニケーションがある程度は再現された。ゆっくりと、話をしながら会場を案内することができた。

もうひとつ、さほど考えていなかったのは、撤収がいらないことだ。一部のリンクなどは、必要に応じて会期後に削除しているが、展覧会の会場は、展示物とともにオンライン空間に残っている。いま訪れると、ちょっとした“ゴーストタウン感”もあるのだが、あたらしいアーカイブのありかたを示唆しているのかもしれない。展示の概要をまとめたカタログでもウェブでもなく、会場が(ほぼ)そのまま残っている。誰もいない会場を動き回っていると、場所に結びつけられた記憶がよみがえってくる。

*1:これまでの「フィールドワーク展」一覧 https://fklab.today/exhibition

exploring the power of place - 050

【本日発行】️ ついに50号。2016年5月に創刊してから5年(10セメスター)続けてきました。突然ですが、この節目で「休刊」となります。これまで、ご愛読いただき、ありがとうございました。
加藤研のウェブマガジン“exploring the power of place” 最終号(2021年2月20日号)のテーマは、「距離」です。→ https://medium.com/exploring-the-power-of-place/tagged/050

◎ 第50号(2021年2月20日号):距離(5)
  • モーツァルトからHIP HOP(芝辻 匠)
  • 最後の直線(田村 糸枝梨)
  • 人との距離感って難しい(巌真 風夏)
  • Being vegan, without being vegan (sorta)(牧野 渚)
  • 死に近いという感覚はワンテンポ遅れてやってくる(岩崎 はなえ)
  • 今日から私たちは、(安藤 あかね)
  • 「見えない」(藤田 明優菜)
  • 陽の当たるところ(山田 琴乃)
  • くっつかなくても、あったかい(中田 江玲)
  • ある女(飯盛 いずみ)
  • ⌘Shift3(太田 風美)

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「つきみててん」へ行こう。(3)

「声」だしていこう!

ずっと続けてきた展覧会。対面での実施を断念したときは、かなり落ち込みましたが、いや、どうにかなるだろう、どうにかしなくては、という前向きな気持ちになったのは、学生たちがなんとか元気に生きのびているからです。まぁ大変なことが起きているわけで、投げやりになったり迷ったりもしながら、「それなりに」学生たちとともに過ごしてきました。だから、「この研究は何の役に立つの」「どういう意味があるの」などと問うまえに、まずは、画面のなかで会えたことをよろこびましょう。
展示されているモノはともかく、コミュニケーションがあればこそ、やりとりのなかから、きっと何かが生まれます。ちょっと戸惑うかもしれませんが、すれ違ったら「こんにちは!」から。「声」だしていこう! という2日目の朝です(ビデオもオンにすると、楽しい場合もあります)。会場でお待ちしています。

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「つきみててん」へ行こう。(2)

加藤研の1年 編

ぼくたちは、フィールドワークやインタビューに代表される質的調査(定性的調査)を重視していますが、COVID-19の感染拡大にともない、方法そのものの再定義・再編成が必要となりました。とりわけ、人びとの暮らしに接近し、能動的にかかわりながらその意味や価値を理解しようという試みは、対面での「密な」コミュニケーションを前提として成り立っており、現在の状況下では、調査研究そのものが大きな制約を受けました。そのなかで、フィールドワークやインタビュー、生活記録のありようについてずっと考えていました。

学生たちとともに、全国のまちを巡る「キャンプ」の活動(ポスターづくりのワークショップ)は、すべて断念。春学期は、オンライン環境に慣れることも課題になりました。秋からは、注意しながら少しずつ「外」での活動を増やし、「非接触型」のフィールドワーク(観察とスケッチの実習)をおこないました。来年度も、人びとの移動、集まり、社交などのふるまいをとらえなおし、オンライン環境における質的調査について検討することも、大切な課題として位置づけています。
フィールドワーク展XVII:つきみててん」では、2020年度春学期・秋学期のおもな活動をウェブやビデオで紹介します。結果としては、ぼくたちにとって特別だった2020年 --- マスクをつけることが日常化したり、もっぱら画面越しにやりとりしたり --- が記録されたことになります。将来ふり返ったとき、〈いま〉のぼくたちの暮らしやふるまいを思い出すきっかけになるはずです。

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「フィールドワーク展XVII:つきみててん」は、オンラインで開催することになりました。詳細は https://vanotica.net/fw1017/ ほかで随時お知らせします。

2020年度春学期

ちょっと窮屈な毎日|It's a bit tight

(2020年6月):COVID-19の影響を受け、ぼくたちの日々の暮らしがどのように変容したのか、オンラインでインタビューをおこないました。オンラインによる調査の方法については不慣れなことばかりで、いろいろと試しながらでしたが、結果としては海外などもふくめ、多様な〈声〉を集めることができました。典型的な生活時間については、やはりそれぞれの場所での感染者数の状況を反映していることがうかがえる結果になりました。


A Day in the Life

(2020年7月)家にいる時間が増え、全員が集うことのない毎日。「7月25日」を指定し、その日の一人ひとりの生活の「細片」をビデオにまとめました。

 

2020年度秋学期

人びとの池上線|Every Person in Ikegami Line

(2020年10月)敬愛するJason Polanの方法をトレースしながら、東急池上線の各駅で観察とスケッチの実習をおこないました。「非接触型」フィールドワーク/ワークショップの試みです。駅を行き交う人びとの生態 -- とくに〈いま〉のマスクをつけた人びとのようす -- をとらえました。

人びとの池上線(スケッチ) - まちに還すコミュニケーション

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人びとの世田谷線|Every Person in Setagaya Line

(2020年11月)10月に実施した観察とスケッチの実習を(ほぼ同じやり方で)もう一度、東急世田谷線の各駅で実施しました。

人びとの世田谷線(スケッチ) - まちに還すコミュニケーション

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A Day in the Life 2

(2021年1月)ふたたび「緊急事態宣言」が発出されました。上述のA Day in the Lifeから、ちょうど半年。「1月25日」の一人ひとりのようすです。

このほかにも、ポスタープロジェクト(2009-)ジブンジテン(2009-)などの展示も計画しています(準備状況しだいですが)。

 

(つづく:次回は「卒プロ編」です。)