まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

加藤研を通じたフィールドワークの面白さの探究と私たちの相互作用

(2026年8月7日)この文章は、2026年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

吉田 優斗|Yuto Yoshida

 

はじめに

「何をやっているのですか。」「これによってどうなるのですか。」この言葉は展覧会や研究会の説明をする際に必ずといってもよいほど聞かれる質問である。私は未だかつて、このような質問に自信を持って答えることができていただろうか。そもそも、私はこの研究会の活動をしっかりと理解することが出来ていたのだろうか。私がこの研究会で出会ったフィールドワークや成果物作りは、これまでの私の学問の常識を打ち破るような新しさと斬新さ、そして楽しさを有しているものであった。しかし、それはすべて自分自身の漠然とした感覚であり、果たしてそれが何になるのか、どうなっていくのかということは私にも分からなかった。そこで加藤文俊研究会(以下加藤研)について調査することにした。加藤研の人々がこれまで行ってきた活動を振り返り、知ることによって、この疑問や自分自身の実感に何か名付けや答えを出してみようと試みた。しかし、早くも壁にぶつかってしまった。過去の卒業生の卒業研究を読み進めていたのだが、それではパソコンと向き合うのみで、フィールドワークや成果物といったものからどんどん離れていってしまったのだ。それは、加藤研の研究をしながらも、自分自身で実践していたことは最も加藤研から遠いところだったということだ。そこで、かつて私が加藤研の活動でフィールドワークを行っていた藤沢を対象に再度フィールドワークを行うことにした。なぜ藤沢なのかというと、加藤研に所属し、種々の活動を行っていくなかで、フィールドワークや成果物作りが最も上手くいかなかったのが藤沢だったからである。なぜ、上手くいかなかったのかは私にも分からない。ただ、フィールドワークも成果物も十分に納得のいく結果ではなかったことは確かである。そこでフィールドワークを探るためにも、そして過去のリベンジを果たすためにも藤沢というまちを選んだ。

過去の卒業生の活動を振り返る

研究を開始した初めのころは、加藤研のことを調査するべく過去の卒業生の研究を調べていたのでそれを一部紹介する。調べた過去の卒業研究は2023年から2021年までの計10本。調査方法としては、文章を読みながら気になったところや良いと思ったところをメモ書きし、その後、氏名、タイトル、テーマ、年度、観察方法、記録方法、場所・対象、頻度等、アウトプット、文献、気づき、苦労したことなど、まとめ、感想、評価という項目で、エクセルにまとめ、記録をとった。特に重点を置いて記録/記述したのが観察/記録方法と気づき、苦労したことである。各卒業プロジェクトに個性が詰まっていたのだが、そのなかでも特に感銘を受けたものをいくつか紹介していきたい。

2023年の卒業プロジェクトの1つである『人びとの博物館』~東京国立博物館の来館者スケッチと、その様態の考察~ではタイトルの通り、東京国立博物館に訪れる人々のスケッチをテーマとしてプロジェクトが行われている。その文章中に「作品鑑賞をする人同士のわずかな仕草からでも、人と人との関係性は滲み出てしまうもののように感じます。それと同時に、2組のペアを見比べてみると、それぞれの装いが類似しているということにも気がつきます。一方は、なんとなくラフな感じで、もう一方は、シャツとワンピースでフォーマルな感じ。このような装いの違いも、2人の関係性を表しているのかもしれません。」という記述がある。この文章は男女ペア2組の特徴を比較した後に書かれているものであり、大きな気づきを得られる。一方は、身体を寄せ合って視線を合わせながら鑑賞しているのに対し、もう一方は、お互い物理的な距離を保ちながら自立して立っていて、心理的な距離も感じられると記述している。このように事細かに観察してスケッチするだけで、その人にインタビューせずとも、装いや距離感から想像してその人のことを窺い知ることができるのである。その延長線上でその人の気持ちを想像することも、関係性を見出すこともできる。つまり、フィールドワークし、その記録を丁寧にスケッチすることで、その人のことをほんの少しだけでも分かったような心地がするのである。それに合わせてどのような物語を附随させていくのかは私たち観察者の想像力の問題である。

2021の+2℃という卒業プロジェクトでは「誰かを想いながら、その人との時間を構想する、そのプロセスから相手とのコミュニケーションは始まっている。ティーセットを作るという形でなくても、例えば友人と一緒にご飯を食べるためのお店を事前に予約しておくときや、誰かに贈り物をするときも同じだ。相手が喜んでもらえる、心地良くすごしてもらえるために時間と労力をかける中で、そこには自ずとストーリーが生まれる。」と記述されている。私たちは誰かと会うとき、誰かと空間を共有するとき、既に相見えるよりも前からその人とのコミュニケーション、つまり関係の構築は始まっているのである。何を準備するのか、どんな装いをするのか、相手のために何をしようとするのか、私という存在は相手に対して思いを巡らせながら変容していくのである。そうした過程を経て、出会うことによって、関係はさらに織りなされるのである。

フィールドワークに立ち戻る

過去の卒業生の活動を振り返るうちに新たな気づきを得ることができた。まちの眼差し方、人間関係の捉え方、組立て方は、当然ではあるけれど、十人十色、千差万別であるということだ。そのフィールドワークの眼(日常生活の気づき)ともいえるものを知ることが純粋にとても楽しく、また自分自身の中に蓄積しているような感覚もあった。その一方で、上記でも少し触れたが、文章を読んでいるだけでは、自分自身の中にその眼を留めておくだけでは、加藤研的なものからは逆行してしまい、ただの自己満足で終わってしまう。なにより現場に自らの身を置き、実践することの大切さは、加藤研で過ごした2年間によって、肌で感じている。ゆえに藤沢にてフィールドワークを行うことにした。

(図1 藤沢でのフィールドワークの範囲)

6/16(火) 9:20-10:20頃

久しぶりのフィールドワークだった。3か月ぶりであったため意気揚々と藤沢に出かけ、何か見つけまいと意気込んでいた。私がちょうど1年前に藤沢をフィールドワークしていた時とは異なり、駅の整備が進められ、新たに小田急線に二階の改札口が出来ていた。そのようにして、まちの利便性、小綺麗さが上がっていく一方で、自転車の違法駐輪を取り締まる無数の監視員や短い間隔で並べられたコーン、まちの至るところに貼られた注意書きなど、ルールの守らない人々に対して、まちが積極的に取り締まろうとする様子も窺える。また、藤沢駅はJR線、小田急線、江ノ島電鉄線の3つが乗り入れる駅である。電車やそれに伴う人々の出入りが多く、時刻表に沿った人々の流れの様子を見ることができる。どこからかやって来て駅に入っていく人々と、駅から出てきてそれぞれの目的地に散っていく人々とが、まるで波のように打ち付け合い、引いていくことで絶えず人々の流れを形成しているのである。花屋やドラックストアはお店の敷地から越境しがちである。店舗から地続きになっているタイルと道路のタイル、その境目までお店のものが置かれている。その場所は、お店の営業時間外であれば人々が通る通路の一部となっているが、営業時間中はお店の敷地のようになり、棚と商品が陳列されている。時間によって、場所の利用者とその用途が変化する面白い空間である。藤沢駅のすぐそばにはベンチ付きの地下広場が存在する。朝方の時間帯には学生と高齢者が主に座っていて、話をしていたり、誰かを待っていたりしていた。フリーWi-Fiと電源が設置され、藤沢市に関する映像が流されているが、誰も作業していたり、気にしていたりする様子はなかった。多くの人々に使われているような空間ではなく、どちらかというと地元の人のちょっとした休憩場として利用されているという印象を強く受けた。

(フィールドワークの様子、左上図(図2):ドラッグストア、右上図(図3):注意書き、下図(図4):地下広場)

7/11(土) 8:40-10:00

朝だったこともあり、仕入れ(運搬)の車やトラックがとても多い印象であった。シャッターが下りているお店が多く、朝から営業しているお店の中には何人かお客さんがいた。上記の花屋やドラッグストアでは品出し作業が行われており、まさにお店の境界線が拡張されていく経過を眺めることができた。迷いなく作業が進められていて、そこで働く人々の間でここまではお店のものを出しても問題ないといった了解が共有されているのかもしれない。また、新たな発見もあり、藤沢駅の南口と北口のバス停で違いがあることも分かった。南口では、江ノ島電鉄線の改札口がJR線、小田急線の改札口よりも少し南にあるためなのか、江ノ電バスがバスロータリーのほとんどを占めていた。反対に北口では、江ノ電バスもわずかに運行されていたものの、神奈中バスが大部分を占めているような感じだった。このバスの様子は棲み分けや縄張り争いといったものと似ている。ただ、それによって人々の動きが南口、北口で大きく変化するといったことはなかった。

また、定点観測も行った。定点観測を行った場所については以下の図の通り。歩道橋で9:10頃から約20分間行い、人々の様子や感じたことを多くは文字を用いて、補足的にスケッチを描いて、スケッチブックに記録した。この日は晴れ渡っていてとても蒸し暑い日であった。そのせいか多くの人々が日傘をさしており、そうでない人も帽子を被るなど暑さ対策、日差し対策をしているように見えた。また、日傘を差すためだろうか、肩掛けバックや手提げというよりもリュックサックを背負っている人が多かった。予想に反していて面白かったのはハンディファンを持っている人が少なかったことである。これだけ暑ければ日傘と同じくらいハンディファンを持っている人もいると思いきや観察時間のなかで持っている人は10人にも満たなかった。このことを少し考えてみると、2つしか手がない中で、片方の手には暑さ対策品が、もう片方の手がスマホもしくは何も持たない状態であると仮定したときに、より屋外の徒歩で優先される暑さ対策品は、ハンディファンやうちわ・扇子ではなく、日傘であるということがいえるのではないだろうか。さらに、人々の装いに関して、トップスは半袖シャツを着ている人がほとんどであったが、ボトムスでは半ズボンを着用している人はほとんどおらず、長ズボンまたはスカートが大多数であった。

地下広場でも同様にして定点観測を行った。歩道橋と変わらず日傘を抱えている人は多かったが、やや手提げの割合が増えているように感じた。また、マスクをしている人がちらほらといた。そもそも地下道は歩道橋よりも圧倒的に人通りが少なく高齢者の割合が幾分か高い。上記のことを含めて色々と勘案するに、地下道は地域住民にとってひっそりと存在する抜け道のような存在なのかもしれない。また、地下広場には上述の通りベンチがあり、そこで長居する人こそ多くはないが、休憩や待ち合わせの場所として機能していることも分かる。藤沢市に関する映像も流れているが気に留めるひとは全くいない。

(上図(図5):定点観測の地点、左下図(図6):歩道橋での記録、右下図(図7):地下広場での記録)

7/21(火)10:15-11:05

この日は湿度も気温も特に高く、少し外に出ただけで汗が吹き出してしまいそうな陽気であった。いつも私が藤沢駅のFWにおいて回っている順路からは少し外れて、特に駅ビルに着目することとした。藤沢駅に隣接する駅ビルでは館内から駅にそのまま向かうことができる構造を持っている。そのため、特に暑い日では、お客さんでない駅の利用客が涼しい通り道として、行き来する姿が多くみられる。藤沢駅でいえばLIERRE(リエール藤沢 | エキナカポータル)やルミネ(ルミネ藤沢 │ LUMINE)がそれにあたる。そういったフロアでは飲食店やカフェ、パン屋、雑貨屋があることが多く、ふらっと立ち寄れる仕組みが整えられている。また、そこで働く従業員の方々も、お店の目の前を素通りしていく人々に対して特別に意識しているといったことはなさそうであった。ルミネは9階まであり、主に4階は雑貨、化粧品、5階、6階はユニクロ、7階は医院・薬局、8階は事務所、9階は塾である。4,5,6階はお買い物をしているお客さんという体で容易に入ることが出来たが、7階以上は外に対する開放性が低く、立ち入りにくかったため、行くことを断念してしまった。

他の駅ビルでは藤沢名店ビル、OPA、ODAKYU湘南GATEがある。藤沢名店ビル(フジサワ名店ビル | ホーム | Fujisawa | 神奈川県)では、1階に自転車屋、サーティワン、雑貨屋があり、かなり雑然としていて未開の地に足を踏み入れた心地がした。2-5階は本屋があり、その他にアクセサリー・化粧品、雑貨、ミュージックサロンが入っていた。アクセサリー・化粧品店やミュージックサロンといった馴染みのないお店はあったが、親近感のある本屋が自分の居場所を確立するような、中和するような役割を果たしてくれているように思えた。OPA(湘南藤沢オーパ)は1階から3階までは飲食店と雑貨、服屋などが混在するような雑多な配置で、4階以降も雑貨、服、アクセサリー/くつ、ガチャガチャ、スーツ/古着、タワレコ、スポーツ用品店などが入っていた。さらに、7階は無印良品、8階はCOCAというアパレルである。このように様々なジャンルのお店があることによって、フロア全体の居心地の良さが上がっているように感じられた。となると、フロア全体の居心地が良いためか、スーツ屋のような馴染みのないお店の前だけ、急いで通過したくなってくる。つまり、同じフロアの中でも私をどのように位置させるかによって、居心地の良さは変化するということである。ODAKYU湘南GATE(ODAKYU湘南GATE │ 65の専門店と百貨店の個性が集う、お気に入りのコトやモノが見つかる商業施設 │ OdakyuSCポータル)では各階ごとに想定する客層が何となく定められているようなお店の配置であって、居心地の良い悪いがはっきりと分かれた。最も居心地が悪かったのは1階で高級ブランドのアクセサリー・化粧品のお店(しかもショーケース型)が並んでいた。そもそもアクセサリー・化粧品になじみがないうえに、名前だけは聞いたことのあるような海外のブランドがいくつも並んでいて、すぐさま退散した。もっとも居心地が良かったのは4階で百均、眼科、雑貨と物凄く馴染みのあるお店が順番に並んでいた。以上をまとめると、自分自身にとって馴染みのないおしゃれな服屋や婦人服、アクセサリー、化粧品、和服、スーツなどのお店がフロアを占めていると居心地の悪さが大きくなり、反対にチェーンのお店や量販店、飲食、本屋、百均などがあると緊張感が解け、心が安らぐ感覚がすることが分かった。

理論的接続

今後の方針にも関わることであるので、ここで少し私の考えをしたためておきたい。思考の源流となっているのはもちろん加藤研の活動やメンターである加藤先生の影響が大きいが、本をいくつか取り上げるとするならばC・ライト・ミルズ「社会学的想像力」、ケネス・J・ガーゲン「関係からはじまる」、P・L・バーガー=T・ルックマン「日常世界の構成」の影響も受けている。

人とはどのようにできているのだろうか。社会とはどのように形成されているのだろうか。様々な体験や本を読む中で、私たちは関係のなかで出来ているということが分かった。私という個は真には存在せず、相手との相互行為によってその場その場で絶えず作られていく。そのひとつひとつの関係の総体として私というものが存在しているのである。それをより大きな範囲に適用することによって社会も理解することができる。人々の関係が、その表出としての行為や言葉が集積することによって、社会ができていく。そして、ある共通認識としての社会が形成されると、それが人々の行為をも司るものになりうる。社会という大きな存在(これを細かく見ていくと人々の関係が網目になっているものなのだが)によってもまた個という存在は変化するのである。つまり、人と人との関係、人と社会との関係によって、個も社会も形成されるというわけである。

この考えをもとにして、どのようにフィールドワークに繋げてゆけば良いのだろうか。まず1つ言えることとしては、フィールドワークをするという行為そのもの自体によって、私を含めた人々の行動が変化し、関係が生まれる。そのため、フィールドワークによって私もまちもほんの少しだけ再構成されるということだ。また、フィールドワークをすることによって新たな視点や気づきを獲得することもできる。他者の工夫が見えたり、社会の暗黙の了解を感じ取ったり、自分自身の感情や価値観の揺れを感じたりなど実に様々な学びがある。このように他者やまちを通すことによって、自分自身に取り込むことによって、自分というものを捉え直すとともに、人と人の関係、人と社会の関係をわずかながらに変化させていくのである。さらに、その視点や気づきを他者と共有することによって、それの持つ意味合いも解釈も拡大することができ、想像力はより豊かになっていく。そのために人と人を繋ぐ、人と社会を繋ぐ媒体が必要となってくるのではないか。学問の世界では、それに従事する人々に向けられた論文という形で主に共有される。しかし、より一般市民にも届きやすいメディアにも価値はあるだろう。その中間体となるメディアによって、私たちはさらに関係を変化させることができ、より深みのある(意味を持つ)ものになる。フィールドワークやメディアを通じて誰かを感じることによって、個も社会もより自分自身にとって面白い変化をするようになるだろう。

まとめと今後

加藤研とはなにかということから始まったこの問いは、過去の卒業生の活動を読んでいくうちに様々な視点を獲得する面白さへと繋がり、どのようにフィールドワークと紐づけながら、人や社会を変化させ得るのか、関係を結びうるのかという関心へと繋がっていった。ただ、私の考えが散在しているのもあってか、フィールドワークと理論とそしてメディアというものがそれぞれ別のものとして区切られてしまっている。フィールドワークという実践的で身体的なものと、理論という一般化された概念的なものと、そしてメディアという学問の外や関係への一種のアプローチを、上手に整理付け、位置づけることが私のプロジェクトにおける一つの目標なのかもしれない。さらに、ある問題意識のもとでこの一連の試みを行うためには、フィールドワークという調査法だけではなく、他の質的調査法や量的調査法など多角的な調査法を用いることによって、社会と人という両方の観点から、問題を理解することができると考えている。そうすることで社会構成主義という観点から、その問題について深く考察することができるのではないかと考えている。とはいえ、本研究ではそこまでの応用はせずに、フィールドワークというものを軸により深く考えていく。そのためには、ひたすらにフィールドワークを行い、試行錯誤していく必要がある。つまり、その対象地なり対象者が必要で、この春学期間はそれすらも揺れ動いていたが、藤沢という土地で、さらにSFC内外におけるフィールドワークの専門家、実践者にお話を伺うことによって、フィールドワークとはいかなるものなのかを編み出していきたいと思っている。そして、それをまとめる過程において、メディアとしてどのように表出すればよいのか、人々の手に渡ってどのように関係を変容させられるのか、新たな視点を与えることができるのかというところまで辿り着きたい。これらのすべてを満たせたとき、私の卒プロと私の知的好奇心は十分に満たされたといっても過言ではない。

文献一覧
  • Charles Wright Mills「社会学的想像力」伊奈正人、中村好孝訳、ちくま学芸文庫、2017
  • 長谷川公一、浜日出夫、藤村正之他「社会学―New Liberal Arts Selection―」有斐閣、2019
  • Ken Plummer「21世紀を生きるための社会学の教科書」赤川学監訳、ちくま学芸文庫、2021
  • Zygmunt Bauman, Tim May「社会学の考え方」奥井智之訳、ちくま学芸文庫、2016
  • Kenneth J. Gergen「関係からはじまる」鮫島輝美、東村知子訳、ナカニシヤ出版、2020
  • Peter L. Berger, Thomas Luckmann「日常世界の構成」山口節郎訳、新曜社、1977
  • Erving Goffman「出会いー相互行為の社会学」佐藤毅、折橋徹彦訳、誠信書房、1985
  • 加藤文俊「態度としてのフィールドワーク:学会誌の「外」へ」認知科学29(4)、661-667、2022
  • 加藤文俊「「ラボラトリー」とデザイン:問題解決から仮説生成へ」SFC Journal17(1)、
    110-130、2017
  • 加藤文俊「デザインというかかわり」デザイン学研究特集号27(2)、42-47、2020
  • 佐藤郁哉「社会科学における定性/定量の区分についての覚え書き」一橋論叢115(5)、1021-1038、1996

仮縫いの食卓をひらく ― 気にかけあう関係を育む地域メディアの実践 ―

(2026年8月7日)この文章は、2026年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

矢野 晶|Akira Yano

 

背景

私は大学入学を機に上京し、藤沢市で一人暮らしを始めた。初めての一人暮らしは想像以上に寂しく、毎日の食事は埋まらない穴を眺めるような時間だった。自分の住むまちを何も知らず、誰ともつながっていないという感覚は、私を部屋に閉じ込め、孤独をいっそう強くしていた。そんな中、2024年春に、加藤文俊研究室のフィールドワークを通して善行団地と出会った。団地には生活の気配が穏やかに漂い、豊かな緑と明るい日差しがあった。公園には子どもたちの笑い声が響き、広場では住民同士がおしゃべりを楽しんでいる。その風景を見たとき、「ここで暮らしてみたい」という直感が働いた。その気持ちは日に日に大きくなり、大学3年に上がる春、私は善行団地へ引っ越した。

引っ越しからしばらくして、団地の広場で毎朝行われているラジオ体操に参加するようになった。最初は一人で体操をして帰るだけだったが、やがて参加者のおばあちゃんたちが声をかけてくれるようになった。それ以来、季節のことや団地で起きた出来事など、他愛もない話を交わす時間が日課になった。「ここに来ると人と話せるから嬉しい」と話す人がいたが、その気持ちは私も同じだった。ラジオ体操で築かれた関係は、互いの名前を知らなくても自然と気にかけ合う、不思議なつながりだった。休めば「どうしたのだろう」と心配され、久しぶりに顔を出せば「元気だった?」と迎えてくれる。それほど親しくはなくとも、近くに自分を気にかけてくれる人がいて、自分にも気にかけたい人がいるという安心感は、私の日常を静かに支え、一人暮らしの孤独を和らげてくれた。こうしたゆるやかな関係は、血縁や親しい友人とは異なるかたちで、人が安心して暮らすための大切な要素なのではないかと感じるようになった。

このつながりは、毎朝同じ場所に集まるという時間と場所の共有によって成り立っている。そのため、大学卒業後に団地を離れれば、この関係も失われるかもしれない。これは私だけの問題ではない。進学や就職、転勤によって住む場所を変え、その度につながりを失う人は珍しくない。では、新しい土地でも誰かとのつながりの中で生活するためには、どうしたら良いのだろうか。善行団地のラジオ体操で私が得たような「気にかけあう」ゆるやかな関係は、別のメディアでも生み出すことができるのだろうか。この問いを出発点として、私は卒業プロジェクトに取り組むことにした。

フィールドをつくる

ラジオ体操のようなメディアをつくりたいと考え、私が選んだ方法は、団地で冊子をつくることだった。

冊子を作ろうと思ったきっかけも、ラジオ体操での出来事にある。私が団地に出会ったきっかけでもある2024年のフィールドワーク課題では、「第nの孫」という3人のグループが、団地に咲く花についての小冊子「孫と花さんぽ」を発行し、団地のパン屋に置いていただいていた。(参照:https://vanotica.net/danchijin/04.html)冊子には「教えて!善行団地ってどんなところ?」と書かれたハガキが挟み込んであり、団地の方々からハガキが返ってきていた。「第nの孫」のプロジェクトは2024年末で一旦終了していたが、ある日のラジオ体操で参加者に呼び止められ、「パン屋の冊子は次いつ置かれるの?いつも楽しみにしていたのよ」と声をかけられた。プロジェクトが終わってしまったことを伝えると、その方は、とても残念がっていた。このやり取りで、「孫と花さんぽ」の更新が、団地の人たちの楽しみになっていたことを知った。また、実際にお手紙を送ってくれた人の何倍もの人が、冊子を通じて「第nの孫」の3人とつながりを持っていたことにも気づいた。冊子とハガキという形のメディアなら、ラジオ体操のように毎日同じ場所へ集まることは難しくても、人が互いを思い出し、気にかけるきっかけをつくるメディアを設計できるのではないかと考え、テーマは変えつつ、スタイルを引き継ぐことに決めた。このプロジェクトを始めるにあたって、「第nの孫」チームの3人には承諾をいただいた。

現場の観察
1,「いっしょにごはん」の冬

冊子は、偶数月の月末に発行することに決めた。2026年の2月から2027年の2月まで、全6号発行する計画だ。冊子のタイトルは「いっしょにごはん」とした。これには、「冊子を手に取ってくださった方と一緒にご飯を囲むような温かい時間を作りたい」という思いが込められている。冊子を通して自分の暮らしを共有すれば、誰かが感想を書いて返してくれるかもしれない。創刊号となる「いっしょにごはん 冬号」では、団地の我が家に招いた友人との食事の様子について、レシピブック風にまとめることにした。12月から2月までの全3回の食卓の様子について、写真と手書き文字で作った素材をアドビイラストレーターで加工して制作した。印刷は、印刷会社(キンコース)に依頼して、マットコート紙90kg 、フルカラー印刷8ページを、ホチキス留め製本とした。また、返信用ハガキも挟み込んだ。こうして完成した「いっしょにごはん 冬号」は団地のパン屋さん「N⇒Bakery」の入り口近くに置いていただいた。(実際の誌面:https://drive.google.com/file/d/1uFD2vUp047lAnxGZNeFlQcoFfVbiab9E/view?usp=sharing

2,「いっしょにごはん」の春

3月末、冬号に寄せて4通のハガキが送られてきた。そこには手書きの丁寧な字で、おすすめの料理やローカルな買い物スポット、富士山の見えるお気に入りの場所などがびっしりと綴られていた。自分の手作りのメディアに返答が返ってきたことで、読者の存在を実感した。これらのハガキは単なる「読者アンケート」にとどまらないものであると考える。冬号で私自身のプライベートな食卓や日常を開示したことに対し、読み手もまた自身の生活やお気に入りの場所というプライベートな領域を返してくれた。一方的な情報提供ではなく、個人の生活を交換し合うコミュニケーションが成立していると感じ、このことをとても嬉しく思った。

春号の制作では、自宅で料理する様子のほかに、いただいたハガキを起点としたコンテンツを組み込み、教えていただいたレシピを実際に調理する企画や、買い物スポットへ行ってみる「おでかけレポート」企画など、誌面上で読み手への返答できるよう設計した。

特に、ハガキで教えていただいた「わいわい市」での体験は大きな意味を持った。4月16日、団地から歩いて30分ほどの場所にあるJAの直売所「わいわい市」に実際に足を運んだ。駅前のスーパー以外を知らなかった私にとって、直売所での買い物は初めての体験だった。「わいわい市」はその名の通り、平日にも関わらず多くの人で賑わっており、地元の人たちにとって欠かせない買い物スポットであることを知ることができた。この日はタケノコの最盛期で、一列分の棚が全て大きな朝採れのタケノコで埋め尽くされていた。私は人生で初めてたけのこを皮のまま購入して帰り、その日のうちにあくぬきなどの下処理をして、炊き込みご飯にして食べた。その一連の様子を記事にして、春号の「おでかけレポート」とした。住民が日常的に利用する場所を訪れ、買い物をして、その食卓をなぞる行為は、単なる取材を超えて、地域の住民の生活を追体験する行為になった。これによって、これまでどこか観察対象であった地域に対し、自分自身も一人の生活者として深く没入していく感覚を得た。

また、研究に協力してくれている友人(Mちゃん)との対談では、団地に移り住んだきっかけ、私が感じる一人暮らしの寂しさといった自己紹介的な内容や、大学卒業後の転勤や引っ越しに対する不安、いずれこの団地を離れなければならない寂しさといった素直な感情を打ち明けた。

こうした試みを通して、春号は「手紙に返信する」態度で制作されたと振り返る。ハガキを通して教えてもらった場所に足を運び、住民と同じ食卓や風景を追体験すること、そしてその体験を再び誌面へ還元していく一連のプロセスは、私一人の視点では決してみえてこなかったまちの魅力を浮かび上がらせた。この段階で、「いっしょにごはん」は、私個人の生活を発信するメディアから、双方向性を持ったメディアへと変わっていった。

春号はウェブ印刷会社(ラクスル)に印刷・製本を依頼し、マットコート紙90kg、中綴じ、フルカラー12ページの冊子が完成した。50部印刷してハガキとセットにし、今回もパン屋に置いていただいた(実際の誌面:https://drive.google.com/file/d/1p27D_Y8CEqyU0yT1Hfx1ZqFYsDy4nuuF/view?usp=sharing

春号には、6通のハガキが返ってきた。そこには、そのお家の定番料理や、善行団地の好きな風景にとどまらず、春号の対談記事で転勤への不安や一人暮らしの寂しさについて打ち明けた内容について、「引っ越してもすぐに友達ができるから大丈夫です」と励ましの声をかけてくださる人もいた。返ってきた言葉はどれも、冊子を通して開示した私の生活を受け止め、自分の経験や実体験に基づいた言葉を返してくれるものだった。一方的な食卓の開示から始まったこの「いっしょにごはん」というメディアは、徐々に、読み手と私との間に相互に思いあう関係性の入り口になりつつある。

3,「いっしょにごはん」の梅雨

私のメディアに対する考え方も変化した。創刊号では自分の日々の暮らしを書き、誰かから返事が届くことを願う「内向き」な姿勢であった。しかし、いただいたハガキが積み重なるにつれて、「地域に住む人々の暮らしをもっと知りたい」「地域の人に喜んでもらえる冊子を作りたい」というより外へ開かれた関心へと移っていった。

この時期に思いついたのが、地域の人と一緒に団地を歩き、その人の記憶や経験を聞く「団地さんぽ」の企画である。最初にお願いしたのは、団地内の幼児教室に35年間勤められ、「団地みまもり会議」のメンバーでもある稲葉先生だった。ちびっこ幼児教室は約60年前に設立され、多くの団地の子どもたちが育った歴史ある場所である。しかし、今年3月、少子化を理由に閉園した。ある日、掲示板に貼られた「幼児教室閉園のお知らせ」を静かに見つめる住民の後ろ姿を目にし、この団地には、まだ語られていない思い出が数多く残っているのではないかと感じた。それを聞き取り、団地内外の方に届けることが、私と「いっしょにごはん」にできることなのではないかと考えるようになった。

「みまもり会議」で稲葉先生に卒業研究の趣旨をお伝えし、記事化も含めて快諾いただいたことで、梅雨号の目玉企画「いなば先生と団地さんぽ」が実現した。
 稲葉先生との団地散歩では、幼児教室をスタート地点とし、団地内をぐるりと2.8kmにわたって巡った。稲葉先生は少し歩くごとに足を止め、「この斜面は自然の滑り台で、子供たちはシートを敷いてここを滑り降りるのが大好きだった」「この低い植え込みは、子どもたちがかくれんぼで使う隠れ場所だった」といったように、園児たちとの思い出を丁寧に教えてくださった。そのほかにも、ドクダミ、タンポポ、梅、胡桃、シイ、ビワの木、駐車場の奥に広がる森のような広場――私がこれまで何気なく通り過ぎていた団地の風景の中には、多様な遊び場が潜んでいた。私が普段見逃していた木々や垣根や花々は、稲葉先生や卒園児たちにとっては何重もの記憶が積み重なった特別な場所だったのである。思い出をひとつひとつ愛おしそうに語る稲葉先生の横顔を見ていると、ただの日常の風景が宝石よりも価値のある宝物のように思えた。「こんなに宝物だらけだなんて知りませんでした」と感極まって伝えると、稲葉先生は「住んでいると意外と知らないでしょう」と深く頷かれた。住民の記憶を通してまちを歩くことで、私自身ますますこの団地が好きになる。それと同時に、まちへの愛着は、単にその土地に住む年月だけでなく、そこに重ねられた他者の記憶や経験を聴き取り、共有してもらうプロセスの中で育まれるのではないかと感じた。

冊子にするにあたって、稲葉先生との散歩で知ることができたそれぞれの場所での思い出をどのように伝えるか、試行錯誤を繰り返し、手書きのイラスト風の地図と写真集にページを分けて誌面を割り付けることにした。イラスト風の地図はA3サイズに大きく印刷して挟み込み、団地内の散歩に使ってもらえるようにした。ある程度ページのレイアウトが完成したところで、稲葉先生と、一緒にいらっしゃった幼児教室の先生方にも確認していたき、了承を得て記事は完成となった。(実際の誌面:https://drive.google.com/file/d/1-92UE3auwfgVSFPxsxn4nBQXxRAtoQYX/view?usp=sharing

梅雨号では、「いなば先生と団地さんぽ」の企画以外にも、いただいたレシピでご飯を作ってみたり、ハガキにお返事を書くコーナーを設けたりと、双方向性のあるコンテンツが増えた。友人を家に呼ぶ企画も続いているが、自分たちの食卓の様子についてのページと、いただいたハガキの内容に応えるページ、稲葉先生との団地散歩の3コンテンツが大体同じくらいの割合になった。そうして、梅雨号は、カラー印刷16ページ、中綴じの冊子として完成した。冊子を稲葉先生に郵送すると、とても喜んでくださり、「卒園児や知り合いに配りたいです。」とおっしゃっていただけた。「いっしょにごはん」が単なる個人的な生活を綴る冊子を超えて、幼児教室の関係者の方にとっては、アーカイブ的存在にもなっているのかもしれない。

橋場さんとの出会い

6月、「いっしょにごはん」に記載したメールアドレス宛に、団地に住む橋場さんからメッセージが届いた。そのやり取りをきっかけに、まだ梅雨も明けきらない頃に、団地の近くを一緒に散歩させていただくことになった。この時には、「団地さんぽ」企画の一環として、団地周辺を案内していただくことができればと考えていた。
実際にお会いした橋場さんは、溌剌としてお元気で、どこか祖父を彷彿とさせる、優しい方だった。橋場さんはこの団地に50年前から暮らしており、団地周辺の散歩道を熟知していた。最初の散歩では、近くの川沿いを歩きながら、いちごの直売所や森の中の小径、鐘を鳴らせる小さな神社など、約6キロの散歩コースを案内していただいた。「冬になるとこの川には鳥が来るから、その頃にまた歩くのがおすすめですよ」と教えてくださり、私たちは「ぜひ冬にもまた散歩しましょう」と約束をして別れた。

この散歩以後、私は「いっしょにごはん」の企画のために会うのではなく、橋場さんに会うために出かけたいと思うようになった。その後も、隣町まで消防署の訓練施設や森の中の道を見に行ったり、車を出していただいて牧場やダムを訪ねたりと、これまでに3回一緒に出かけた。まちを案内していただき、畑で採れた野菜を分けていただくなど、私が受け取ることの多い関係ではあるが、「いっしょにごはん」がつないだ縁をきっかけに、ご近所の友人と呼べるような関係が生まれたことをとても嬉しく思っている。

この経験は、「いっしょにごはん」の役割についての考え方を変化させた。当初、この冊子は、誌面上とハガキで地域の誰かと交流し、ささやかなつながりを感じる媒体として設計していた。しかし実際には、一度つながりが生まれると、その後の関係は冊子とは関係なく育っていった。散歩をし、一緒に食事をし、お裾分けをいただき、次の約束をする。そうした日常の積み重ねの中で、「いっしょにごはん」は、地域での人と人との関係が始まるための入口として機能し始めている。
創刊時、「はじめに」で掲げた「いっしょにご飯を食べられるような関係性を築くことを夢見ています」という挨拶文は、制作当初は理想のようにも思えた。しかし実際に、ご近所の友人と呼べる存在ができたことで、その目標は現実のものとなった。一人暮らしを始めた頃に感じていた寂しさは薄れ、私の日常には、近所に住む友人と「また今度」と約束できる暮らしが生まれている。

卒プロ2に向けて 

冬号制作時に比べて、「いっしょにごはん」は地域に開かれたものへと変化している。ハガキの存在によって、地域に読み手がいる実感があることで、より地域の人に喜んでもらえるコンテンツを考えるようになった。外へ向いた姿勢によって、取り上げるテーマや企画も豊かになり、梅雨号のページ数は、冬号の倍(16ページ)に拡大した。冬号発行の際には、瓶に詰めた手紙を海に流すような気持ちで返事を待つ、どこか受け身なメディアだった。しかし、梅雨号においては、私自身が読み手である地域の人と交流を持つための、渡し船のような存在であると感じている。これは、メディアがもともと持っている「渡し船」的役割に、ようやく私が気付いたということでもある。冊子という手づくりのメディアを媒介に、人と出会い、その出会いが次の企画や取材へとつながり、さらに新たな読者との関係を生み出していく。その循環の過程そのものが、「いっしょにごはん」の誌面にあらわれている。

今後も、「いっしょにごはん」の発行を続けるとともに、団地やメディアに対する私自身の捉え方がどのように変化していくのか、その過程を引き続き丁寧に観察していきたい。一方で、このメディアをどのように終えるのかという課題にも向き合う必要がある。大学卒業後、私が団地を離れたあとも何らかの形で「いっしょにごはん」を残すのか、それとも卒業プロジェクト限定の実践として、その役目を終えることを受け入れるのか。メディアを始めることだけでなく、終わらせることもまた実践の一部である。そのあり方について、考えていきたい。

Unedited

(2026年8月7日)この文章は、2026年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

中島 羽那|Hana Nakajima

 

このプロジェクトでは、寮生誌「月刊イータ」を通して、メディアがどのように作られていくのか、わたしがメディアをつくることで変容していく経過を記録していく。

「月刊イータ」は、イータヴィレッジという学生寮のなかで、10名ほどの寮生が自主的に作っているZINEのことだ。2025年5月、表紙のイラストを依頼される形で「月刊イータ」の仲間に加わったが、初代編集長よりもわたしの方が編集に熱中していき、編集長を交代することとなった。編集長として、まずは5月号、そして7月号を制作した。7月号はORFで配布されたり、大阪で行われた学部説明会で配布されたりと、多くの人の手に届いた。その後長く間が空いて、今年の4月に組織体制や雑誌の見た目を大きく変えて、あたらしく発刊した。

初刊行から1年と3ヶ月が過ぎ、私自身は寮に住み始めて4年目になる。入寮した当初には見えていなかった寮の特徴や人間関係、共同生活の難しさや面白さが、現在では少しずつ見えるようになっている。

本プロジェクトでは、完成した雑誌だけを成果物とするのではなく、企画を考え、寮生に声をかけ、インタビューを行い、写真を撮影し、それらを誌面へと編集していくまでの過程も記録する。その制作実践を通して、寮生活がどのようにメディアへと変換されていくのかを考えていきたい。

すすめかた

「月刊イータ」の基本的な制作プロセスは、号ごとのコンセプトを決めるところから始まる。まず、現在の寮の状況や、制作メンバーが関心を持っていることをもとに、その号で扱うテーマを決定する。次に、テーマに応じて企画を考え、それぞれの企画で話を聞きたい寮生を選ぶ。その後、寮生へのインタビューや写真撮影を行い、集めた文章や写真を編集し、誌面としてまとめる。

本プロジェクトでは、この通常の制作に加えて、雑誌が完成するまでの過程自体も記録する。具体的には、編集会議や誌面制作の様子を映像として撮影する。また、企画が変更された場面や、メンバー間で意見が分かれた場面、インタビューの内容をどのように記事にするか悩んだ場面などを記録する。
さらに、制作期間中に寮内で起きた出来事や、制作を通して感じたことを、日記やメモとして残す。完成した誌面だけを見るのではなく、その背後にある迷いや判断、会話も含めて振り返るためである。

寮生へのインタビューでは、特別な実績を持つ人だけを対象にするのではなく、イータヴィレッジで暮らしているさまざまな人に話を聞く。寮内イベントや活動に関わっている人、部屋のレイアウトにこだわりを持つ人、寮の近くの飲食店に詳しい人、音楽や研究、趣味に取り組んでいる人など、どの寮生からもその人なりの寮生活を引き出すことができると考えている。

case1

制作メンバーと話していると、様々な私が浮き彫りになっていく感覚がある。
記事を作成しているとき、とある寮生のライターから、以下のような連絡が来た。
 「トップからどんな状況か説明をしてほしい、と思っています。書いた記事がどうなってるか、それが書いてる側としては不安です。」

実のところ、彼からメッセージをもらってから、すぐに返事はできなかった。私はトップという自覚より、彼の友達だという感覚の方が強かったので、少しショックだったのだと思う。彼が言うように、わたしは月刊イータでメンバーからの期待や責任を背負う編集長である。しかし、わたしはこの寮に住む寮生でもあり、この寮生誌の行く末を観察し記録する調査者でもある。進捗がどうなっているか、自分が追加でやらないといけない仕事がないか知ることは、確かにライターにとって大切なことだ。しかし、プロセスを簡単に共有できればよいが、私の考えていることを全て伝えることは難しいし、何より体力のいることだ。たとえば長年一緒に制作をしていれば、プロセスが全く開示されていなくとも不安にはならないはずだ。「まあこの編集長なら大丈夫だろう」というように。そこには相手との信頼関係が築かれている。私の仕事に信頼をおいてもらうためには、私と相手との関係性、フィードバックのテンポ感、デッドラインを守ること、記事のクオリティに至るまで、様々な要素が必要になると考えた。

case2

私には寮生としての顔と、編集長としての顔が存在している。編集長としてやりとりしている時、寮生としての顔が覗く時がある。毎回インタビューを掲載するにあたり、事前に完成した記事を取材を受けてくれた寮生に送ることにしているが、寮生の一人から掲載の中止を依頼されたこともある。

「記事の内容がなんとなくしっくりこなくて、だからと言って代案も思いつかなくて。せっかく取材をしてもらって申し訳ないんだけど、掲載を無しにして欲しい」
彼女は絵を描いたり音楽を作ったりする寮生で、記事の中では現在の活動や彼女の創造性について話してくれていた。「しっくりこなくて」と言っていたが、取材された記事を読み返して、今していること・やりたいことと、取材当時のものが離れてしまったということなのではないかと考えた。二人で話し合った結果、取材内容は掲載しないことにして、代わりに彼女の作品を見開き1ページで掲載するということになった。

寮に暮らしている以上、取材した寮生ともよく顔を合わせる。この時考えていたのは以下のようなことである。「ここで掲載をしなかったら、この寮生と気まずくなるかもしれない」「なら、形を変えてでも掲載をして寮生がとってくれた時間を無駄にすることなく刊行したい」

編集長としての私は、よりよい誌面をつくりたいと考える。寮生としての私は、相手との関係を壊したくないと考える。この二つの顔は、はっきりと分けられるものではない。むしろ、互いに干渉しながら、私の編集の仕方を形づくっている。

case3

一年前の8月に刊行した「地元特集」では、寮生の取材記事を編集する上で重要な視座を得ることができた。原稿の中にはこちら側の都合で省く、あるいは修正するべき内容がある。しかし、そこにもしかしたら作成者の記事の意図や隠された本心のようなものがあるのではないかと考えた。

「何もしないと、自分の存在が抹殺されてしまうという恐怖があるんです。いや、もう既に抹殺されているのかもしれない。これ以上いくと、魂ごと消えそうで。ADHDで多動症というのもあるかもしれません。とにかく、リスクがあってもやりたいならやるべきだ、と。」

以上はとある寮生の紹介記事の文章である。以上の文章が、不特定多数に見られることによって、寮生にマイナスイメージを及ぼす可能性があるとして、省略するべきだ、という意見が制作メンバーから出た。結局そのままの内容で掲載したのは、以上の文章がこの寮生の芯をよく表現していると考えたからである。

この事例を通して、編集とは、文章を削って誰がみても問題がない状態にすることと、そのまま残して本人らしさを示すことの二択ではないと気づいた。本人の言葉を守りながら、読者にどのような形で届けるのかを考えることこそが、私の役割であり、何を記述するのかという判断だけでなく、記述した言葉にどのような責任を持つかまで含めて、編集なのだと考える。

3つのcaseから

三つの事例を振り返ることで、私には「寮生としての顔」「卒プロ生としての顔」「編集長としての顔」という、三つの顔があることに気付かされた。

寮生としての私は、制作メンバーや取材相手を、雑誌に関わる人としてだけではなく、日常生活をともにする友人や知人として見ている。記事の掲載をめぐって意見が食い違ったとしても、刊行後には同じ寮で顔を合わせ、関係が続いていく。そのため、相手との関係を壊したくないという気持ちが、編集上の判断にも影響する。

一方、編集長としての私は、制作全体の進捗を把握し、メンバーに必要な情報を伝え、誌面の質を保ちながら刊行まで進める責任を負っている。case1で制作メンバーから「トップ」と呼ばれたとき、私は初めて、友人として接している相手からも、編集長としての説明や判断を求められていることを強く自覚した。また、case2やcase3では、取材相手への配慮だけでなく、限られたページのなかで何を掲載し、どのような誌面を完成させるのかを考える必要があった。

さらに、卒プロ生としての私は、こうした出来事のなかにいる自分を、一歩引いた位置から観察しようとしている。制作中には、相手との関係や刊行のことで精いっぱいになり、自分がなぜそのような判断をしたのかまで考える余裕がない。しかし、出来事を記録して振り返ることで、返信できなかったことへの戸惑い、記事を掲載したいという執着、相手との関係を守りたいという気持ちなど、自分の判断の背後にあった感情が見えてくる。

この三つの顔は、場面ごとに完全に切り替えられるものではない。編集長として進捗を管理しているときにも、友人である寮生としての感情が入り込む。取材相手の希望を尊重しようとするときにも、雑誌を完成させたい編集長としての都合が含まれる。そして卒プロ生として記録するときにも、私は出来事の外側にいる客観的な観察者ではなく、制作に直接関わり、判断を下している当事者である。

つまり、月刊イータの制作を記録することは、編集の正しい方法を外側から分析することではない。複数の顔を同時に持つ私が、他者との関係のなかで迷いながら判断していく過程を記録することである。三つの事例で生じた迷いは、私が編集長として未熟だから起きたものというだけではなく、寮生、卒プロ生、編集長という立場を同時に担っているからこそ生まれたものだと考えることができる。

そして、この三つの顔の重なりによって、月刊イータの誌面も形づくられている。私が誰の言葉を残し、何を削り、どのような形で掲載するのかという判断には、誌面の完成度だけでなく、相手との関係や、卒業プロジェクトとして何を記録したいのかという意識が反映されている。月刊イータをつくることは、寮生を編集する行為であると同時に、制作を通して現れる複数の自分を発見し、自分自身のあり方を捉え直していく行為でもある。

これから

卒業プロジェクト2では、引き続き「月刊イータ」の刊行を続けるが、刊行物の数を増やすことだけを目標にはしない。企画を決めるまでの話し合いや、インタビュー、編集作業、完成した雑誌を読んだ寮生の反応までを記録し、ひとつの号が生まれるまでの過程を丁寧に振り返りたい。また、完成した記事と、実際のインタビュー記録を比較し、話し手の言葉が、編集によってどのように変化したのか、何が残され、何が削られたのかを確認することで、「編集しすぎない」とは具体的にどのようなことなのかを考える。

これからは、企画を決めるまでの話し合い、取材相手を決める過程、インタビュー、編集作業、完成した雑誌を読んだ寮生の反応までを記録し、一つの号が生まれるまでの過程を丁寧に振り返りたい。特に、予定どおりに進まなかった場面に注目したいとおもっている。記事が集まらなかったとき、取材相手から修正や掲載中止を求められたとき、制作メンバーと意見が分かれたとき、私は何を優先して判断しているのかを記録する。制作が順調に進んでいるときには、自分の役割や判断について深く考えることは少ない。しかし、問題が起きたときには、編集長としての責任、友人や寮生としての感情、自分の制作へのこだわりが表れやすい。そうした場面を記録することで、私自身の編集の特徴を明らかにできると考えている。また、完成した記事と、実際のインタビュー記録を比較する。話し手の言葉が、編集によってどのように変化したのか、何が残され、何が削られたのかを確認する。例えば、実際のインタビューでは長い沈黙や言い直しがあったとしても、記事では読みやすい文章に整えられている可能性がある。複数の話題が前後しながら話されていたものを、一つの筋が通った物語として再構成している場合もある。その結果、取材相手の考えが、実際よりも一貫しているように見えることも考えられる。どのような編集が、相手の言葉を伝わりやすくするために必要なのか。どの時点から、編集者の考えを相手の言葉に重ねすぎることになるのか。完成した記事と元の記録を比較することで、「編集しすぎない」とは具体的にどのような状態なのかを検討する。

さらに、雑誌をつくる私自身のあり方についても考えていく。私はなぜ雑誌をつくるのか。寮生のために制作しているのか、自分がつくることを楽しむためなのか、寮で過ごした時間を残すためなのか。おそらく、そのどれか一つだけが答えなのではなく、複数の理由が重なっている。

これからは、「月刊イータ」を完成させることと並行して、制作中の自分の感情や判断を記録する。その記録を通して、つくることが私にとってどのような意味を持つのか、また、メディアをつくることによって私と他者との関係がどのように変わっていくのかを明らかにしたい。

最終的に、「月刊イータ」を、寮の出来事を一方的に説明する広報物ではなく、寮で暮らす人々の異なる視点や言葉が並ぶ場所として成立させたい。そして、4年間暮らしてきたイータヴィレッジを、自分一人の視点だけで語るのではなく、さまざまな寮生の語りを通して記録していきたい。月刊イータが、この寮になにをのこすのかについて考える。一緒に寮生誌を作る寮生や読み手と話していると、月刊イータがきっかけとして作られた彼らとの関係性ものこしていきたい。こうした想いを抱きながら、この寮生誌の行く末を観察し記録することとする。

プロジェクト名、「Unedited」は、単に編集されていない状態を意味するものではない。雑誌をつくる以上、文章や写真を選び、順番を決め、誌面に収まる形へ整える編集は必ず行われる。それでも私は、寮生の言葉や出来事を、分かりやすい一つの物語にまとめすぎないようにしたいと考えている。人の考えは常に一貫しているわけではなく、時間の経過によって変わることもあれば、相反する感情を同時に持つこともある。私自身も、寮生、編集長、卒プロ生という複数の立場の間で迷い、その都度異なる判断をしている。

「月刊イータ」に残したいのは、完成された寮の姿ではなく、その時々で変化し続ける寮生の言葉や関係性である。完成した誌面だけでなく、掲載されなかった文章、変更された企画、制作中に生じた衝突や迷いにも、その時のイータヴィレッジの姿が表れている。編集によって一つの意味に回収するのではなく、整理しきれないものを残すことも、記録の方法の一つである。

月刊イータをつくり続けるなかで、私は他者を記録しているだけでなく、他者との関係によって変化する自分自身も記録している。これからも、誌面に現れる言葉と、誌面の外側に残された出来事の両方を見つめながら、編集することと、編集しすぎないことの間で考え続けたい。

 

エレベーターという密室から考える — 人と人との距離感と「気まずさ」の解像度

(2026年8月7日)この文章は、2026年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

伊東 柚香|Yuka Ito

 

はじめに

エレベーターは、見知らぬ他者や関係性の曖昧な相手と、数十秒という短い時間を共有する空間である。会話が交わされることもあるが、その声は自然と小さくなり、互いに周囲を意識した振る舞いが見られる。その場では立ち位置や姿勢、ボタンを押すタイミングなど、言葉にならないやり取りも絶えず行われている。私たちは相手との距離を測りながら、その場に応じた振る舞いを無意識のうちに選択しているのである。
私は以前から、人と人との距離感や、その場に流れる空気に関心を持ってきた。なかでも「気まずさ」という感覚は、日常のさまざまな場面で経験するにもかかわらず、その正体を言葉で説明することが難しい。私が以前から関心を持ってきたのは、人そのものではなく、人と人との「あいだ」に生まれる空気や距離感である。
その関心の背景には、これまでの対人関係や集団生活の経験がある。小学生の頃は特定のグループだけに所属することを避け、複数のグループを行き来しながら過ごしていた。中学校では周囲の空気に合わせて振る舞うことが自然になり、高校では約100人が所属する吹奏楽部で活動するなかで、大人数だからこそ生まれる複雑な空気や人間関係を経験した。友人との会話では、奇数人のグループになると会話から取り残される人がいないよう、自然と間をつなぐ役割を担うことも多かった。
大学では演技を学び、この関心はさらに明確になった。演技では、台詞だけではなく、立ち位置や身体の向き、視線、呼吸、沈黙の長さによって、その場の空気や関係性は大きく変化する。同じ言葉でも、身体の距離が少し変わるだけで相手との関係性はまったく違って見える。こうした経験を通して、人は日常生活の中でも無意識に身体を使いながら他者との距離を調整し、その場に応じた振る舞いを選択しているのではないかと考えるようになった。
こうした関心をもとに、人と人との距離感が日常の中で最も凝縮されて現れる場所はどこなのかを考えた。そのなかで着目したのが、エレベーターである。見知らぬ他者や関係性の曖昧な相手と数十秒という短い時間を共有するエレベーターでは、会話を交わす場面であっても、その場の空気を読みながら互いとの距離を調整しているように見えた。そのような人と人との「あいだ」の振る舞いを観察できる場として、エレベーターを本研究のフィールドに選んだ。
このような状況を考える上で参考にしたのが、社会学者アーヴィング・ゴッフマンの「儀礼的無関心」という概念である。都市空間では、人は他者の存在を認識しながらも、必要以上に干渉しないことで互いの距離を保っている。相手をあえて見続けないことは無関心ではなく、「あなたを侵害する意図はありません」という社会的な配慮でもある。このような振る舞いは、都市で見知らぬ他者と共存するための暗黙の作法として機能している。
私は、この「儀礼的無関心」が特に色濃く表れる場所の一つがエレベーターではないかと考えた。人々は数十秒という短い時間のなかで、互いの存在を意識しながらも、適切な距離を探り続けている。そのなかで生まれる「気まずさ」の正体を知りたいと考え、本研究を始めた。

エレベーターを観察する

春学期は、駅や百貨店、大学、アルバイト先など、日常生活の中にあるさまざまなエレベーターで観察を行った。エレベーターに乗車し、その場で起きた出来事や感じたことをフィールドノートに記録した。観察回数は40回を超えている。

研究を始めた当初は、扉が閉まり、密室となったエレベーターの中で人々がどのように過ごしているのか、「気まずさ」はどのような場面で生まれるのかという点に関心があった。しかし、記録を重ねるにつれて、自分が抱いていた前提と実際に観察した出来事との間には少しずつずれがあることに気づいた。
こうしてフィールドワークを続けるうちに、私の関心は「エレベーターは気まずい場所である」という前提を確かめることではなく、「気まずさ」とは何なのかを考えることへと変化していった。

ドアが開く前から始まる距離の調整

当初、私はエレベーターの扉が閉まり、密室になってから「気まずさ」が生まれるものだと考えていた。しかし、観察を重ねるなかで、その前提は少しずつ揺らいでいった。記録を見返していると、人々は扉が開く前からすでに互いの存在を意識し、距離を調整していることに気づいたからである。
電車のホームには乗車位置を示す列がある一方で、エレベーターの前には明確な待機列がないことが多い。それでも人々は互いの位置や周囲の様子を見ながら、誰が先に乗るのか、何人までなら乗れるのか、自分は乗るべきか、それとも次を待つべきかを、その場の状況に応じて判断している。
例えば、「あと一人なら乗れそうだが、ここで乗ると窮屈になりそうだから見送る」「大きな荷物を持った人を先に乗せる」といった行動は、誰かに指示されて行われるものではない。その場にいる人同士が互いの様子をうかがいながら、その場にふさわしい距離や順番を探っているように見えた。
私が観察対象として考えていたのは、エレベーターの内部だけだった。しかし実際には、エレベーターという空間は、扉が開く前からすでに始まっていた。乗り込む前のわずかな時間にも、互いの距離を調整しながら、その場に応じた振る舞いが選択されている。この気づきは、「気まずさ」が密室だけで生まれるものではないことを考えるきっかけとなった。

一人になれる場所としてのエレベーター

前章では、エレベーターは他者との距離を調整する空間として捉えていた。しかし、観察を続けるなかで、それとは異なる側面にも気づいた。それは、エレベーターが「一人になれる場所」として機能しているということである。
このことに気づいたきっかけは、アルバイト先での出来事だった。接客を終え、一人で従業員用エレベーターに乗り込んだ瞬間、私は無意識のうちに壁にもたれかかり、大きく息をついていた。さらに、閉ボタンを何度も押し、できるだけ早く扉が閉まることを望んでいる自分にも気づいた。
それまで私は、この行動を特別なものだとは考えていなかった。しかし、フィールドノートを書きながら振り返ると、接客中は常に周囲に気を配り、笑顔で振る舞い続けていた緊張が、エレベーターという密室に入った瞬間にほどけていたのではないかと考えた。
それ以来、エレベーターを「他者との距離を測る場所」という視点だけではなく、「ほんの数十秒だけ社会的な役割から離れ、一人になれる場所」という視点からも見るようになった。人と人との距離が強く意識される空間である一方で、誰にも話しかけられず、自分だけの時間を過ごせる空間でもある。この気づきは、エレベーターという場所が持つ性質を、より多面的に考えるきっかけとなった。

「気まずい」という言葉を捉え直す

フィールドワークを30回ほど重ねた頃、私は「気まずい」という言葉そのものに違和感を覚えるようになった。
当初、私はエレベーターで感じる居心地の悪さを「気まずさ」と一括りに捉えていた。しかし、フィールドノートを読み返していくと、「気まずい」と書いている場面には、それぞれ異なる種類の感情が含まれていることに気づいた。
そのことを強く意識するきっかけとなったのが、ある駅での観察である。私は、前を歩いていた利用者が後ろに人がいるにもかかわらず、「閉」ボタンを押した場面を見て、「後ろの人を乗せたくなかったのではないか」と解釈していた。しかし、後日、自分でも同じ位置に立って確かめてみると、操作盤の前から後方を確認することは思っていた以上に難しかった。私は、相手の行動に対して心理的な意味を与えすぎていたのである。
この出来事を通して、私は観察した出来事そのものではなく、自分自身の解釈を記録してしまっていた場面があったことに気づいた。フィールドワークでは、相手の行動を丁寧に観察することと、その理由を決めつけることは異なる。出来事そのものを記録することと、自分がそこに意味を与えることは別である。そのことを意識しながら観察を続ける必要があると考えるようになった。
また、別の日には、大声で会話を続ける利用者と同じエレベーターに乗り合わせたことがあった。そのとき私は強い居心地の悪さを覚え、「気まずい」と記録していた。しかし、後から振り返ると、その感覚は「気まずさ」というよりも、周囲の音量に対する不快感や警戒心だったのではないかと考えた。
このような出来事を振り返るうちに、私は「気まずい」という言葉を便利に使いすぎていたことに気づいた。これまで「気まずい」と表現していたもののなかには、緊張、不快感、恥ずかしさ、戸惑いなど、異なる感情が含まれていたのである。「気まずい」という一つの言葉で片づけるのではなく、その感情がどのような状況で生まれたのかを丁寧に見ていく必要があると考えるようになった。

所在のなさという視点

「気まずさ」という言葉を捉え直していくなかで、研究会でいただいたコメントの一つが強く印象に残った。それが、「所在のなさ」という言葉である。私はそれまで、気まずさを「人との距離」や「沈黙」の問題として考えていた。しかし、「自分がその場のどこにいる存在なのかわからない感覚」が気まずさにつながるのではないか、という視点は、それまで持っていなかった。
その言葉を思い出したのは、祖父が入院していた病院で、親戚と何度もエレベーターに乗ったときだった。親戚は初対面ではない。しかし、家族のように日常的に会う関係でもない。普段はお正月に会う程度であり、今回は祖父の容態悪化という特別な状況で集まっていた。そのような状況のなかで同じエレベーターに乗ると、不思議な「気まずさ」が生まれていた。
さらに印象に残った出来事がある。葬儀の日、エレベーターにあと一人乗れる状況で、中学生のはとこに声をかけたところ、彼は数秒だけ立ち止まった。結局乗ってきたものの、その一瞬のためらいがとても気になった。乗車後もしばらく沈黙が続き、私が「気まずいね」と声をかけると、彼も「気まずい」と返した。その瞬間、エレベーターの中の空気が少し和らいだことを覚えている。
この出来事を振り返ったとき、研究会でいただいた「所在のなさ」という言葉が結びついた。あの場には祖母、父、母、私、そしてはとこが乗っていた。彼は自分だけが少し異なる立場にいることを、乗る前のわずかな時間のなかで感じ取っていたのではないかと考えた。そして、その感覚はエレベーターに乗ってからではなく、乗るかどうか迷ったあの数秒から始まっていたようにも思えた。
興味深かったのは、病院の日の夜、今度は私自身が似たような立場になったことである。親戚との食事で人数の都合上、私ははとこ一家のテーブルに一人だけ座ることになった。自分の家族は別のテーブルにおり、「伊東家は私だけ」という状況だった。昼間に観察していたはとこと、以前私自身が同じような立場になっていたのである。

この経験を通して、「所在のなさ」はエレベーターだけで生まれるものではないことにも気づいた。自分だけ少し立場が違う、自分だけ所属が曖昧であるという感覚は、空間が変わっても生じる。気まずさとは、単に物理的な距離や沈黙だけではなく、自分がその場のなかでどのような位置にいるのかという感覚とも深く関わっているのではないかと考えるようになった。

その後の研究会でも、「すでに出来上がっている会話の輪に後から入ると気まずい」というコメントを別のメンバーからいただいた。例えば、話が盛り上がっているところへ途中から加わる場面や、自分だけ遅れてその場に入る場面で感じる気まずさである。このコメントもまた、「所在のなさ」という考え方と重なっているように感じた。自分の居場所が定まっていない状態や、その場との関係性がまだ築かれていない状態が、気まずさを生み出している可能性がある。
一方で、この出来事をきっかけに、「親密さ」と「気まずさ」の関係についても考え直すようになった。当初は、親しい相手ほど気まずさは小さいと考えていた。しかし、実際には恋人や長年の友人とはエレベーターでも気まずさをほとんど感じない一方で、家族とは気まずさを感じることがある。家族は最も親しい存在であるはずなのに、この事実は「親密さ」だけでは気まずさを説明できないことを示していた。

現時点では明確な答えは出ていないが、気まずさは相手との親密さだけではなく、その場における自分の位置や役割、そして「自分はここにいてよいのか」という所在の感覚とも関係しているのではないかと考えている。この問いは、春学期のフィールドワークを通して得られた最も大きな収穫の一つであり、今後も引き続き考えていきたいテーマである。

経験が空間の感じ方を変える

春学期のフィールドワークを通して考えるようになったのは、同じ空間であっても、人によってその感じ方は異なるということである。
当初は、エレベーターという空間そのものが「気まずさ」を生み出しているのではないかと考えていた。しかし、これまでの観察を振り返ると、「気まずさ」は空間だけで決まるものではなく、その場にいる人がそれぞれに持ち込む経験や関係性とも深く結びついているように思われた。
相手とどのような時間を過ごしてきたのか、その日はどのような出来事があったのか、自分はその場でどのような立場にいるのか。同じエレベーターに乗っていても、その場に持ち込まれる経験は一人ひとり異なる。だからこそ、同じ空間であっても、感じる「気まずさ」もまた異なるのではないかと考えるようになった。
春学期のフィールドワークでは、「気まずさ」の正体を明らかにすることはできなかった。しかし、観察を重ねるなかで、空間だけではなく、その場にいる人が積み重ねてきた経験にも目を向ける必要があるという、新たな視点を得ることができた。

おわりに

春学期では、「気まずさ」の正体を明らかにすることを目標として観察を始めた。しかし、観察を重ねるにつれて、「気まずさ」という言葉そのものを捉え直す必要があることや、空間だけではなく、その場にいる人の経験や関係性、所在の感覚など、さまざまな要素が関わっている可能性が見えてきた。その結果、答えを得るというよりも、新たな問いが次々と生まれる半年となった。現時点では結論には至っていないものの、「気まずさ」はエレベーターという空間だけから生まれるものではなく、人がその場に持ち込む経験や関係性、所在の感覚とも深く結びついている可能性が見えてきた。
また、フィールドワークを続けるなかで、自分自身の観察の仕方についても考え直す機会が多くあった。観察した出来事と、自分がそこに与えた解釈は分けて考えなければならないこと、そして、自分自身もフィールドの一部であり、ときには観察者であると同時に当事者にもなることを実感した。観察を続けることは、対象だけではなく、自分自身の見方を問い直すことでもあった。

秋学期は、引き続きエレベーターでのフィールドワークを続けながら、親密さの異なる相手と同乗した場合の違いや、自分から会話を始めた場合に空間がどのように変化するのかについても観察していきたいと考えている。また、エレベーターを観察するなかで、気まずさを和らげたり、人がその場を心地よく過ごしたりするための仕組みにも関心を持つようになった。エレベーターの中には、サイネージや紙の広告、BGMなどが設置されていることが多く、場所によってはエレベーターガールが案内を行っているところもある。こうしたものは単なる情報提供ではなく、空間の雰囲気や、その場で感じる居心地にも影響を与えている可能性がある。
今後は、フィールドワークを通して得られた気づきをもとに、「気まずさ」を紛らわせたり、人と人が同じ空間をより心地よく共有できたりするようなメディアや制作についても考えていきたい。

地獄でつながる

(2026年8月7日)この文章は、2026年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

西尾 有紗|Arisa Nishio

 

私の卒業プロジェクトは、地元にある飲み屋街「地獄谷」を参与観察という形でフィールドワークし、「友達」について考える取り組みである。

背景

2025年秋。私は大学3年生で、就職活動に勤しんでいた。そうしているうちに、「何をしたくて生きているんだろう」と自問する機会があった。私はこれまで、ずっと与えられた課題や試験をとにかくこなしていくような生活を送ってきていたような気がしていた。さらに言えばにはこれと言って秀でた特技や分かりやすい「個性」みたいなものもあるわけではなく、自分に何ができるかも説明できないでいた。そんな自分を責めるかのように、数々のエントリーシートには、「あなたが将来成し遂げたいことは?」とか「世の中にどういう変化をもたらしたいか」などの設問が多く書かれていた。だからそれらに対峙するたび、大人になるには大きな社会に立ち向かうような立派な目標を持っていることが求められていると感じてしまい、戸惑っていた。
冬。卒業プロジェクトのテーマを決めなければいけない時期になった。「自分にしかできない卒業プロジェクトにしなさい」ということを加藤先生や加藤研の先輩たちから言われていた。例のごとく「自分にしかできないもの」が分からない私は、とりあえず先輩たちや同期と飲みに行っていた。湘南台のバーで夜が明けるまで語りあったり、付いているカラオケでAKB48を歌い、合いの手のところでマイクをみんなに向け、他の卓まで巻き込んで歌ったりしながら馬鹿みたいにふざけて過ごしていた。そうしていると、これが私にとってはかけがえのない時間で、ただ他愛もないことで友達と笑い合う時間を過ごすことこそがもはや人生目標なのではないかと感じた。幼稚だと思われるかもしれないが、社会を変えたいなどの大義名分がなくとも、私にはこの時間があれば十分だと本気で思ったのである。そんな様子を面白がってくれた先輩に、「こういう飲み屋をフィールドにしたらありさちゃんにしかできない卒業プロジェクトができるんじゃない?」と言っていただいた。そのことがきっかけで、私は地元の飲み屋街「地獄谷」をフィールドワークすることに決めた。「地獄谷」は数年後に再開発することが決定しているため、なおさら今あるうちに研究する価値があるのではないかとも考えた。

家族と友達

友達について語るとき、私の中で切り離せないものは家族の存在である。
かつて母とケンカをして友達の家に家出したとき、母から「友達は親みたいに面倒見てくれないし、責任もとってくれないよ」と言われたことがあった。当時は、自分のことを仮にでも心配して行動してくれた友達を否定されたように感じ、とても悔しかった。たしかに、家族は友達よりも強固な結びつきがあり、簡単には切り離すことができないため、お互いのことはお互いで面倒を見て、時には家族の責任を負わなければならない。一方で友達は個人の選択によって築かれ、嫌になったら簡単に関係を遮断することができてしまう。
しかし、デボラ・チェンバースの『友情化する社会』によると、女性の社会進出や多様性、グローバル化、地理的流動性など様々な理由から、以前のような家族や地域コミュニティなどのつながりは希薄になってきているという。そんな個人主義が高まった現代社会での人々の社会的紐帯は、個人の選択によって築かれる「友達」がとって代わるという説があるのだそうだ。また著者は、「『友達』の話になると途端に定義は曖昧になる」とも述べている。
辞書で引いてみても「互いに心を許し合って、対等に交わっている人」とか「いつも親しく交わっている人々」などと記載されており、なんだかやや抽象的である。互いに心を許し合えているかなんて、確かめようがない。相手の気持ちはいつまでたっても理解しきることはできないのだから。そう考えると、やはり友達は非常に繊細で脆いものなのかもしれない。

参与観察

卒業プロジェクトを始動し、初回のフィールドワークは加藤先生と2人で訪れた。
まずは私が以前母と訪れたことのあるvivo daily standというバーに入った。加藤先生と普段大学では話さないような他愛もない話をしたり、隣のお客さんやマスターとも話したりしていた。夫婦で来る方や仕事終わり1人で飲みに来る方、年代も30代あたりから60代までの方まで様々なお客さんがいた。だがそこでは制度的な役割を忘れ、ただ同じ店で同じ時間を過ごす仲間として皆が対等であったような気がしている。
話している中で、マスターのうにやさんに、突然「うちでバイトする?」と声を掛けていただいた。すぐに私は勢いで「はい!」と答え、2月の中旬から毎週金曜日の夜にアルバイトをすることが決定した。こうして、私はvivoのスタッフとして合法的に参与観察という形を取れることになった。

バーはこじんまりしたお店で、店の中には10人ほどしか座れないようになっている。うにやさんは音楽が好きで、店の中にはギターがたくさん飾られていたり、レコードが置かれたり、店内にも緻密にコントロールされた音量で音楽が流れている。そんなうにやさんのこだわりのつまったお店では、固定のお客さんが何時間も居座るよりも、新規のお客さんが入れるようにお客さん同士が気を使って「俺そろそろ出るわ!」と席を空けてくれたりする。
また、うにやさん自身「お店には流動性が大事だ」とおっしゃっていることからも分かるように、お客さんの配置にはこだわっていることが伺えた。そのため、私はまずお客さんの席を記録することにした。
基本的には常連さんを扉側の席に座らせ、新規のお客さんは奥の冷蔵庫側の席に座らせることが分かった。もっと詳しく見ると、18時台のまだ人が全然いない時間帯には、新規のお客さんを扉側に座らせ、常連さんが来たらその少し奥側の席に座らせている。静かに飲みたそうな方や、内輪だけで話したそうな方々はもっと奥の冷蔵庫側に座らせている。予約されたお客さんには冷蔵庫側の奥の席を残しておいていることが多い。そしてお客さんが新しく入るたびにお店の中のお客さんを少しずつずらし、時には常連さんと新規のお客さんの間に緩衝材になりそうな人を座らせたりもしていた。さらに面白いことに、常連のお客さんが扉側で隣の新規のお客さんに話しかけたり、冷蔵庫側に隣にいるいつものメンバーに話しかけたり両方に話題を振ることがあった。そのおかげで話題がそろい、初対面なのに店の中の大半でおしゃべりする形ができる。こうしたことから、うにやさんがお店の中を常連さんだけの一見さんが入りづらい空気にすることなく、色々な人が入りやすい場を作る工夫を観察することができた。

「僕は潤滑油的な役割をしている」

「僕は本来人付き合いとかは面倒なタイプなんだ。ここでたくさん喋っているのは仕事というスイッチを押して切り替えているだけ。じゃなきゃやってられないっすよ」
うにやさんはお客さんにとても慕われており、常連のお客さんが大半を占めているため、私はてっきり人と接することが好きでこういう飲食店を営んでいるのかと思っていた。だが、そういう訳でもないみたいだ。
「学生時代もずっと1人で過ごしていたから。孤独な時間に本とかを読んだり音楽とかをやったりしていた。そういう時間に価値が生まれることもある。だから孤独を悪いとか、それを中途半端に埋めようとは思わない。」
なるほど、私は今まで、現代社会において家族的なつながりとか地域的なつながりが希薄になっていることから、それを「友達」という形態によって代替されないと「いけない」ような気がしていた。しかしそれはもしかしたら「孤独が悪」という固定観念に無意識のうちに縛られていたのかもしれないと思った。
「人付き合いが面倒なのに、なぜこういう場所で働いているんですか?」と聞くと、「人と人がつながる場所を作るのは好きで、自分はあくまで潤滑油的な役割をしたいと思っている」と答えていた。
私は今まで、私の大好きな人たちには幸せになってもらいたいという気持ちを持って生きていた。世の中に社会貢献をしたいとか、そんな意志を持つことを求められていると感じる中で、「まずは目の前の人を幸せにしたいと思えなくて何ができるのか」と考えていた。
だが、それはおこがましいことなのだそうだ。
さらに、「大人になるということは、身の程を知るということだ」とも言われた。うにやさんはここにいる全員、あくまで他人だと思っているのだという。
「ただこの瞬間、一緒に過ごして笑い合うだけで、幸せにしようなんておこがましいことは考えていない。」

たしかに、親しい人と他愛のない話をして呑んでいる瞬間は幸せを感じるけれど、解散し、1人になったら現実と向き合わなければならない。皆それぞれ人には見えないところで悩んでいたり苦しんでいたりする時間がきっと私と同じようにあって、それを忘れるその一瞬だけを共有することしかできないのかもしれない。
「友達は責任とってくれないよ」という母の言葉の裏には、他人を幸せにするには覚悟がどれだけ必要なのか、相手にとって自分がどれほどの存在なのかということが潜んでいるのかもしれない。友達と言えどもあくまで他人なのだから、他人の人生に深く踏み込むようなことはできない。むしろ、自分自身も、たとえ血が繋がっていても他者からの過度な干渉を鬱陶しいと思うのだから、当然なのかもしれないと思った。

みとめる

2026年6月。内定をいただき、ようやく長い長い就職活動に終止符を打つことができた。
私も納得のいく結果になり、安心して入社を決めた。これまで私の進路を案じ、時に口うるさく、時に諍いが生まれることもあった母も、最後は「優秀だよ。もう心配することはありません」と言ってくれた。その言葉を聞き、私は娘としての、母は親としての肩の荷がふっと下りたような感覚があった。
就職活動は今でも決して好きではないが、嫌なことにも逃げずに向き合う姿勢は、私自身の強さだと実感することができた。

以前vivoに来た加藤先生から「今どきの若者っぽくないんだよね」と評されたことがある。

「不器用で、要領よくかわすこともできず、何事にも正面からぶつかってしまう」のだそうだ。

それは就職活動においても同じだった。自分の大切な人たちと楽しく飲む時間を作るためにはいい企業に入って安定した収入がなくてはならないことと、親からの期待にも応えたいという気持ちから、企業が問うことと曲がりなりにもぶつかっていた。そのプロセス自体が、私という人間を形作っていったと今では思えている。加藤先生がvivoという場所で私に対して率直に、忖度せずお話してくださったおかげで、自分のことを前より理解することができたように感じた。うにやさんが以前、「一見、無駄に思えることでも、やっておくことが意外と大事だったりする」と語ってくれた言葉の意味を、今なら少し理解できる気がする。

実を言うと、vivoのお客さんたちにも、大学4年生だという話をすると毎回「就活終わった?」と聞かれ、時にはそれらを疎ましく思うこともあったが、一番私の就活を気にしていたYさんに報告をすると、「最高におめでとう、よくやったよ」と言ってくださった。

同時に、このプロジェクトの調査方法も変えた。それには、加藤先生におすすめされた、大川将さんの「新宿ゴールデン街のエスノグラフィー」という修士研究を読んだことが大きな転換点となっていた。

「自身の存在を匿名的にして研究を進めることは不可能であるため、自己再帰的な、一人称で告白的に語る記述方法として小説を採用することにした」

これまでの私はどこかで、冷静に、写実的に調査する「観察者」であろうとしていたのかもしれない。地獄谷は年齢層が高く、また男性の方が多いことから、私は珍しい存在として扱われることが多かった。そのため、自分が足を踏み入れたことによってvivoの本来の姿を変えてしまいたくないと考えていた。しかしこの記述によって、私がここに影響を与えることは避けられない事実であると痛感させられた。であれば、フィールドワーカーが体験したこと、街の人々と交わした人間関係の移ろい、そして私自身の内省的な変化を含めた「生々しい記述」こそが、より誠実な態度なのではないか。この研究にヒントを得て、私はもっと私自身の視点から現場を語りたいと思い、今までの座席表のメモよりも、その日の日記的な記録を重視することに決めた。

徐々に私もアルバイトに慣れていき、簡単なお酒は1人で作成できるようになってきた。うにやさんはよく営業中でも気が向いた時にカウンターの外でギターを弾く。その間に注文が入っても私一人で対応できる場面が増えたため、気にせず演奏をできるようになった。そのとき、うにやさんが私に対して「ありがとね、あなたがいると僕は遊べるんだよ」と言ってくださった言葉が印象に残っている。私が調査者として懸念していたある種の「邪魔者性」は、こういう場面において「アルバイト」という役割を発揮することで克服できているのかもしれない。こうして、私は自分の存在を肯定的に捉えられるようになった。

他者との距離

もちろん、毎週働いていて楽しいことばかりがあるわけではない。
2026年7月。同じ加藤研の仲間がvivoに遊びに来てくれた時、みんなの卒業プロジェクトに興味を持ってくださったうにやさんに、私は友達について考えているという話をした。すると、うにやさんは「僕は垣根を越えて仲良くするとかそういうことは嫌いだ。むしろ境界線が大事だと思っている」と言った。やはり、友達は家族を超えることができないのかと考えた。

しかし、よくよく考えると、私も別にこのプロジェクトによってvivoにくるお客さんと「友達」になりたいわけではないことは明らかだった。むしろ、お客さんとスタッフという距離感を超えようとするお客さんを止めるうにやさんには感謝していた。

研究会の時間に、プラースという人類学者の考えた「コンボイモデル(人生の道連れ)」という概念が紹介された。人生の航路を共に進む「道づれ」や「伴走者」のように、個人を支え親密な関係を保ち続ける身近な他者の集団を指す概念のことである。これを同心円上で表したとき、子どもの時は否応なしに親や家族が一番中心に近い位置にあるが、これらは成熟とともに組み換え可能であるとされている。言い換えれば、これを選んでいくことが大人になるということなのではないだろうか。

まとめ

私は「友達」という関係に価値を感じ、この卒業プロジェクトを進めていくことによって友達を否定されたと感じたあのころの自分を救おうとしている。だが、もしかしたら「友達は責任取ってくれない」という言葉は本来正しいのかもしれないと思い始めている。それは、コンボイモデルの内側に他者を配置するには相当の覚悟がいるという意味だ。そもそも全員と友達になれるわけでもないし、なりたいとも思わない。だからこそ選んでいかなければならないのである。私はこれから人生において誰をコンボイモデルの内側に置いて、誰を外側に置いておこうとしているのだろうか。その判断基準を卒プロ2では考えていこうと思う。