まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

研究会シラバス(2022年度秋学期)

(2022-8-8追記)おわび:シラバス(大学のオフィシャル版)では、資料等の提出期限が8月10日(水)と書かれていましたが、正しくは、このページに記載のとおり、8月21日(日)22:00です。混乱させてしまって、ごめんなさい。(オフィシャル版も修正済みです)

 

更新記録

(2022年8月7日)卒業プロジェクト(学部4年生)(春学期のまとめ)へのリンクを載せました。グループワーク(学部1〜3年生)(となりのエンドーくん)のサイトへのリンクを載せました(ただしサイトは作業中)。
(2022年7月27日)「A Day in the Life 5」を追加しました → 春学期のおもな活動(4)
(2022年7月16日)いろいろ、加筆しました。作業中です → 週末になるべく早く完成させます。
(2022年7月6日)現在シラバス(詳細版)入力中です。

大学のオフィシャルサイト(SOL)にある「研究会シラバス」も参照してください。


写真:岩淵キャンプ(2022年6月)https://camp.yaboten.net/entry/wbch_video

※ 加藤研メンバー(2022年7月1日現在):大学院生 10名(博士課程 4名・修士課程 6名)・学部生 15名(4年生 4名・3年生 6名・2年生 5名)

もくじ

1 はじめに

ぼくたちは、絶えずコミュニケーションしながら暮らしています。
ワツラヴィックらは、『人間コミュニケーションの語用論』(二瓶社, 2007)のなかで「コミュニケーションにおけるいくつかの試案的公理」について述べています。その冒頭に挙げられているのが、「We cannot NOT communicate(コミュニケーションしないことの不可能性)」です。つまり、ぼくたちは、いつでも、どこにいても、コミュニケーションせざるをえない。非言語的なふるまいはもちろんのこと、沈黙もまたメッセージであることに、あらためて気づきます。
そして、コミュニケーションについて考えることは、(いつ・どこで・だれが)集い、(何を・ どのように)語らうのかを考えることだと理解することができます。つまり、コミュニケーションへの関心は、必然的に「場所」や「場づくり」への関心へと向かうのです。この研究会では、コミュニケーションという観点から、人びとの「移動」や人びとが集う「場所」の成り立ち、「場づくり」について実践的な調査・研究をすすめています。 

たまに、「(加藤研は)何をやっているのか、よくわからない」というコメントをもらうのですが、いま述べたとおり、人と人とのコミュニケーション(ヒューマンコミュニケーション)が主要なテーマです。既存の学問分野でいうと社会学や社会心理学ということになりそうですが、ぼく自身は、学部を卒業後は「コミュニケーション論/コミュニケーション学」のプログラムで学びました。

何が起きるかわからない…。ぼくたちは、変化に満ちた時代に暮らしています。とくにこの2年半はCOVID-19に翻弄され、これまで「あたりまえ」だと思っていたことを諦めたり手放したりする場面にいくつも遭遇しました。哀しい出来事にも向き合い、また不安をかかえながら不自由な毎日を強いられることになりました。でも、そのような不安(あるいは不満)、問題に向き合いながらも、明るくてエネルギッシュな人びとが、確実にいるということにも、あらためて気づきました。そこに、「何があっても、どうにかなる」という、人びとの強さを感じ ます。また、諸々の課題に向き合いながらも、ぼくたちを笑顔で迎えてくれる優しさにも出会います。それが、リアルです。

この圧倒的なパワーを持って、ぼくたちの目の前に現れるリアリティに、どう応えるか。それはまさにコミュニケーションにかかわる課題であり、ぼくたちが「研究会」の活動をとおして考えてゆくべきテーマです。お決まりの調査研究のスキームに即して、「報告書」を書いているだけでは、ダメなのです。つぶさな観察と、詳細な記録、 さらには人びととのかかわり(ときには、長きにわたるかかわりの「はじまり」に触れていることもある)をもふくめたかたちで、学問という実践をデザインすることに意味があるのです。

ぼくたちの活動は、たとえば「まちづくり」「地域づくり」「地域活性」といったテーマと無縁ではありません。でも、いわゆる「処方箋」づくりにはさほど関心がありません。 そもそも「処方箋」などつくれるのだろうか、と問いかけることのほうが重要だと考えます。「ふつうの人びと」の暮らしにできるかぎり接近し、その強さと優しさに光を当てて可視化するのです。そこまで行ければ、じゅうぶんです。あとは、人びとがみずからの暮らしを再定義し、そこから何かがはじまるはずです。ぼくたちのコミュニケーションのなかにこそ、たくさんのヒントがあります。

(ここ、追記します。)

 

2 2022年度春学期のおもな活動

まず、どのような活動をしているのか、具体的に紹介しておきましょう。
すべてを網羅することはできないのですが、活動のタイプは大きく3つに分けて整理することができます。(1) 研究会メンバー(ときには大学院生もふくめて)全員で取り組むもの、(2) グループワーク(学部1〜3年生)、(3) 卒業プロジェクト(4年生)の3つです。
「研究会」は1週間に1回(2コマ続き, 180分)で開講しています。くわえて、週末にフィールドワークやワークショップ(「キャンプ」)をおこなったり、それぞれの計画に応じてグループワークをすすめたりします。

 研究会メンバー全員の取り組み

たとえば2022年度春学期は、研究会メンバー全員での取り組み(フィールドワーク、ワークショップなど)として、以下のような活動をおこないました(計画中のものをふくむ)。

(1)エクスカーション(ぷちキャンプ)(2022年4月)
あたらしいメンバーも加わったので、そのオリエンテーションをかねて、神保町界隈(東京都)でワークショップをおこないました。

(2)エンドーキャンプ(2022年5月)
春学期は、少しずつ「外」での活動が増えました。少し遠出をするつもりで計画していましたが、先方とのやりとりや日程調整が思うようにいかず、今学期のグループワーク「となりのエンドーくん」と関係づけてキャンパスの周辺(藤沢市遠藤)でワークショップを実施することになりました。
日程調整のことにくわえ、当日は天候がすぐれず、参加人数も少ない状態での「キャンプ」になりました。内容としては、かつて加藤研で取り組んでいたまち歩きの音声ガイドをつくる計画でした。これについては、秋学期以降にもう一度すすめる予定です。

(3)岩淵キャンプ(2022年6月)
6月1日付けで学外活動の制限が緩和されましたが、宿泊を伴う活動の再開はもう少し先になりそうです。今回は「通い」で、岩淵町(東京都北区)界隈を対象地に2日間の「キャンプ」を実施しました。初日はまち歩きと取材を経てポスターづくりをすすめ、翌日(2日目)に成果報告会を開くという流れでした(ダイジェストビデオを観ると、雰囲気が伝わるはずです)。

(4)A Day in the Life 5(2022年7月)
〈ある一日〉を指定し、その日の一人ひとりの生活の「細片」をビデオにまとめるプロジェクトです。もともとは、リドリー・スコットらのプロジェクト「Life in a Day」(2010, 2020)に触発されて、一昨年度から半年ごとに実施しています。
A Day in the Life(2020年7月)」「A Day in the Life 2(2021年1月)」「A Day in the Life 3(2021年7月)」「A Day in the Life 4(2022年1月)」と同様に、〈ある一日〉を記録・編集する予定です。以下は「A Day in the Life 4」です。(今年のバージョンが完成したら差し替えます↓)
今年のバージョンが完成しました。

2022年7月25日

(5)仙台キャンプ(2022年9月)(実施予定)
3年ぶりに、宿泊を伴うかたちで「キャンプ」を実施できそうです。現在、詳細については調整中ですが、9月末に仙台でポスターづくりのワークショップを計画しています。

グループワーク(学部1〜3年生)

2022年度春学期は“となりのエンドーくん”というテーマでグループワークをすすめています。成果は、冊子にまとめたりウェブで公開したりするほか、ORF(2022年11月)や「フィールドワーク展XIX」などで展示する予定です。→ ウェブ (準備中)
https://vanotica.net/endo_kun/

『となりのエンドーくん』表紙(案)

卒業プロジェクト(学部4年生)

2023年3月に卒業予定の4年生は、4名です。それぞれの「卒業プロジェクト」については、2023年2月に開催予定の「フィールドワーク展XIX」で展示されます。

3 方法と態度

つぎに、調査研究に向き合うさいの、基本的な考え方や方法、さらには態度(姿勢)について整理しておきます。
(履修のための必須条件にはしていませんが)「研究会」での活動にあたっては、学部の開講科目「フィールドワーク法」「インプレッションマネジメント」を履修済みであることが望ましいでしょう。人と人とのコミュニケーションについて考えるために、フィールドワークやインタビューに代表される定性的(質的)調査法を活用します。また、現場に密着しながら活動し、その成果を世に問うためにワークショップを実施したり、展覧会を開いたりします。

フィールドワーク

ぼくたちは、フィールドワークやインタビューに代表される質的調査(定性的調査)を重視していますが、COVID-19の感染拡大にともない、方法そのものの再定義・再編成が必要となりました。とりわけ、人びとの暮らしに接近し、能動的にかかわりながらその意味や価値を理解しようという試みは、対面での「密な」コミュニケーションを前提として成り立っており、この2年ほどは、研究会の活動そのものが大きな制約を受けていました。
いっぽう、会議や講義のオンライン化の試みをとおして、あらたな〈現場観〉が醸成されつつあります。さまざまなメディアを駆使し、さらに時間・空間を再編成することによって、定性的調査のありようはどのように変化するのか。2022年度秋学期は、人びとの移動、集まり、社交などのふるまいをとらえなおし、オンライン環境における質的調査について検討することも、引き続き大切な課題になるでしょう。

観察と記述

つぶさな観察と詳細な記述からはじまるフィールドワーク(その先にはインタビューやワークショップなどを構想・実施)をとおして実践的に考えてみたいのは、たんなる調査の方法ではありません。従来からある「問題解決」(ビジネスモデル的発想)を志向したモデルではなく、「関係変革」 (ボランタリーなかかわり)を際立たせた、あたらしいアプローチを模索しています。より緩やかで、自律性を高めたかたちで人びとと向き合い、その「生きざま」 を理解し描き出すことを目指します。
つまるところ、ぼくたちは「調査者」という、特権的に位置づけられてきた立場をみずから放棄し、人びとの日常と「ともに居る」立場へと向かうことになります。その動きこそが、変革のためのよき源泉になると考えているからです。

2006年の秋ごろから「キャンプ」をコンセプトに、「研究会」の活動をデザインしていくことにしました。そもそも、「キャンパス」も「キャンプ」も、広場や集まりを意味する「カンプス (campus)」が語源です。大学の「時間割」によって組織化される時間・空間を再編成して、いきいきした「場」づくりを実践する。その実践こそが、活気のある「グッド・プレイス(good place)」はどのように生まれ、育まれてゆくのかを考えるヒントになるはずです。

「キャンパス」と「キャンプ」

「キャンプ」は、ぼくたちのコミュニケーションや社会関係のあり方を再認識し、再構成してゆくための「経験学習」の仕組みです。

「キャンプ」と聞くと、多くの人は、テントを持って出かける、いわゆる「アウトドア」の「野営」活動を思い浮かべるかもしれません。本格的ではないにしても、ぼくたちの多くは、おそらく、幼い頃に何らかの「キャンプ」体験をしているはずです。たとえば、林間学校や野外学習などの一環として、仲間とともに、飯盒でごはんを炊いたり、星空を見上げたり、火を囲んで語ったりした思い出はないでしょうか。ここで言う「キャンプ」は、必ずしも、こうした「アウトドア」の活動を指しているわけではありません。

「キャンプ」は、ぼくたちに求められている「かかわる力」を学ぶ「場所」として構想されるものです。さほど、大げさな準備は必要ありません。「キャンプ」は、日常生活のなかで、ちょっとした気持ちの切り替えをすることで、ぼくたちにとって「あたりまえ」となった毎日を見直し、「世界」を再構成していくやり方を学ぶためにあります。それは、道具立てだけではなく、心のありようもふくめてデザインされるもので、思考や実践を支えるさまざまなモノ、そして参加者のふるまいが、相互に強固な関係性を結びながら、生み出される「場所」です。

「キャンプ」に集約される「研究会」での活動にあたっては、以下のようなふるまいが求められます。

フィールドで発想する

「キャンプ」では、現場(フィールド)での直接的な体験から、〈モノ・コト〉を考えるスタイルを大切にします。もちろん、本・論文を読むこと、理論的な枠組みをしっかりとつくることも重要ですが、まずはじぶんの目で見ること・じぶんの身体で感じることを重視します。近年、「フィールドワーク」ということばが一般的に使われるようになりましたが、「フィールドワーク」には、地道に観察・記録をおこなうこと、時間をかけてデータの整理や解釈を試みることなど、知識を生成するための「技法」としてのトレーニングには(それなりの)時間とエネルギーが要求されます。まち歩きを愉しむことは重要ですが、一人前のフィールドワーカーとして、足(と頭)を動かすことが求められます。

カレンダーを意識する

忙しいことは悪いことではないと思いますが、じぶんの〈やりたいこと〉と〈やること〉とのバランスを上手く取らないと、すべてが中途半端になります。他の授業やサークル、アルバイトなど、さまざまな活動とともに研究会を「中心」に位置づけることを強く望みます。言いかえるならば、〈望ましさ〉と〈実現可能性〉をつねに意識するということです。これはやる気、能力、チャンスなどと関連していますが、スケジュールや時間のマネジメントが重要である場合が少なくありません。中途半端にならないように、研究活動のカレンダーをきちんとデザインすることが重要です。

じぶんを記録する

フィールドワークを基本的なアプローチにする際、調査の対象となる〈モノ・コト〉への感受性ばかりでなく、テーマに取り組んでいるじぶん自身への感受性も重要です。つまり、じぶんが、いったいどのような〈立場〉で〈モノ・コト〉を見ているのか…をどれだけ意識できるかということです。また、その〈立場〉をどのように明示的に表現(=つまりは調査結果の報告)できるかが大切です。フィールドワークをおこなう際には、現場で見たこと・発見したことを書き留めるためにフィールドノートを書くのが一般的ですが、研究会の時間をふくめ、日々のじぶんを記録します。

コミュニケーションの練習

ことばを大切に正確につかいたい。つねにそう思いながら活動することを心がけています。たとえば「地域活性化」「まちづくり」「コミュニティ」など、 それっぽくて、その気になるようなキーワードはできるかぎり排除して、慎重にことばをえらびたいと考えています。つまり、コミュニケーションに執着するということです。「わかったつもり」で、ことばをえらばないこと。そして、相手(受け手)を考えて丁寧に語る/表現する姿勢を執拗に求めることです。
その練習のために、ジャーナリング(日々の活動日誌)、スケッチや図解、エッセイなどをおこないます(詳細は開講時に説明します)。

 

4 2022年秋学期の活動

「研究会」は、週に2コマ(180分)全員で集まります(原則としてオンキャンパスです)。くわえて、「キャンプ」やORF、展覧会などの予定があります。

キャンプ:全員(学部生+大学院生) 

2022年度秋学期は、「エクスカーション(ワークショップ)」を1回+「キャンプ」を2回実施する計画です。履修者(履修予定者)は、下記の日程を確保してください。

  • 10月15日(土)@渋谷
  • 11月11日(金)〜13日(日):調整中
  • 12月16日(金)〜18日(日):調整中
オープンリサーチフォーラム(ORF):全員(学部生+大学院生)
  • 日時:2022年11月
  • 会場:
フィールドワーク展XIX:全員(学部生+大学院生) 

毎年、年間の活動報告のための展覧会を開いています。今年度は、下記のとおり開催すべく準備をすすめています。
(参考)これまでの「フィールドワーク展」一覧 → https://fklab.today/exhibition

  • 日時:2023年2月23日(木)〜26日(日)(予定)
  • 会場:調整中(都内)
グループワーク:1-6セメスター 

グループに分かれてフィールドワークをおこないます。2022年度秋学期のテーマは「プリズムのゆくえ」(構想中)です。
(参考)これまでのグループワーク テーマ一覧: https://camp.yaboten.net/entry/fw_themes

卒業プロジェクト:7-8セメスター(個人) 

4年生は、それぞれのテーマで「卒プロ1」「卒プロ2」に取り組みます。

 

5 研究会の履修について

2022年度秋学期に「研究会A」の履修を希望するひと

何度かやりとりしながら、履修者をえらびたいと思います。ちょっと面倒かもしれませんが、お互いのためです。結局のところは「えらび、えらばれる」という関係が大事だからです。まずは、このシラバスをじっくり時間をかけて読んでください。リンク先や資料にも目をとおしてみてください。
その上で、下記の (1) (2) をまとめてください。(必要に応じて) (3) やりとりしたいと思います。

(1) 書評:以下のいずれかの本を読んで書評を書いてください(2000〜2400字程度)。ここでいう書評はたんなる紹介文・感想文ではなく、あなたが興味を持っている課題と結びつけながら、著者の考えやアプローチを批評する文章を指します。※文中で本の一節を引用する場合、引用箇所は文字数にカウントしません。

  • イヴァン・イリイチ(2015)『コンヴィヴィアリティのための道具』ちくま学芸文庫
  • 山崎正和(2006)『社交する人間:ホモ・ソシアビリス』中公文庫
  • ジェイン・ジェイコブズ(2012)『発展する地域 衰退する地域:地域が自立するための経済学』ちくま学芸文庫

(2) 志望理由 :なぜ、この研究会に興味をもっているのか。じぶんはどのようにかかわるつもりかを文章化してください(800〜1000字程度)。過度な自己PRは避けて、かならず、 このシラバスに書かれた内容と具体的に関係づけて書いてください。

 


(1) (2) の提出は…

  • 提出期限: 2022年8月21日(日)22:00 時間厳守
  • 提出方法:(1) (2) ともに、メールで 22f [at] fklab.net 宛てに送ってください。他のアドレスに送られらたものは、読まない(というより、見落とす)場合があるので注意。

かならず、学部、学年、名前、メールアドレスを明記すること。 質問・その他についても、同様に22f [at] fklab.net宛てにメールを送ってください。@の前は、22f(エフは小文字です。)

  • .doc(.docx)、または.pdf形式のファイルを添付してください。
  • メールの件名は、かならず「2022f」としてください。期限遅れ、宛先の誤り、内容の不備等がある場合は選考対象にはなりません。


(3) コミュニケーション
:いつも、可能なかぎり、会って話をする機会をつくることにしています。提出された書類を確認した上で、面談の日程調整をします。 *書類だけで、受入が難しいと判断する場合もあります。

  • すすめかた: 2022年8月22日(月)以降に メールで連絡します。そのあとは、予定を調整して面談(15〜20分程度)します(状況に応じて対面またはオンライン)。

(この続きを少し書くかもしれません。)

 

6 リンクいろいろ

その他、活動内容や日々の雑感についてはブログや研究室のウェブ、SNSなどで随時紹介しています。

 

7 資料

たとえば、下記を読んでみてください。コミュニケーションやメディアについてどう考えているか、「キャンプ」や「場づくり」の実践、理論的・方法論的な関心、具体的な事例などについて知ることができます。

  • 荒井良雄ほか(1996)『都市の空間と時間:生活活動の時間地理学』古今書院
  • ジョン・アーリ(2015)『モビリティーズ:移動の社会学』作品社
  • 海野弘(2004)『足が未来をつくる:〈視覚の帝国〉から〈足の文化〉へ』洋泉社
  • アンソニー・エリオット+ジョン・アーリ(2016)『モバイルライブス:「移動」が社会を変える』ミネルヴァ書房
  • エリック・クリネンバーグ(2021)『集まる場所が必要だ』英治出版
  • 佐藤郁哉(2006)『フィールドワーク(増補版):書を持って街に出よう』新曜社
  • 清水義晴・小山直(2002)『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』太郎次郎社
  • 橋本義夫(1978)『誰にでも書ける文章:「自分史」のすすめ』講談社現代新書
  • ドロレス・ハイデン(2002)『場所の力:パブリックヒストリーとしての都市景観』学芸出版社
  • エドワード・ヒュームズ(2016)『「移動」の未来』日経BP
  • ケン・プラマー(1991)『生活記録の社会学:方法としての生活史研究案内』光生館
  • パウロ・フレイレ(1979)『被抑圧者の教育学』亜紀書房
  • ウィリアム・ホワイト(2000)『ストリート・コーナーソサエティ』奥田道大・有里典三(訳)有斐閣
  • ジョン・ヴァン・マーネン(1988)『フィールドワークの物語:エスノグラフィーの文章作法』現代書館
  • 宮本常一・安渓遊地(2008)『調査されるという迷惑:フィールドに出る前に読んでおく本』みずのわ出版
  • ポール・ワツラヴィックほか(2007)『人間コミュニケーションの語用論:相互作用パターン、病理とパラドックスの研究』二瓶社
  • 加藤文俊(2018)『ワークショップをとらえなおす』ひつじ書房
  • 加藤文俊(2017)「ラボラトリー」とデザイン:問題解決から仮説生成へ『SFC Journal』第17巻第1号 特集:Design X*X Design: 未知の分野における新たなデザインの理論・方法の提案とその実践(pp. 110-130)
  • 加藤文俊(2016)『会議のマネジメント:周到な準備、即興的な判断』中公新書
  • 加藤文俊(2016)フィールドとの「別れ」(コラム) - 工藤保則 ・寺岡伸悟 ・宮垣元(編著)『質的調査の方法〔第2版〕』(pp. 156-157)法律文化社
  • 加藤文俊(2015)フィールドワークの成果をまちに還す - 伊藤香織・紫牟田伸子(監修)『シビックプライド2 国内編』第1部(p. 77-84)宣伝会議
  • 加藤文俊(2015)『おべんとうと日本人』草思社
  • 加藤文俊・木村健世・木村亜維子(2014)『つながるカレー:コミュニケーションを「味わう」場所をつくる』フィルムアート社
  • 加藤文俊(2013)「ふつうの人」のデザイン - 山中俊治・脇田玲・田中浩也(編著)『x-DESIGN:未来をプロトタイピングするために』(pp. 157-180)慶應義塾大学出版会
  • 加藤文俊(2009)『キャンプ論:あたらしいフィールドワーク』慶應義塾大学出版会
  • 加藤文俊(2014)まちの変化に「気づく力」を育むきっかけづくり(特集・フィールドワーカーになる)『東京人』5月号(no. 339, pp. 58-63)都市出版
  • 加藤文俊(2014) ツールを考えるということ(特集・フィールドワークとツール)『建築雑誌』12月号(Vol. 129, No. 1665, pp. 32-35)日本建築学会

見過ごされた「ケア」を掬い取る

(2021年8月7日)この文章は、2021年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

今村 有里

はじめに

ケアは私たちの身近な活動であり、しかも、ケアを受けていないものはいないと断言できるほど人間存在にとって重要な活動であるにもかかわらず、なぜその活動とそれを担う者たちが、長い歴史の中で軽視、あるいは無視され、価値を咎められてきたのだろうか。(岡野八代、『ケアするのは誰か?』)

私が「ケア」を卒プロのテーマとして選んだ背景には、社会学の授業や研究会を通して学んだ様々な問題の根底に、ケアに対する過小評価が潜んでいる、とある時強く思ったことがきっかけだった。個人の自律や能力を重視しすぎた社会では、人間の根源的な営みである他者への依存的行為、すなわちケアの重要性が看過され、それらは社会から無くならないにしても、より個人的で閉鎖的な範囲へと追いやられている。コロナ禍で他者との非接触が謳われ、人との関わり合いが制限されていく光景を目の当たりにしながら、このケアの問題について、卒業プロジェクトを通じて深く考えたいと思った。ケアの重要性を見直すことが、個人の弱さや傷つきやすさを認め、自分と他者との繋がりを再考するといった、人間存在の存在自体への理解につながると考えた。

ケアという概念について

「ケア」という言葉を聞くと、まず初めに医療や介護現場を思い浮かべることが多いが、近年は「誰しもが他者との関係の中にある」というより広義の意味で使用される場合も多い。この考えは、そもそも私たちは生まれた瞬間から一人で生きることはできず、また自己完結できない存在であることから、人は誰しも程度の差はあれ、他者に依存して生きざるを得ない、という事実を前提としている。この人間存在にとって必然的で避けることができないケアは、多くのフェミニストたちが着目してきた分野の一つであるが、中でもアカデミズムにとりわけ大きな影響を与え、また私自身がケアの概念について興味を持ったきっかけが、キャロル・ギリガンによる『もう一つの声』であった。彼女が、女性たちの経験から聞き取った声は、「ケアの倫理」という言葉で解釈され、ケア現場に留まらないその応用性を説いた。そもそも近代民主主義においては、他者の権利を自らの権利と競合するものと捉え、諸権利問題に順列をつけ整理しようとする「正義の倫理」が重視され、その結果、他者への共感や自己批判の中で生じる他者への責任といった、弱いものへの視線から発せられる「ケアの倫理」が見過ごされがちになっている。ギリガンは、社会においてはこの「正義の倫理」だけでなく、「ケアの倫理」の重要性が考慮されるべきだとし、両者は相反するものではなくむしろ統合されるべきだと主張した。「何が正しいか」と問う正義の倫理とは対照的に、「どのように応じるか」というプロセスを重視するケアの考え方は、昨今の自己責任論の限界を提唱する概念としても注目を集める。新自由主義に起因する経済格差、さらにコロナ禍によって、既存の価値観だけでは乗り越えられない状況に直面する現在は、自らの権利を他者と競合するものとして捉えず、むしろ見知らぬ誰かのニーズを代弁し、それに応えようとする想像力と判断力が求められていると思う。このようなケアの根底にある考えは、民主主義の後退に抗い、人々に政治的市民としての特性を養う力をも有している。

その後、哲学者のエヴァ・フェダー・キテイはケアをめぐる思想に大きな発展をもたらした。彼女は、誰もがみな母親の子供であるという素朴な前提に警鐘を鳴らしながら、ケアする側の中動性について言及する。ケア労働は、依存する者たちの生死に関わるため、それは誰かが担わなければならないものであり、この道徳的問いかけが家庭内でケア労働を行う女性たちを苦しめているという。このような状況に置かれる多くの女性たちは、強制されたわけでもないが、自由な選択でもない責任の引き受けを「公的に精査しなくともよい私的な出来事として、やり過ご」されてしまう。しかし同時に彼女は、ケアを「他者への依存を不可避とし、偶然とも言える相互依存のなかで、他者のニーズを充たすために、ときに奔放する人々の実践から世界を捉える」ことだと定義し、ケアがもたらす広がりを幅広い範囲に訴えかた。日本でも、フェミニズム思想家の岡野八代氏は、幼児期から老齢期まで、「人間は誰かに一方的に依存しなければ生きていけない時期」があり、誰もがケアされる人間になりうるし、それをケアする人も常に存在する、といったケアする側とされる側に想像力を促す思想を提唱する。誰しもをケアの関係の中に位置付け、またその政治、社会的意義を再認識することにより、二元論的思考や正義を追求する姿勢、あるいは競争や市場原理主義に基づく強権主義などとは相反する価値観の中で、個人では克服困難な出来事を対処できる可能性が注目されている。このような思想的背景をもとに、卒業プロジェクトでは複数のケアの現場へのフィールドワークを行おうと考えた。フィールドに複数の現場を選んだのは、ケアを題材にした鷲田清一著作の『〈弱さ〉の力』を参考に、一つの現場に囚われないケア概念の広さや可能性を理解したいと考えたためだ。

哲学対話

春学期は「哲学対話」に参加し、一つの問いをめぐって発生する対話の中におけるケアについて理解を深めた。そもそも哲学対話とは、1960年代にアメリカで始まった「子供のための哲学」という活動が起源であり、思考力を鍛えるプロセスとして他者との対話に着目した取り組みである。現在は日本の教育現場においても、アクティブラーニングの一環として取り入れられるようになり、さらには地域での活動として哲学対話が開かれることも度々ある。一般的な哲学対話の授業では、生徒同士が「生きるとは何か」「自由とは何か」といった素朴な問題や身近な問いについて、意見を出し合い、考えを深めていく。一見ケアとは遠く見える実践ではあるものの、ここでは容易に答えの出ない問いを考え抜き、またそれを自己のうちに受け入れる力を育成するとともに、対話を通して得られる他者への共感や想像力を養うことも期待される。これらは、「他者と関わる」という広い意味でのケアの実践として捉えることができる。

私は今年度の5、6月にかけてオンラインでの哲学対話に参加し、主に大学生同士で哲学的問いを介した対話を行った。1回目の問いは、「大人になることとは何か」、2回目は「間を読むとは何か」、3回目は「愛したいか、愛されたいか」という問いで哲学対話を行なった。対話は全て4〜5人で行い、2時間ほどかけて一つの解答に辿り着こうと意見を重ねた。はじめは、誰がどのような意見を出したか、どのような方向性で対話が帰結したのかを分析しようとしたが、数回参加してみると、その内容に一定の方向性はなく、参加者それぞれがその場での対話を即時的に楽しんでいることがわかった。

哲学対話の魅力とケア的側面

 そこで、なぜ人々は哲学をするために集うのかという疑問と、私自身が参加することで実感した対話後の変化を手がかりに、哲学対話におけるケア的要素の分析を試みた。そもそも、哲学対話は普段の日常会話や大学でのディスカッションとは明らかに違う他者との関わり合いであった。その特殊性は、対話が行われる以前の場の設計によって色濃く表れている。私が参加した哲学対話では、対話が始まる前に以下の3つのルールが必ず参加者に共有される。①哲学の専門用語を使わない、②人の話は遮らない、③否定的な言葉は使わない、という3つである。これは、哲学対話に勝ち負けではない、という前提によって作られた参加者が常に心に留めておくべきルールである。また、オンラインという特殊な状況下では、頷き、聞いている姿が見えるよう、「なるべく画面をオンにしてください」と運営の方からの呼びかけが行われる。さらに、一般的な哲学対話は、年代によって気になる問いがや共感できる部分が異なることを前提とするため、近い年代の人と対話することを基本としている。哲学対話では、対話をするという能動的な行為よりも、誰かの話を聴くという受動的な姿勢が何よりも重要となり、一人ひとりの意見が同じように尊重される場の設計が意図的に行われている。そのため、場の設定は他者の意見を受け止めるという行為自体が重要視され、他者のこぼれ落ちるような疑問や率直な意見を受容できる環境を意図的に作り上げるのだ。

集まった人たちは一人ひとり、違う場所からこの世界、この社会を見ている。そして、その全体を俯瞰できる人はどこにもいない。だから哲学カフェは、語ることと同じくらい聴くことを大事にする。(鷲田清一,『哲学の使い方』)

普段、私たちは他者との会話の中で、無意識的に順序をつけて聞くことや話すことを実践している。「この人の意見は合理的だから聞こう」「この人は偉いから正しいことを言っているはずだ」「この人の言っていることはよく分からないから聞き流そう」などといったように、正しさを基準とした正義の視点で他者をジャッジしてしまう。その結果として、自分自身の発言も、合理的かつ論理的であらねばならないというプレッシャーを受け、誰かの顔色を伺って本音を言うことを制限してしまうのではないか。しかしながら、一つの哲学的な問いを前にしたとき、私たちの間に差異は存在せず、それぞれの生きる現実が同じ価値を持ち、またそこから発せられる意見も同じように尊重される。正義が重視される社会の風潮の中で、哲学対話は他者の意見の尊さや素晴らしさ、そして自分の意見の価値を再確認できる、そんな特殊な場であった。これは、紛れもなく哲学対話が「聴く」ことを重視し、その場に誰しもの意見を受容する態勢が存在するからだと感じた。この聴く態度を持つことから出発した対話は、まさに他者を他者として尊重するケアの倫理によって構成され、自己と他者の関係性の再編を促す特別な対話の試みであった。

今後

春学期は主にこの哲学対話に参加しフィールドワークを行なった。一般的な「ケア」の観点から見ると、少し特殊なフィールドではあったが、ケアの可能性やその議論の範囲を広げたいという狙いには合致した取り組みであったと評価できる。そして、哲学対話の調査に加えて、学期終わりには神奈川県藤沢市のケア施設「あおいけあ」や多世代居住アパート「ノビシロハウス」の見学に行き、従来のケア現場における調査にも少しずつ着手し始めた。そもそも、高齢者の数が増え続ける日本では、介護職の担い手とその重要性が増しているものの、医療職・介護職だけでは社会を支えるには不十分である。そこで、日常的なケアの必要性を広めるために、現在さまざまな取り組みが行われており、「あおいけあ」や「ノビシロハウス」はその先駆けとして世界から注目されている存在である。一般の人とケア現場を隔離するのではなく、むしろうまく融合し、多くの人との交流の中で自然とケアが生じる場づくりが行われており、その特殊性に私自身も強く惹かれた部分があった。

今後、調査を進めるにあたって、このようなケア現場に焦点を当てるのかは検討中である。広義のケアについて考察したいという目標とは齟齬が生じる懸念もあるが、実際のケア現場の実態を知る必要性もあると考えている。ケアというテーマの中で何を見出したいかという目標が明確ではない中で、フィールドを決定し、調査を進めていく難しさがつきまとうが、今回哲学対話の参加を経て感じた自分自身の感覚の重要性は忘れないでいたいと思う。私自身が、「ケア」という行為そのものに対して敏感になり、日常生活にあるさまざまな場面でその要素を見つけ出し、またその意義を語れる存在であれるように、今後も学術的な理解を深めつつ、調査を進めていきたい。

フィクション映画監督という立場が持つ暴力性への抵抗

(2022年8月7日)この文章は、2022年度春学期の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

中田 江玲

なぜこの研究を行うのか

① 社会的背景

2022年、著名な映画監督による性加害が立て続けに告発されたことが契機となり、日本の映画業界におけるハラスメント行為の常態化に対する批判が強まった。同年3月18日には映画監督6名によって構成される映画監督有志の会が「私たちは映画監督の立場を利用したあらゆる暴力に反対します」という声明を出すなど [1]、映画業界における労働環境改善に向けた活動が従来よりも顕著に見られるようになった。

映画製作を進める上での決定権を多く持つ監督という立場は、その特性により映画製作の現場において優位的である。映画撮影の現場は、慢性的な人材不足・長時間の拘束・低賃金などの不安定で劣悪な労働環境であるため[2]、身体的・精神的負荷がかかりやすい。このような負荷は権力に関係なく生じるが、監督やプロデューサー、助監督などはそれらの立場が持つ優位性を利用してハラスメントというような暴力行為に至りやすい。

また、映画撮影の現場において契約書を交わすことなく就労しているスタッフが多いため、個人が権利を主張しにくい環境であり、それによって権力関係をより強固なものにしている。2019年度に経済産業省が行った調査によると、映画スタッフのうち約8割がフリーランスであり、そのうち仕事に従事する際に契約書を貰っていないと答えた人が過半数を占める[2]。働く内容に合意が取れていないまま撮影現場に入ることで柔軟に働かざるを得なくなり、過度な要求に対しても異議を唱えにくくなっている。

映画が芸術的な文脈において語られることも、監督という立場の権力を強めている要因の一つであると考えられる。ビジネスとして商業映画を製作する場合、その映画には資金に相応した、あるいはそれ以上の価値が求められる。映画の価値は娯楽性と芸術性という2つの面によって評価されるものであり、前者は興行収入によって、後者は個人によって判断される。映画祭において受賞する映画が審査員による話し合いで決められることは、映画の芸術的価値が個人に委ねられていることが分かる例である。製作中、つまり公開前の映画である場合、興行収入によって映画の娯楽的価値を量的に判断することは難しい。そのため撮影したカットに価値があるか否かの判断は監督個人の芸術的感覚に委ねられる場合が多く、監督の曖昧な指示が許容されやすくなっている。監督による指示の正当性を求めない状態は、撮影を進める上でスタッフや役者との合意形成を無視できる権力を監督という立場に与えることになる。

映画監督という立場を利用した加害行為が無視されてきた背景があるからこそ、私は『暴力性』という言葉を用いながら向き合うことの重要性を感じている。そして、映画監督という立場が『暴力性』を必ず備えてしまうからこそ、それに警戒し、思考と実践による終わらない抵抗を持続させなくてはならない。

② 個人的背景

私はカメラを持って撮影し、監督として演出を行い、編集をする。自ら映画監督であると名乗れるほどの実績はないが、監督として携わった映画を見てもらえる機会がここ数年で少しずつ増えている。そのような状況の中、今まで自分が監督として携わった映画製作を振り返り、自分が備える暴力性に対して自覚的であったか不安に思うことがよくある。自分の属性に対する理解が深くなければ、自らが有する特権に気付かず、無自覚な差別を行ってしまう。映画監督という立場を経験し始めたばかりの私には、その立場が備える優位性や権力によって生じる暴力を想定しきれておらず、無自覚に誰かを抑圧しているのではないだろうか。

フィクション映画を作る際、監督やプロデューサーが企画の立案を行い、脚本家が脚本を執筆する。近年は映画監督が脚本も兼任することが多いため、脚本の中に登場するキャラクターが監督の想定を超える動きをすることはほとんどないと言えるだろう。一方で、映画撮影現場になるとキャラクターの主体が役者まで拡張されるため、監督が想定していたものとは異なる動きをキャラクターが行う可能性がある。私には、役者がもたらすキャラクターの未知性に対して驚き、十分な合意が得られないままに監督という立場を利用して指示通りに演じさせようと試みてしまった経験がある。

映画撮影の現場では、監督が行う演出に対して役者は「はい、分かりました」と応答し、議論することなく演技がなされる場合が多い。私が監督として参加した映画の現場でも役者と意見がすれ違うことは特になく、キャラクターの主体が映画撮影の現場で拡張されるという作用を意識していなかった。役者によって与えられるキャラクターの未知性を私が初めて自覚したのは、前回の映画撮影時に役者から「私のキャラクターはそう振る舞わないと思います」と意見を言われたときだった。今でもその時に私がつけた演出が間違っていたとは思わないが、その時の対応に対してはもっと別の方法があったと考えている。物語全体を考えながら、各シーンにおけるキャラクターの動きに整合性があるかを確認するのは監督という立場が担う役割である。そのため監督は役者と話し合いながら、キャラクターの主体を共に作り上げていく必要がある。一方で、キャラクターの主体が役者まで拡張したことを無視し、役者がもたらす未知性を恐れ、十分に議論もしないまま排除しようとすることは暴力的な行為である。

映画撮影時に監督が役者に演出を行う際は、役者という立場のもつ中動性に意識を向けなければならない。役者が自らの身体を能動的に動かして演技をしていたとしても、そこには監督の意向に基づき動かなければならないという受動性が権力関係によってもたらされていることも無視できない。監督の演出通りに役者が演技を行ったとしても、監督が(無自覚であっても)その立場を利用して役者の自由意志を奪っている可能性は常に存在している。このような役者という立場のもつ中動性を理解した上で、なるべく監督と役者が合意した演出の上で演技が行われるように、キャラクターの行動原理や行動の意図、または感情の表出方法について話し合うべきである。とはいえ、権力関係の中での合意は双方の意思を完全に反映しているとは言い切れない。そのため監督という優位な立場からは、役者の自由意志を奪わないための働きかけを行うことしかできない。

私はこのような背景から、映画監督という立場が備える暴力性を自覚しながらも、それに抵抗し続けるための研究を行うことに決めた。

研究の目的

まず、映画監督という立場の持つ暴力性をなくすことは不可能であるということを念頭に置く必要がある。映画監督という立場が持つ優位性はその決定権に由来しているが、映画製作を進めるための判断を行うことは監督という立場のもつ役割であるためそれを回避することは不可能である。本研究は、課題解決といったような正解を求める活動ではない。

この研究の目的は、映画監督の持つ暴力性をなくす特効薬を見つけることではなく、映画監督という立場が備える暴力性についての理解を深めることである。

また、本研究では映画監督という立場にのみ焦点を当てているが、映画製作において暴力性を備えているのは監督だけではないということも明記しておきたい。映画監督という立場から振るわれる暴力の可能性にのみ気をつけ、警戒すればよいわけではない。私が最終的に目指すのは、映画製作に関わる全ての人が安全に、安心して製作活動に携わることができる環境である。

研究方法

フィクション映画監督という立場が持つ暴力性に対する理解を深めるためには、映画製作の現場に入り、フィールドワークを行うことは必要不可欠である。一方で、どのような立場から観察を行うかについては選択の余地がある。1つ目の方法として、調査者として映画製作に直接関わらずに記録のみを行うことが挙げられる。2つ目は、映画監督以外の立場から映画製作に関わり、調査を行う方法だ。そして3つ目の選択肢は、研究者自身が映画監督として映画製作を行う調査方法である。私はこの中から、3つ目に挙げた方法を実践することに決めた。

この研究テーマを決定してから、監督以外の役職で撮影の現場に入った。調査目的ではなかったが、その経験から監督自身でなければその立場が備える暴力性について気付けないであろうと感じた。調査者として映画監督という立場の備える暴力性を観察するためには、暴力が実際に実践されなければならない。そのようなことはあるべきではなく、なおかつその場合は研究目的である「フィクション映画監督という立場が持つ暴力性への抵抗」から外れてしまう。一方で、研究者自身が映画監督として映画製作に関われば、暴力の実践可能性を感じた時点でその立場のもつ暴力性を観察し、記録することができる。実際に今までの私が監督として映画製作を行う際、「このように振る舞うと、監督の持つ権力によって相手を威圧してしまう可能性がある」と感じ、気をつけた経験がある。卒業をした後も私自身がフィクション映画を監督する際にこの研究の内容を実践していくためにも、研究者自身が映画監督として映画製作を行う調査方法が最も有用であると考えた。

本研究では、研究者である私自身が監督としてフィクション映画のある特定のシーンの製作を複数回行い、その過程を記録する。製作する映画への理解度によって権力関係が強まることを懸念するため、映画の製作は全て同じ役者とスタッフで行う。また、この研究で観察する映画製作は<本読み>から<上映>までとする。

「なぜこの研究を行うのか」で挙げたように、映画監督はその立場を利用して、役者との合意形成を回避しながら演出をすることが可能である。一方で、これは役者の自由意志を奪うことにつながるため、行われるべきではない。このような暴力が生じやすい構造を考慮し、本研究では映画製作の際にLearning Trough Discussion(=LTD)という手法を用いる。これはアイダホ大学のWilliam F. Hill 博士が1962年に考案した共同学習法の技法であり、論理的・批判的思考スキルの改善や、言語スキル・コミュニケーションスキルの改善などの効果が得られるとされている。[3]映画製作において表現の擦り合わせを行うためには、脚本を正確に読み取り、キャラクターなどの行動についての考察を言語化する能力が必須である。もしこのような能力がなければ、演出を行う際に合意形成を試みることができず、監督という立場を利用して、暴力的になる可能性が大きくなる。LTDを使用することにより、演出意図の説明が要求されやすくなる環境を作り、映画監督という立場が持つ暴力性への抵抗を示していく。

本研究では、映画製作における脚本読解用にLTDの内容を以下の通りに応用する。

卒プロ2に向けて

2022年度春学期は、映画監督という立場や映画業界のもつ構造的な問題点について明らかにしてきた。卒プロ2では、映画監督という立場が備える暴力性に対して警戒しながら、監督として実際にフィクション映画を制作していく。

参考文献
  1. action4cinema /日本版CNC設立を求める会│「私たちは映画監督の立場を利用したあらゆる暴力に反対します。」(2022/3/18) https://action4cinema.theletter.jp/posts/877aa260-a60c-11ec-a1bd-3d3b3c9fc3bd
  2. 経済産業省│「映画制作の未来のための検討会 報告書」(2020/3) https://www.meti.go.jp/meti_lib/report/2019FY/000489.pdf
  3. 安永悟│「実践・LTD話し合い学習」ナカニシヤ出版(2016)

札幌と私の生活史

(2022年8月7日)この文章は、2022年度春学期の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

大河原 さくら

1. 生活史と私

岸正彦編、東京の生活史に聞き手として参加し、生活史を知った。東京の生活史とは、150人が東京にまつわる150人に生活史の聞き取りを束ねた一冊である。生活史とは「個人の人生の語り」のことであり、質的調査法の一種である。私は、大阪から東京に拠点を移したばかりの構成作家の方に聞き取りを行った。聞き取りを通じて、今まで感じたことのない確かな手応えを感じた。それは、誰かが残さないと残らなかった語りであるという語りの固有性への実感である。政治家やスポーツ選手などの著名な人物の語りは残されやすい。しかし、私たちのような一般人が語ったことはさまざまな人がアクセスできる形でアーカイブされづらい。その固有性に聞き取りを行うやりがいと意義を感じた。「普通の人」の語りを集めたスタッズ・ターケルの「仕事!」や「大恐慌!」では、語りの生々しさに圧倒される。上記の2冊のような、個の集積となる一冊を制作したいと考えた。

また、「札幌と私の生活史」は、一般化に抵抗する一つの手段である。女性か男性か、学生か会社員か、私達は社会的なラベルを受け入れて生活をしている。それらのラベルは、他者を判断するには効率的に作用する。しかし、ラベルに囚われ、他者を理解することを蔑ろにしていないだろうか。私は長い語りに耳を傾け、そして残すことによって一般化へ小さく争いたいと考える。

「問題発見・問題解決」を掲げるSFCにおいて、切実な問題意識がないことに長い間焦っていた。学部の前半では、問題解決の手法を学べる授業を履修したり、研究会に所属した。しかし、生活史を知ったことで、そもそもの問題発見、設計を探ることに時間をかけても良いと知った。そう考えたのは、今期のオーラルヒストリーの学びが大きく影響している。ゲスト講師であった岸政彦先生の授業では、語りを残すことそのものの価値を知った。また授業の担当教員である清水先生から、研究において情報収集や材料集めに時間をかけることの実感を得た。卒業プロジェクトという限られた機会において、結論を出すことを急がず、語りの収集に集中する決意をした。

2. 札幌と私

大学3年の秋学期から休学し、札幌に移り住んだ。感染症の爆発的な流行による自粛生活でストレスを蓄積し、生活圏を変えたいと切に感じたことから移住した。札幌は、父親の仕事の関係で小学3年生から中学3年生まで過ごした土地である。また、大学2年時に参加した移住イベント、「北海道移住ドラフト会議」も大きなきっかけである。移住したい参加者を「選手」、移住してほしい地域や企業を「球団」とし、北海道への移住を促す逆指名型のイベントである。

小中学校では学校外での出会いはほぼなかった。しかし、大学生になり交友関係が広がり、北海道の人の魅力を実感した。イベントで出会った地域のプレイヤーは、心から北海道という土地の可能性を信じていた。課題先進地域と呼ばれる北海道でゲストハウスを開き、観光資源を最大限に生かそうとする人、地域おこし協力隊として街の魅力を発信する人など、自分の特性と地域が重なる方法で課題解決に取り組む人々に出会った。その姿を目の当たりにし、一時的な滞在ではなく、長期的に暮らすことで北海道の魅力、そして限界を観察したいと感じたこともきっかけである。

札幌は積雪量が120cmを超えるにも関わらず、人口が190万人を超える世界にも例を見ない都市だ。生活するうちに札幌に暮らす人々のおおらかさや他者を排除しない志向に居心地の良さを感じていった。干渉しすぎないが、困ったときにはお互い様であるという支え合う文化に触れた。数ヶ月後、資金もなく、働き口もなかった私が一人暮らしを賄えるほどとなった。これは紛れもなく札幌で出会った人々からの援助によるものである。9ヶ月間生活する中で、札幌という街が居場所であり、逃げ場所となった。札幌への湧き上がる思い入れの原点は出会った「人」である。私の札幌を構成する、その人々の語りを残したいと考えるようになった。

3. 聞き取り

2021年9月から聞き取りを開始した。東京の生活史の際に受講した研修、また「ライフストーリー・インタビューーー質的研究入門」(桜井厚,小林多寿子)や「プロカウンセラーの聞く技術」(東山紘久)、「質的社会調査の方法--他者の合理性の理解社会学」(岸正彦,石岡丈昇他)を参考にしながら行った。生活史の聞き取りで、最も課題に感じているのが「積極的に受動的になる」という姿勢である。これは、前述の研修での岸正彦先生の言葉である。生活史は、項目を明確に決め、順番通りに聞きとる構造化インタビューとは異なる。生活史の聞き取りにおいて、その場に身を任せ、語りをサポートするように聞きとる。語りを遮らないように適切な相槌をうち、語りの一部を反復するなどして話を引き出す。聞き取りを重ねる中で、徐々にこの姿勢を会得しつつある。当初は、面白い話を引き出そうと前のめりに語り手と向き合っていた。しかし、それでは相手を萎縮させてしまう。問いを立てたり、相槌を打つことで、語りの補助線を引くようにきく。2、3時間にも及ぶ聞き取りの中で、いかに相手が喋りやすい相槌や問いを立てるかが重要だ。オーラルヒストリーの授業での言葉を借りると、「温度のあることば」をできる限り多く拾い上げられるように努めている。

4. 「すすきのと私の生活史」から「札幌と私の生活史」へ

卒プロの構想を始めた3年の秋学期では、札幌の中でも繁華街であるすすきのに焦点を当てていた。すすきのはアジア最北の繁華街であり、無数の飲食店がひしめきあう。札幌で生活する中で、外食の際にはすすきのに出ることが多かった。飲み屋で出会う人々は生活圏内のコミュニティとは外れ、多様なバックグラウンドの人々が多く、刺激的だった。札幌最古の地下街「すすきの0番地」では、獄中で陶芸を極めた人、透視ができるサラリーマン、昼の11時から12時以外は常に飲酒している人など、本当か嘘かわからない話を聞かせてくれる興味深い人々ばかりであった。最初はそんなすすきのの有象無象の語りを残したいと考えていた。

しかし、知人から聞き取りを始めるうちに考えが変わっていった。清水先生から「そもそも大河原さんがなぜ札幌、そしてすすきのに魅力を感じているのか考え直してみたら良い」と言っていただいた。そこで、加藤研での発表や同期への相談をするうちに、すすきのという土地というより、そこで出会った人々に惹かれていると改めて気がついた。今までは繁華街である「すすきの」に絞って語り手を一から探していたが、私の生活圏であった札幌市全体に広げることにした。

聞き取りを行う中で、気づいたことが2点ある。1点目は、ごく狭い界隈での共通言語や共通知識を無意識のうちに体得していたことである。役所の方の個人名や地域では有名な飲食店、複雑な人間関係など9ヶ月間のうちに共通知識を獲得していたことを実感した。個々の文脈を理解していることで、より一歩迫った話を聞くことができる。一方で、界隈の狭さへの違和感や居心地の悪さもまた事実である。独特な界隈性を言語化していくというのも一つの方向性だと感じている。

2点目は、札幌市民は人の流動性に慣れているということである。エキセントリックリサーチの中間報告会で石川先生に「札幌は移動民が多いのでは」と指摘をいただいた。確かに、転勤、Uターン、Iターンで札幌を訪れる人々に多く出会ってきた。中には定住を強く決意するのではなく、自身のライフキャリアを鑑みて移住する人々もいる。私自身もその1人だ。一時的に札幌を離れ、東京で暮らしている語り手もいる。札幌市民には移動民を受け入れる心理が働いているのかもしれない。

上記の2点の仮説を携えつつ、聞き取りと編集を進める。語り手は私が札幌で生活する中で出会った人々である。アルバイト先の上司、通っていたカフェのオーナー、インターン先の先輩など、私の札幌の生活の一部だった人々に聞き取りを行う。

5. 既存の生活史を読む

すでに出版されている生活史集を読み、編集方法を検討した。1つ目は「新宿情話」(須田慎太郎)である。本書は、新宿で暮らし、働く人々の語りを束ねた本である。語り手は踊り子や風俗嬢、喫茶店のオーナーなど、繁華街ならではの職業が目に付く。語り手の氏名や職業などを明記しており、聞き手による語りの解釈も含まれている。聞き手がフォトジャーナリストということもあり、語り手の写真も掲載されており、語りをより現実的なものとして読むことができる。

次に、「東京の生活史」(編・岸正彦)である。自身も聞き手として参加した。聞き手を公募し、150人が150人がきいた東京にまつわる語りを束ねた一冊だ。2022年には、紀伊國屋じんぶん大賞を受賞した。岸正彦氏は「必然的に、偶然集まった」東京の街を著した一冊だと述べる。語りは1万文字ほどで、「あ〜」や「えっと、」などを削らずに文字起こしし、編集がされている。聞き手の解釈はなく、語り手らしさを残す編集がなされている。

他にも「仕事!」「大恐慌!」(スタッズ・ターケル)、「ハマータウンの野郎どもー学校への反抗・労働への順応」(ポール・ウィリス)「街の人生」(岸正彦)を参照する中で、できる限り聞き手の解釈を介せず、語り手の語りのままを残したいと考えるようになった。札幌と私の生活史は、研究の材料としての資料ではなく、ただ語りを語りとして残すための一冊だからである。東京の生活史を主として参考とし、聞き取りと編集を行う。

6. 展望

「札幌と私の生活史」を一冊として完成した暁には、聞き取りに協力してくださった方との場を札幌で企画し、本を直接お渡しすることを目指す。そして、卒業後、札幌と私の生活史を携えて、東京の生活史の札幌版を企画したい。

他者との間に介在する物質や行為がコミュニケーションに及ぼす影響

(2022年8月7日)この文章は、2022年度春学期の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

藤田 明優菜

背景

友人に相談があるとき、「ご飯食べに行かない?」「お茶しない?」と誘った経験はないだろうか。相談という目的を達成するのならただ対面して話すだけでいいのに、なぜご飯やお茶がある場を前もって指定するのだろうか。もちろん、落ち着いて話ができる空間として飲食店が選ばれるのは簡単に想像できる。しかし、それだけではなく、自分と友人の間に〈ご飯・飲み物という物質〉、〈食べる・飲むという行為〉があることでより落ち着いて話せると経験的にわかっているからでもあるのではないだろうか。実際、これまでを振り返ると、なにか行為を共にしているほうが話しやすかったり、居心地がよかったりした経験がある。たとえば、友人と一緒に料理をしているとき、食材を切ったり煮たりしながら話していると、沈黙があってもそれほど気にならないし、話題を無理に探すこともない。調理行為がコミュニケーションの逃げ道として機能しているのだろう。また、トントンと切る音や、グツグツと煮る音が、発話と発話の「間」をつないでくれているのかもしれない。

現場の観察

私はこのような、コミュニケーションにおいて他者との間に介在する物質や行為が及ぼす影響に興味があり、卒業プロジェクトのテーマに設定した。まず、実際の現場で何が起きているのかを知るために、私が友人とワンピースを製作している様子をビデオカメラで記録した。当初、食事や料理、ドライブなど日常的によくある行為を記録することも考えたが、私が趣味として何度か服作りをしたことがあり、黙々と1人で取り組んでいた作業がどう分担されるのか、針で縫うという集中を必要とする作業やミシンの音がどうコミュニケーションに影響するのかに興味が湧いたため、服作りに決めた。加えて、数ある服の種類のなかでも、2人で作るのに作業量が適切で、襟やフリルといった装飾の程度によって難易度を調整しやすいことから、ワンピースに決めた。協力をお願いしたのは、高校時代の友人・おかゆだ。「おかゆ」は私が知り合ってすぐに考案したあだ名で、高校時代の友人はみんな彼女をそう呼んでいる。私とおかゆは高校1年生からの仲なので、知り合ってから7年以上が経っている。高校卒業後も定期的に連絡をとり、数ヶ月に一度のペースで顔を合わせている。彼女は現在、大学を卒業し働いている。協力をお願いする人を考える際、親密度をどこまで考慮すべきか悩んだ。知り合ったばかりの人か、親友と呼べるほどに親密度の高い人かでコミュニケーションは大きく変わりうるからだ。計画の段階では、親密度の異なる何人かの友人とそれぞれワンピースを製作し、比較する予定だった。まず、比較的お願いしやすい親密度の高い人として真っ先に浮かんだおかゆに協力をお願いしたところ、快く引き受けてくれた。1回目の製作と振り返りを終えた時点で計画を練り直し、この1回の製作とその振り返りの記録のみを本プロジェクトの素材として扱うことに決めている。

実際の製作は、2022年4月5日に私が一人暮らしをしている6畳の部屋で行った。機材はGoPro HERO7 Blackを使用し、物が雑多に置かれている棚に目立たないように設置した。実際の画角は写真の通りだ。

おかゆには、大学の卒業プロジェクトの一環として一緒にワンピースを作っている様子を映像で記録し、会話やふるまいを分析したいということだけを事前に伝えた。加えて、撮影した映像を研究に使用すること、公開される可能性があることの了承を得てから記録を始めた。ワンピース製作の主な流れとしては、まず、まるやまはるみ監修『誌上・パターン塾 Vol.4 ワンピース編』を参照しながらワンピースのデザインを決める。どのような形にするのか、袖や丈の長さ、襟やポケットの有無などだ。デザインが決まったら、布を裁断するための型紙を模造紙に作図する。型紙を使用して布を裁断し、ミシンで縫い合わせ、完成させる。製作に必要な材料や機材は私が持っていたものを使用した。慣れない作業のため10時間以上かかると予想していたが、デザイン決めから完成して感想を共有し終えるまでの映像の長さは7時間7分29秒だった(昼食の時間も含まれている)。

映像の分析

1. 場面を切り取り、分類する

映像を分析するにあたって、高梨克也著『基礎から分かる会話コミュニケーションの分析法』や杉山尚子著『行動分析学入門 –ヒトの行動の思いがけない理由』など、会話分析や行動分析に関する本を読んだ。分析方法や事例を知ることはできたものの、分析にあたっての着眼点や解明したいことがまだ曖昧だと気づいた。そこで、まずはただ動画を見て、その場で起きていることを素直に観察することにした。その際、気になったことをELANで書き込んでいった。ELANとは、映像や音声ファイルに注釈をつけることができ、言語学や行動分析、相互行為研究などの分野でよく用いられるソフトだ。長時間にわたる自分の言動を客観視するのは初めてだったため、最初は気づきが多く、ELANも活用できていたが、何度も見返すうちに、映像がもつ情報の膨大さに圧倒されるようになった。映像には2人分の発話、表情、身体動作、視線の動きがあり、それらは変化するタイミングも含めて複雑に絡み合っている。7時間を超える映像すべてを分析対象としていても浅い分析になってしまうと考え、気になった場面をいくつか切り取って分析することにした。

映像のなかで最も注目したのは、言葉が足りていないのに意思疎通できている場面だ。これは一度に限らず何度も起きている。たとえば、私がミシンで布を縫っているとき、「まずい」と言って少し顔を上げただけで、おかゆが糸切りバサミを私の手元に置いてくれた場面(実際の映像:https://drive.google.com/file/d/1avBcO5EhuTcCh2jFZ2jgyIi5rRlEEhKY/view?usp=sharing)がある。私の作業状況から「まずい」理由は糸に関係しており、糸切りバサミが必要なのだと判断して渡してくれたのだろう。実際、私は糸切りバサミを使いたいタイミングだったので、映像でも「よくわかったね」とおかゆに言っている。おかゆに糸切りバサミを取ってほしいと思っていたわけではないが、いざ事前に察知してもらえると素直に嬉しかった。他に着目したのは、互いの発話をスルーしている場面だ。たとえば、おかゆが縫う動線を布に書き込む作業に対して「むっず〜」と何度も言っている傍らで、私は「何色がいいかな…」と糸を探しながらぶつぶつと呟いている場面(実際の映像:https://drive.google.com/file/d/1Xi41nfTDqP6RW2LAkO_3pows3W0hwx6P/view?usp=sharing)がある。この間、私たちは互いが発する言葉をあまり気にしておらず、私が「手伝おうか?」とおかゆに声をかけることも、おかゆが「この色は?」と私に提案することもない。これらのような数分間の場面をいくつか切り取り、〈言葉の足りないやりとり〉や〈互いにスルーしている場面〉といったように分類している。

現時点では計21個の場面を切り取ってあるが、今後増減する可能性がある。ELANを用いてこれらの場面の発話、表情、身体動作、視線の動きを書き起こしたり、音声のみあるいは映像のみで見聞きしたり、発されていない心の声を想像して映像に書き入れたりしている(ELANでの分析画面:https://drive.google.com/file/d/1VZyPNGuOB3A_fth2W0S8j-DMNU--xtGd/view?usp=sharing)。まだ分析途中だが、異なる話題が同時並行でやりとりされていることや、全体を通して目をあまり合わせていないことなど、書き起こす過程で発見できたことがいくつかあった。

また、数分間の場面とは別に布を裁断している約30分間にも着目した。最も時間がかかる縫う工程はどうしてもバラバラの作業になってしまうなか、裁断する工程は2人で共同作業をしている。ハサミの受け渡しや場所の入れ替わりが言葉少なに行われていた点に興味をもち、ハサミと2人の動きのみを抽出したアニメーション動画(https://drive.google.com/file/d/1jzXT0nvaGzXAeTSMs1PvtxEpA61l1ff_/view?usp=sharing)を作成した。丸で囲まれた赤い字の「あ」は私、青い字の「お」はおかゆのいる場所を示している。ハサミが赤いときは私、青いときはおかゆが手にしていて、黒いときは床に置かれている状態を表している。映像のもつ膨大な情報の中から着目したいものだけを抽出しようと試験的に作成したものであるため、必要に応じて音声やハサミの動線を加えるなど改良の余地は大いにある。作成するなかで、ハサミを渡すときに持ち手を相手に向けていることや、なるべく場所を動かず効率的に裁断しようとしていることがわかり、完成した動画を見るというよりも、その作成過程でより詳細に映像を見たことによる気づきが重要だったのだと考えている。

2. 他の人に見てもらう

自分で分析するだけではなく他の人に見てもらう機会も設けた。第一に、おかゆとの振り返りだ。対面で行いたかったが都合がつかず、オンラインミーティングツールのZoomで映像を画面共有しながら一緒に振り返った。

開始早々、おかゆが「バラエティ番組のワイプみたい」と言っていたのが印象的だった。先述したが、おかゆも私も長時間にわたって自分の映像を客観視するのは初めてだった。まさにバラエティ番組のように映像の自分たちに即時的なコメントを言い合いながら振り返るなかで、「実はこのときこう思っていた」、「この動きの意図はこう」と説明して疑問が解消された場面もあった。また、おかゆが自分の言動に対して「こんなに声大きいんだ」、「考えるときは(身体が)固まるんだね」と新たな気づきを得ているのも印象的だった。私自身、動画を見返すなかで知らなかった意外な言動をしている場面をいくつも見つけて驚いたが、それはおかゆも同じだった。振り返りの時間もZoomの画面録画機能を使用して記録に残しているため、ワンピース製作の映像と合わせて見ていく予定だ。おかゆと2人で振り返った他に、同じく高校時代の友人・まりちゃんにも映像を一部見てもらった。まりちゃんとおかゆと私は3人で遊ぶことも多く、高校時代のおかゆと私をよく知る人物だ。まりちゃんからは「いつもの2人だ。高校時代と変わらないね」とコメントをもらって、映像の中の2人は自然に近い状態だったのだとわかり安心した。加えて、同じ学期に卒業プロジェクトに取り組んでいる研究会のメンバーとメンターの加藤教授にも見てもらった。音楽をかけなかったことや、食事のときにミシンを机からおろさなかったこと、不安定なカーペットの上で布を裁断したことなど、自分ではあまり引っ掛からなかった点を指摘されて、私自身が映っているからか、自分の行動に疑問をもつ態度が欠けていたことに気づいた。この卒業プロジェクトに取り組むにあたって、私自身の友人の前でのふるまい、とくに無意識の言動にも興味があったため、他の人からのコメントは私の知らない私を知るきっかけとなった。

卒プロ2に向けて

今回、ワンピース製作の映像を振り返ってみて、先述した糸切りバサミの場面のような、相手の求めていることや次に必要とするものを言葉少なに察知していることに強く興味を抱くようになった。その場の状況、相手の様子を瞬間的に読み取り、ふさわしい行動をとる。これはきっと、意識されていないだけで、普段からあたりまえのように行われているのだと思う。映像分析を始めてから、日常生活における周囲の人のそうした気遣いにより敏感に気づけるようになった。コロナ禍において、私たちはテキストのみでのやりとりを頻繁にするようになった。オンライン上で顔を合わせられたとしても、限られた範囲の映像からしか情報を受け取れず、もどかしさを覚えることもよくあった。同じ空間でワンピースを作っている2人を見ていると、いかに身体の動きや雰囲気が情報をもっていて互いに影響しているのかがよくわかる。私たちは同じ空間にいる他者から発される身体情報を受け取り、自分の言動を調整している。あたりまえのようだが、あらためて映像で見ると、非常に複雑なことをしているのだと驚いた。

春学期を終えた現時点では、まだ素材が集まっただけの状態で、分析も十分に進められていない。今後は上述した数分間の場面の分析を進めると同時に、それぞれが発話している時間や沈黙の時間、ミシンを使っている時間などを計測し、映像を数値でも見ていく予定だ。また、裁断の場面から特定の情報を抽出して作成したアニメーション動画のような試みも続けたいと考えている。