- 大学生は27歳(阿曽沼陽登)
- 待ち合わせ(土屋麻理)
- ラーメン屋さん(芳賀友輔)
- お盆のよるに(城間さくら)
- はじめまして(梅澤健二郎)
- Tシャツは会話する(大川将)
- えこだであおう(原田ふくみ)
- しめきり(加藤文俊)
学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われるその一例を申せば、私が安政三年の三月、熱病を煩うて幸いに全快に及んだが、病中は括枕で、座蒲団か何かを括って枕にしていたが、追々元の体に回復して来たところで、ただの枕をしてみたいと思い、その時に私は中津の倉屋敷に兄と同居していたので、兄の家来が一人あるその家来に、ただの枕をしてみたいから持って来いと言ったが、枕がない、どんなに捜してもないと言うので、不図思い付いた。これまで倉屋敷に一年ばかり居たが、ついぞ枕をしたことがない、というのは、時は何時でも構わぬ、殆ど昼夜の区別はない、日が暮れたからといって寝ようとも思わず、頻りに書を読んでいる。読書に草臥れ眠くなって来れば、机の上に突っ臥して眠るか、あるいは床の間の床側を枕にして眠るか、ついぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない。その時に初めて自分で気が付いて「なるほど枕はない筈だ、これまで枕をして寝たことがなかったから」と初めて気が付きました。これでも大抵趣がわかりましょう。これは私一人が別段に勉強生でも何でもない、同窓生は大抵みなそんなもので、およそ勉強ということについては、実にこの上に為ようはないというほどに勉強していました。
『新訂 福翁自伝』(「塾生の勉強」岩波新書, 1978, p. 80)
このような「緒方の塾風」は、ひとつのスタイルだ。もちろん、当時は乱暴で不衛生な場面がたくさんあったと思うが、これが「滞在棟」に流れてほしい気風だ。好きなだけ本を読んで、気が済むまで語らい、お腹がすいたら食事をして、眠くなったら横になる。起きたらシャワーを浴びて、昨日の続きに勤しむ。枕がないことに気づかないほどに。
学びと生活が一体化すること。それは、じぶん(たち)の時間を自在に使える贅沢を味わうということだ。それは、あらかじめ(常識的な)「時間割」に集約することのできない、特別な時間だ。前にも書いたが、「滞在棟」を使うためには、お互いの時間を差し出す覚悟が求められる。たとえば「合宿」の場合(ぼくたちの「キャンプ」の試みもそうだが)、一泊二日というように、事前に時間を確保する必要がある。参加表明は、すなわち、じぶんの時間を差し出す決意の証だ。遠くのまちに出かけるときは、「逃げ場」がないので、必然的に学びと生活が一体化する。いつもの環境を離れて集中的に学べるのが、「合宿」のいいところだ。
もう少し考えてみたいのは「不意の宿泊」だ。それは、時間を忘れるほどに勉強に没頭していて、あるいは語らうことに夢中で、(終電/終バスを逃して)家に帰れなくなるような場合の宿泊だ。提出期限に間に合わなくて、やむを得ず「残留」するのとはちがう。あるいは、泊まりで向き合わないと課題が終わらないような切迫した状況でもない。
知的な没入が、ふだんの時間感覚を揺さぶり、160年前の書生のような暮らしへと誘うとき。ときめくような会話をとおして、時計とカレンダーで窮屈になっているじぶんに気づいたとき。そんなときこそ、木立を抜けて「滞在棟」に向かうのだ。
(つづく)