まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

フーカットで考えた。(5)

Day 5: 2017年3月13日(月)

早くも最終日になった*1。きょうは遅めのスタートで、朝食のあと、スアンくんの家を訪ねた。本が出たことを、とても喜んでいるようすで、ちょっと誇らしげな表情だった。15日には、ホーチミンでも出版記念のイベントがある。みんなで本に寄せ書きをして彼に渡し、記念撮影をする。

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そのあとに、もう一軒。あっという間だったが、今回の滞在中に10軒の家庭訪問をしたことになる。加藤研ですすめているフィールドワークでは、まちに暮らす人びとを訪ねて、だいたい90分から2時間ほどのインタビューをおこなう。そして、翌朝までに、その成果をまとめる作業に入る。今回は、おなじくらいのボリュームのインタビューを、一日に3軒程度こなしているので、なかなかハードだ。とくに、通訳をしながらかかわってくれたマックスは、相当なエネルギーをつかったにちがいない。心から感謝したい。ありがとう。

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このあと、プログラムに参加している学生たちは、それぞれの家で見聞きしたことをまとめることになる。どのような成果物ができあがるのか(期待されているのか)、ぼくにはわからないが、これほどに密度の濃いフィールドワークに参加できるのはとても贅沢なことだ。フィールドノートを読み返しながら、一つひとつの〈ものがたり〉を、ていねいに綴ってほしいと思う。詳細な記述は、個別具体的な暮らしから、フーカットという地域、さらには枯葉剤のことへと、ぼくたちの洞察を促すはずだ。

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今回、ぼくはもっぱら〈外側〉からフィールドワークを眺めていた。だから、この5日間の記録では、それぞれの家で感じたこと、気づいたことにはほとんど触れていないが、とても勉強になった。“Dream Class”という試みのことはもちろんだが、フィールドワークのこと、そして「こたえ」のない問題について、想像力をかき立てられた。10年かけて培われてきた信頼関係のもとに、全体のプログラムが組み立てられていたので、不安を感じることはなかった。食欲も好奇心も、すこぶる快調だった。

フィールドワークは、たんに現場に行けばよいというものではない。そのことについても、あらためて考えさせられた。直接体験はもちろんだが、あとで、きちんとその体験をふり返ることこそが大切なのだ。そのとき必要になるのは、豊かな想像力だ。

スアンくんは、ベッドのなかで想像力を羽ばたかせ、ぼくたちよりも、はるか遠くへ出かけているにちがいない。きっと、まだ見ぬ〈世界〉をつねに想像するようにと、ぼくたちを激励しているのだ。🐸

 (おわり)

*1:EBAのプログラム自体は16日までだが、ぼくは、午後の飛行機でホーチミンに行き、深夜の便で東京に向かう予定。

フーカットで考えた。(4)

Day 4: 2017年3月12日(日)

日曜日の朝も、早起きではじまった。今朝は6:30ごろにホテルを出て、キャットリン地区(Cắt Trinh)に向かう。昨日の「教室」とくらべてみると、こちらの“Dream Class”(2012年10月に開校)は、はるかにリラックスした雰囲気に見えた。子どもたちは、絵を描いたり、本を読んだり、踊ったり、それぞれが気ままに過ごしているようだった。誰かがすすんで統率しているふうでもなく、バラバラでもなく。ずっと、楽しそうな声が聞こえていた。早いうちから気温が上がり、影と日向のコントラストも強くなった。

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今回のプロジェクトでは、スアンくんの本の出版記念イベントも、重要な位置を占めている。スアンくんは、ほとんどベッドから動くことができない。あるとき、チーさんが彼のちいさなノートを見て、物語が綴られている(イラストも描かれている)のを見つけたのだという。それをきっかけに、出版社をさがし、イラストに少し手を入れて準備をすすめ、ついにスアンくんの本が出版されることになったのだ。「教室」とは別の会議室には刷り上がったばかりの本が並び、壁には宣伝用のポスターが貼られた。きょうの“Dream Class”に合わせて、スアンくんも学校に来て、本の宣伝と販売をおこなうという趣向だ(ぼくも、本にサインをしてもらった!)。

ふたたびテレビ局のクルーの話になるが、やはり「彼ら」は、どうしてもドラマチックな「画」を撮りたいのだ。だが、きょうという一日が、感傷に満ちた「いいイベント」として描かれては困る。ぼくたちの多くは、そういう気持ちをいだいていたのではないかと思う。
象徴的だったのは、梅垣研の学生たちが、無遠慮なテレビのカメラマンに対して繊細に反応し、現場が干渉されることへの抵抗感を露わにしていた場面だ。たしかに、「彼ら」のふるまいは、身勝手に見えた。いちど大学生たちを教室から出して、子どもたちだけの「画」を撮ろうという場面さえあった(つまりは、不自然なカットだ)。もちろん、日本から来た大学生たちは、毎週顔を出しているわけではないが、この日は、大学生たちとともに「教室」がつくられるのが自然なかたちだったはずだ。
じつは、こうしたふるまいは、梅垣研の学生たちがこのプロジェクトの「成員」になっているという証でもある。プロデューサーやカメラマンの傍若無人さを腹立たしく思う。それは、これまでの経験をとおして、〈内側〉の視座を獲得したことの表れなのだ。

ぼくは、一歩下がって見ていた。じつは、昨日もきょうも、ぼくは“Dream Class”のようすを外から眺めてはいたものの、「教室」のなかには一歩も入らなかった。入ることができなかった、と言ったほうが正しいのかもしれない。それは、ぼくがまだ〈外側〉にいるということだ。プロジェクトの成り立ちや意義は、少しずつわかってきた。子どもたちの家庭のようすもじかに見ることができたので、フーカットでの暮らしも、そして、ハンディキャップをもった子どもたちのことも、身体で理解しはじめていた。だが、今回は「教室」のなかには入らないことにした。もちろん、テレビ局のカメラマンの乱暴さには閉口気味だったが、同時に、「教室」にいる子どもたちからすれば、ぼく自身もさほど変わらない存在のように思えたからだ。

そんな気持ちになったのは、ぼく自身が、じぶんなりに「教室」をあずかっている立場だということと無関係ではないだろう。べつに「教室」を聖域のように扱うつもりはない。実際に、じぶんがそれほどの「教室」をつくっているとは思っていない。だがそれでも、無遠慮に「教室」に踏み込まれたときの気持ちはわかる。少しナイーヴすぎるかもしれないが、今回は距離が必要だった。

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ランチのあとでひと休みしてから、ビーチ(bãi tắm cát hải)に出かけた。ぼくは、明日の飛行機でフーカットを発つことになっている。プログラムはまだつづくが、なんとなくひと区切りついた気分になっていた。今夜は、荷造りをしなければならない。細かくてきれいな砂の上を歩いているうちに、少しずつ潮が満ちてきた。🇻🇳

(つづく)

フーカットで考えた。(3)

Day 3: 2017年3月11日(土)

朝は、思っていたよりもずいぶん涼しい。きょうは、“Dream Class”を訪ねることになっていた。ホテルを6:00に出発して、キャッタン地区(Cắt Thành)を目指す。生徒たちは、早い時間から集まりはじめるとのことだ。クルマのなかで、バインミーをほおばる。1時間ほどの道のりだった。すでにこれまでのレポートで書いたように、とにかくすべてが「初対面」なので、まずは観察するしかない。

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“Dream Class”は、日曜日の学校を利用して開かれる。学校にかぎらず、すでに地域コミュニティにある集会所でも公園でも、場所さえ見つかれば、「教室」を開くことができる。それは、(あらたに施設をつくるというような大げさなことをしなくても)地域にある資源を、上手に「資産化」するやり方だ。(通常の学校は)日曜日は休みなのだから、あとは、空き時間を使うための段取りだけだ。机もイスも黒板も、すでにある。理屈は簡単だが、実際に1校目がスタートするまでに、着想から10年くらいかかったという。きょう訪れたのはその2校目で、開校してからまもなく半年という段階だ。

生徒たちは、すでに集まっていた。思っていたよりも規律正しい「教室」だというのが、最初の印象だ。生徒も先生も、淡いピンク色のポロシャツ(左胸と背中にはプリントしてある)を着ている。単純なことながら、お揃いのユニフォームは一体感を生む。みんなが揃ったところで校庭に出て、身体を動かす。ラジオ体操が「始業」の合図になるのと同じように、全員でウォーミングアップをするということなのだろう。

話を聞いてみると、この2校目の開設については多くの支援があったという。政治的な力学も、多少なりともはたらいていたようだ。もちろん、ボランティアの教員たちの想いや努力も無視することはできないだろう。だが、おそらくは、5年目を迎えている1校目(明日、訪問する予定)の実績や評判が理解者を増やし、この試みが広がってゆくのを後押ししているはずだ。その意味では、テレビ局に取材されることも大切だ。こうした試みは、後発のほうが早く環境が整うのかもしれない。
今朝ぼくが見た“Dream Class”は、かなりハイペースで進化しているようだ。ぼくは、この「教室」のようすを眺めながら、ちょっと心配になった。というのも、こうした試みは、地道に続けていくことが大切だからだ。不意に、ぼくたちが数年前に三宅島でひらいた「教室」のことを思い出す。あの「教室」は、もともと変則的なものではあったが、さまざまな事情で、2年間しか続けることができなかった。
“Dream Class”は、子どもたちのために、その「夢」のために、週に一回は、かならず開かれなければならない。老婆心というやつだろうか。(決して水を差すつもりはないが)あまりペースを上げて、がんばりすぎないほうがいいのではないか。そう思った。いろいろな決まり事をつくると、いずれ、それが制約に変わって、かえって動きを緩慢にすることがある。

ランチを終えてから、山間の集落を訪ねた。緑がとても鮮やかだ。朝の涼しさなど、すっかり忘れてしまうほどに暑い。12:46(日本時間の14:46)。田んぼに囲まれながら、日本のほうを向いて黙祷を捧げた。

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そのあとも、昨日、一昨日と同じように、界隈の家庭を訪問した。この3日で、すでに9つの家を訪ねたことになる。当然のことながら、一つひとつの家には個性がある。家の数だけ(人の数だけ)、ユニークな〈ものがたり〉がある。だがそれらを束ねてみると、ベトナム南部の田舎の暮らしのようすが、少しずつかたどられてくるように思える。きょうも太陽をたっぷり浴びて、たくさん汗をかいた。🇻🇳

(つづく)

フーカットで考えた。(2)

Day 2: 2017年3月10日(金)

フーカットで目ざめる。7:30ごろにホテルを出て、朝ごはん。ごくふつうの目玉焼きでも、パクチーをのせて甘口の醤油をかけるとベトナムふうになるのだと、勝手にわかった気になる。添えられるバケットは、ちょうどいい大きさと堅さで、たくさん食べた。

まずは、午前中に一軒。昨日に続いて、家庭を訪問する。鉢植え(大きな盆栽)、犬小屋、オートバイ修理の部品や工具。道路に面したアプローチから、部屋のなかに入るまで、じつにたくさんのモノが、〈ここ〉での暮らしをかたどっている。昨日とは、ずいぶんちがう赴きだった。

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インタビューが終わってホテルに戻ると、テレビ局の取材チームが待っていた。2012年の秋にはじまった“Dream Class”の取り組みを対象にした、ドキュメンタリーを撮りたいのだという。マスメディアに注目されるのは悪いことではないが、プロジェクトの主旨や活動内容を「正しく」伝えてもらわなくては困る。ぼくは、梅垣さんとチーさんが、プロデューサーやカメラマンと話をしているのを傍らで聞いていた。不思議なもので、ベトナム語は全然わからないにもかかわらず、どのような会話なのかはなんとなくわかる。
ぼくが、フィールドワークの取材を受けるときにも、ストレスを感じる場面があるが、おそらく似たような状況なのだろう。多くの場合、「彼ら」は、あらかじめ撮りたい「画」を思い描いて取材にやって来る。そして、欲しい「画」のためには、いささか乱暴な要求をすることもある。なにより、大げさな機材をかついで出入りすることになるので、現場の雰囲気は、ふだんと大きく変わってしまう。だから、あらかじめこちら側のねらいをしつこく伝えつつも、「彼ら」を受け容れる。実際にどうなるかはわからないが、うまい案配で取材がおこなわれることを願う。

ランチのあと、午後は、さらに2つの家を訪ねて話を聞いた。テレビ局のクルマは、ぼくたちのクルマを追うように、あるいは先回りするように動きはじめた。

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ところで、今回のフィールドワークの面白さは、(加藤研ではなく)梅垣研の学生たちのふるまいを観察できるという点だ。いつもは、まずは事前の準備や調整で忙しい。フィールドワークがはじまれば、中心的に動くのは学生たちなので、いくらか楽な気分になるが、それでもプログラムの担当者であり責任者であるという立場なので、つねに緊張がともなう。〈ここ〉での無責任な立場は、じつは特別だ。「学生」は、どこでも似たようなものだな、と(加藤研の面々を思い浮かべながら)ちょっと安心したり、あるいは梅垣研の「文化」ともいうべき暗黙の了解や、やりとりに感心したりする。ついあれこれ言いたくなってしまうのを、なんとか飲み込む。今回のフィールドワークで、ぼくは、一番の「よそ者」なのだ。

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フィールドワークの現場は、事件(ハプニング)に満ちている。事前の思惑や期待が裏切られることは、少なくない。だから、ぼくたちの即興的な判断によって、目の前に現れる不都合や不具合に、そのたびごとに向き合わなければならない。つまり、みんなで「なんとかする」という精神が求められるのだ。これは、(どうせ思うようにすすまないのだから)事前の準備や調整が不要だということではない。むしろ、準備や調整をていねいにすすめていればこそ、裏切られること、予期せぬことに上手く向き合えるようになる。そして、状況しだいでは、計画を変更したり中断したりという判断も求められる。
これは、あらかじめ撮りたいと決めていた「画」に執着するのとは、本質的にちがう。現場は、人びととのかかわりのなかでつくられてゆくものであって、絵コンテやシナリオで動いているわけではないと考えているからだ。すでに頭のなかにある「画」を撮りに行くのではなく、いわば「無防備」で現場に出かけて、身体で感じたことを頭のなかに送り込む。それが、あとから「画」や「ことば」になる。🇻🇳

(つづく)

フーカットで考えた。(1)

Day 1: 2017年3月9日(木)

縁あって、「EBAプログラム」のフィールドワークに参加することになった。ホーチミンで国内線に乗り継いで、フーカット(Phù Cát)に向かう。

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ベトナム戦争中に枯葉剤(Agent Orange)が散布されたことは、もちろん「出来事」としては(ごく常識的なレベルで)知っている。枯葉剤は、その後も数十年にわたって、森林や田畑に、そして人びとの身体にも影響をあたえ続けている。つまりは、人びとの心の奥にまでおよんでいるということだ。(付け焼き刃ではあるが)日本を発つ前に『花はどこへいった』『沈黙の春を生きて』というドキュメンタリーの映像を見た。いささかならず、重い気持ちになる。

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すでに到着していた学生たち(大部分が梅垣研)と合流してランチを食べて、午後は3つの家を訪問した。一つひとつの家庭には、それぞれの事情がある。もちろん、子どもたちの症状も多様だ。映像に感情を揺さぶられることはたびたびあるが、やはり、現場の体験にはかなわない。なにより、ぼくにとっては、すべてが「初対面」なのだ。いっぽう、梅垣さんもチーさんも、そして大部分の学生たちも、フーカットで「再会」を果たしていた。「大きくなった」「前より元気そうだ」などと、再訪の場面ならではのことばとともに、旧交を温めているようすだった。わずかに話を聞いただけだが、この数年間でずいぶん社交的になったり、実際に家の外に出るようになったりと、時間をかけて向き合っているからこそ見えてくる、変化(の兆し)があることはまちがいないようだ。ぼくが、こうして無防備にフィールドワークに随行できるのは、時間をかけて、ていねいに信頼関係がつくられてきたからだ。その難しさをいつも感じているだけに、ずっと頭が下がる想いで過ごしていた。

このプロジェクトが向き合っているのは、おそらくは「こたえ」のない問題だ。言うまでもなく、原因がわかることと、治ることはちがうからだ。ぼくたちの身の回りにも、「こたえ」が見つからない(かもしれない)問題はたくさんある。現場の状況は、あまりにも複雑すぎて、明解な「処方箋」などないかもしれない。だからこそ、まっすぐに向き合って、その「こたえ」のない問題(あるいは簡単に「こたえ」が見つからない問題)とともに暮らしてゆくという道筋を選ばざるをえないのだ。知恵を集めれば、少しでも痛みや哀しみが和らぐかもしれない。それを願うばかりだ。
この日の晩のミーティングで、意味じくも、梅垣さんがことばにした。じぶんは「終わらない(終わらせることのできない)プロジェクトをはじめてしまった」のだと。だから、今回の旅は、その大いなる時間の流れのなかの、わずかな一瞬でしかない。まだ、怖くて踏み込むことができないが、ガイドブックには載ることのない、〈ここ〉の暮らしにじかに触れた。

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では、なぜ、これほどの執拗さをもって、このプロジェクトに向き合うことができるのだろうか。ぼくたちは、調査プロジェクトの話になると、その「理論的な背景」や「社会的な意義」について問うこと、問われることが多い。いかにも紋切り型の質問なのだが、それでも、理論による裏づけや成果の「公共性」については、きちんと考えておくべきだと感じているはずだ。プロジェクトを支援してもらうためには、(それなりに)「期待される成果」について語る必要もある。だが、そう言いながらも、結局のところは、理屈では説明できないある種の「違和感」のようなものが、前へとすすむ原動力になっているのではないか。

たとえば、20代のころにベトナム戦争という「出来事」に遭遇していたとしたら。その当時、アメリカで暮らしていたとしたら。それはきっと、鮮烈な記憶とともに、自らのふるまいや態度に大きな影響をあたえているはずだ。そんなことを考えると、今さらながら、なぜこのプロジェクトが生まれ、〈ここ〉で芽吹こうとしているのか、妙に合点がいく。研究者がひとりの人間である以上、ことばにはできない「何か」に突き動かされているのだ。🇻🇳

(つづく)

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