まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

COVID-19と展覧会

この文章は「かんガエル。」にも載せています。→ https://kangaeru.iincho.life/entry/2021/03/24

成果をまちに還す

年度末には、1年間の活動を紹介するちいさな展覧会を開いている。もともとのきっかけは、2003年にさかのぼる。学生からの情報で、デザインや建築系の学生有志が「卒業制作展」を企画していることを知った。個人でのエントリーがほとんどだったようだが、「研究会」として(つまりグループとして)出展を申し込むことにした。横浜の赤レンガ倉庫が会場で、とても楽しい時間を過ごすことができた。当然のことながら、教員として仕事をしていてもすべての学生と接するわけではないので、こうした機会があると、いろいろな出会いがある。
なにより、学生が主体となって企画や渉外、広報にいたるまでがんばっているようすは、それだけでいい刺激になった。美術系・芸術系の大学であれば、学部や大学が「展覧会」(いわゆる「卒展」)を学事日程に位置づけていることも少なくない。カリキュラムに組み込まれていたり、資金面でのサポートがあったり、展示をつくること自体を教育の一環として、実践している場合もあるはずだ。

ウチの場合は、そういうわけでもなく、「言い出しっぺ」になる学生がいるとグループが組織化されてイベントが実現する。上手に引き継がれると恒例のイベントとして定着してゆくのだが、いつでもそうなるとはかぎらない(どちらかというと、続かずに消えるパターンが多いように見える)。なんとなく予想はしていたのだが、つぎの年は、その企画についての話題がなかなか聞こえてこなかった。ならば、じぶんたちでギャラリーを借りて展覧会を開けばいい。そう思ってはじまったのが「フィールドワーク展」である。2005年2月に展覧会を開いてから、以来、会場を変えながらも毎年続けてきた。今回は、17回目の開催だ。*1

f:id:who-me:20200206165534j:plain【2020年2月|フィールドワーク展XVI:むずむず】去年は、リアルな空間で展示を見ながら語らっていた。(恵比寿, 弘重ギャラリーにてhttps://vanotica.net/fw1016/

ぼくたちの調査研究は、フィールドワークやインタビューといった方法を使いながらすすめることが多いので、当然のことながらキャンパスの「外」との接点が生まれる。まちに暮らす人びとと出会い、信頼関係をつくるところからはじめて、良好な関係を築くことができると、調査が終わってもそのつき合いは続く。そう理解すると、調査研究の成果は、大学に留めておくわけにはいかない。「外」で成果を発表するのは、お世話になった人びとへ感謝の気持ちを伝えるためでもある。まちなかのギャラリーを借りて開催すれば、通りすがりの人に見てもらうこともできる。また、学生の調査研究の成果であっても、教員であるぼくが唯一の評価者である必要はない。そもそも「正解」のない題材をあつかっているのだから、多くの目で眺め、いくつもの声でふり返ったり語ったりすることが重要なのだ。
「フィールドワーク展」は、何年か続けているうちに、1年間のリズムを刻むイベントとして欠かせないものになった。年が明けて、学期末の試験やレポートの提出が終わるころに展覧会が開かれる。慌ただしく過ごすことになるが、設営、展示を経て撤収まで済ませると、ようやく1年が終わって節目が来るような、そんな感じだ。毎年、ほぼ同じ時期に開催するので、卒業生たちが展示の会場を訪ねて来るようになった。ちょっとした「同窓会」のようなもので、ぼくにとっては、年に一度、お互いの近況を知る機会になっている。また、最初はまったく想像していなかったのだが、「外」で開催することで、学生たちの家族も展示に足をはこんでくれることがわかった。たしかに、キャンパスで報告会を開いていたら、教員と学生だけの「閉じた」集まりになってしまう。その意味でも、まちにひらくこと、まちに還すことの大切さを実感している。

 

展示とコミュニケーション

ところで、「展示」にはいろいろなやり方がある。これまで「フィールドワーク展」というタイトルで続けてきたが、回を重ねるごとに、ぼくたちにとってどのような展覧会が望ましいのかがはっきりしてきた。
たとえば、ぼくたちが美術館や博物館を訪れるとき、多くの場合、企画の説明パネルを読み、あらかじめ決められた「順路」にしたがって、一つひとつの作品と向き合う。作品のそばにはキャプションのパネルがあるので、補足的な情報をえることができる。ガイドツアーで巡ったり、音声ガイドを聞きながら会場を歩いたりすることもある。いずれにせよ、ぼくたちが出かける「展示」では、会場で作者本人に出会うことはあまりない(トークショーが企画されたり、運が良ければ在廊中の作者とことばを交わすことはある)。
そもそも、作者が同時代を生きているとはかぎらないのだが、展覧会では、時代や場所を超えて、作品を介して作者と出会うことができる。それが、「展示」の価値なのだろう。実際に、ぼくたちは、展示の会場に足をはこぶことで、多くの「巨匠」たちに出会ってきたのだ。

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【2019年2月|フィールドワーク展XV:ドリップ】(渋谷, LE DECOにてhttps://vanotica.net/fw1015/

展覧会では、作品をとおして作者の考えを知る。完成にいたるまでの試行錯誤の過程を想像しながら作品と向き合う。作者の世界観や時代精神などに触れ、ちいさな旅に誘われるような気分になる。「フィールドワーク展」で展示されるのは、個人やグループですすめられたフィールドワークの成果だ。言うまでもなく、フィールドワークは一回性の〈現場〉によって成り立っている。つまり、その〈現場〉を直接体験として理解しているのは、調査者のみだ。それ以外の来場者たちは、個別具体的なフィールドワークの「ものがたり」を間接的に知ることしかできない。だからこそ、フィールド調査では、目の前の〈モノ・コト〉をつぶさに観察、記録して、詳細に記述することが重要になる。調査を終えると、写真やフィールドノートをもとに〈現場〉の復原を試みながら、文章を書いたり、図解や地図、表などで表現したりする。ゼミの活動の一環としておこなうフィールドワークは、数か月から1年近くにおよぶ場合もある。

「フィールドワーク展」では、さまざまな工夫をしながら、フィールドワークで体験したことをコンパクトにまとめて展示する。そのために、じぶんで集めたデータを取捨選択し、編集・加工するセンスと能力が問われることになる。成果は、パネルや冊子、動画、模型などになって、会場に陳列される。
じつは、重要なのはその先である。ぼくたちの展示は、その場で来場者のかたがたと話をすることで成立しているからである。フィールドワークの体験は、どれほど緻密にデータを編集しても、「見ればわかる」ほど単純ではない。調査者の意味づけや解釈は、誰かに語ることによって、逐次書き換えられてゆく。複雑な現場であれば、ぼくたちの理解はコミュニケーションとともに移ろう。それがフィールドワークの本質であり、展示すべき内容だと言えるだろう。
もちろん、いろいろな考え方があると思うが、ぼくたちの展示は、作者と作品をできるかぎり切り離さないという姿勢で設計される。それは、複雑な〈現場〉の理解が、コミュニケーションのなかで逐次創造されると考えているからである。その意味では、フィールドワークの成果は、いつ完成するのかわからない。だから、「加藤研の展覧会」は、一般的なイメージとはちがうのかもしれない。

 

オンラインで展示する

この1年は、COVID-19の影響を受けながら窮屈な毎日を強いられた。「外」に出ることが許されない状況で、フィールドワークもインタビューも、あたりまえのことではなくなった。先行きが不透明ではあるものの、なんとか「フィールドワーク展」はリアルな空間で開催したいと思っていたので、そのつもりで会場の予約をした。2015〜2017年度にかけて使ったことのあるギャラリーだ。それなりの広さがあるから、レイアウトや「順路」を工夫できそうだ。可能なかぎり「密」を避けるように、事前予約制にして人数を制限しよう。学生たちは「コロナ対策班」を編成して、あれこれと考えはじめていた。

展覧会をつくるさいには、会期中だけではなく準備や設営、そして撤収にいたるまで、密接なコミュニケーションが必要になる。秋口まで、ほとんど会う機会がなかった学生たちは、うれしさ(これまでのストレス)も手伝ってか、すぐに近づこうとする。これは、秋学期の授業をキャンパスで開講したときに、間近に見て実感したことだ。気持ちはわかるが、準備や設営のさいに、何かあっては困る。
年末に向けて、報告される感染者数が日ごとに増えていった。オンライン開催の可能性も考えつつ、それでも対面で開催するつもりで準備をすすめていた。会期は2021年2月5日から7日までの3日間で、年末には展覧会のウェブを公開した。予約用のフォームへのリンクも掲載した。

1月7日、2度目の緊急事態宣言が発出された。それに伴って、大学としての「活動指針」も書き換えられた。大学生にとって、年度末の成果報告の機会が「不要不急」なはずはないのだが、なにより、ぼくたちが予定していた展示の会期だと、緊急事態宣言が解除されていないことになる(緊急事態宣言は、その後、さらに2週間延長された)。あれこれと可能性を考えてみたが、やはりムリをしてギャラリーで開催するのはやめようと思った。そもそも、この状況では、あまり気乗りしないだろう。準備をするぼくたちもそうだが、わざわざ会場まで足をはこんでもらうのも気が引ける。
今年はオンラインで開催するしかないのだろうか。対面での実施をあきらめようと思いながらも、オンラインで展覧会を開くことには抵抗があった。というのも、すでに述べたとおり、ぼくたちの展示はコミュニケーションのなかでつくられるからだ。「見ればわかる」ような成果のまとめ方ではない。ライブ配信や遠隔会議のようなやり方だと、どうしても一方的に情報を「伝達」するような仕立てになってしまいがちだ。そもそも、タイル状に顔が並んでいる画面は、息苦しい。それは、まさにパノプティコン(一望監視装置)の風景であって、作品を見ながらギャラリーを回遊する感覚とはまったくちがう。また、画面でスライドや動画が表示されると、ぼくたちは集中して作品(発表)を見つめることを余儀なくされる。
もっと、のびやかなオンラインの時間をつくることはできないのだろうか。オンラインで実施するにせよ、どうすればよいのかわからずにいた。

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そんなとき、同僚からGather.townを紹介してもらった。どうやら、すでに学会のポスター発表などで使われているらしい。しばらく前の世代のゲーム画面のようだが(ぼくにとっては、むしろ、このほうが親しみがある)、ちいさなアバターで、画面のなかを動き回ることができる。平たいディスプレイであることには変わりないが、これはコミュニケーションをよく考えたシステムのように見えた。直感的に、これは「使える」と思った。

毎年、中心になるのは学部の「卒プロ」の成果を発表する4年生たちだ。1月16日、4年生たちとミーティングをして、今年の「フィールドワーク展」はオンラインで開催することに決めた。 会期まで、3週間弱である。そこからGather.townのなかに、展覧会の会場をつくることになった。オンラインの空間なので、かなり自由ではあるが、実際に使い方を覚えながら「フィールドワーク展」の会場づくりをはじめた。ちょうど1月中旬から2月にかけて、Gather.town自体も少しずつバージョンアップがすすんでいて、途中で仕様が変更されることもあった。

 

4年生の「卒プロ」の展示、グループワーク、そして全員ですすめたフィールドワークなど、1年間の活動の成果として、それなりにコンテンツは充実している。日ごとに会場のレイアウトに変更をくわえ、さらに、利用のための(操作ガイドの)ビデオをつくったり、物販のサイトをつくったり、少しずつ賑やかになっていった。梱包や搬出、搬入、設営といった作業がないので、いつもと勝手がちがう。オンラインでの開催を決断したときは、ずいぶん落ち込んだが、会場が彩られてゆくのを見て、少しずつ前向きな気持ちになった。前日には無事に会場が整って、みんなで記念撮影をした。

そして、無事に「フィールドワーク展XVII:つきみててん」がはじまった。初のオンライン開催である。初日の朝から人が集まって、最初は戸惑いながらも、会場のなかを歩き回るようになった。ディスプレイで会場全体のようすを俯瞰できるのは、オンラインならではの不思議な感覚だ。Gather.townは、とてもよくできている。複雑な動きはできないが、アバターを操作しながら会場を徘徊するのは、思っていた以上にじぶんの身体とつながっている感覚だった。画面のなかで誰かに近づけば、ビデオは鮮明になり、声もはっきりと聞こえるようになる。離れるとビデオは半透明になって、声も遠くなる。微妙な距離にいれば、近くにいる人の会話もなんとなく聞こえてきた。
会場には、コミュニケーションの身体感覚があった。結果としては、とてもいい展覧会になった。3日間で280名ほどの人が、展示を見に来てくれた。ぼくたちが理想とする、会場でのコミュニケーションがある程度は再現された。ゆっくりと、話をしながら会場を案内することができた。

もうひとつ、さほど考えていなかったのは、撤収がいらないことだ。一部のリンクなどは、必要に応じて会期後に削除しているが、展覧会の会場は、展示物とともにオンライン空間に残っている。いま訪れると、ちょっとした“ゴーストタウン感”もあるのだが、あたらしいアーカイブのありかたを示唆しているのかもしれない。展示の概要をまとめたカタログでもウェブでもなく、会場が(ほぼ)そのまま残っている。誰もいない会場を動き回っていると、場所に結びつけられた記憶がよみがえってくる。

*1:これまでの「フィールドワーク展」一覧 https://fklab.today/exhibition