まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

「模写」を通した作者と鑑賞者との対話

(2021年8月7日)この文章は、2021年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

堤 飛鳥

背景

「私が表現したい世界を、どうすれば表現することができるようになるのか知りたい」という想いから、私の卒プロは始まった。絵を描く、表現すると一言で言っても、様々な捉え方ができる。その中でも私は、「頭の中でふと思いついた」「目の前のものが全く別のものに見えた」など偶然的に生まれたものが、ある種必然性を持って生まれてくるプロセスの中身やその背景について知りたいと考えた。では、どうすればその文脈に近づくことができるのか。絵を描く行為の場合、作者の思考が絵となって現れてくるわけだが、その背景や意図は、描いてる本人ですらわからないこともある。何より、描いている際には、それ自体に夢中になっており無自覚なことも多い。そのため、描く行為の前後の中で、描いている際の背後にある想像の世界にどう近づくかが重要になる。その方法を探るために、大学4年生の2月〜6月にかけて、大きく3つのプロジェクトに取り組んだ。その中で、今回は「模写」ということにフォーカスし、ふりかえりっていこうと思う。その他フィールドワーク/背景/研究概要/など、試行錯誤のプロセスについては以下のページにてより詳しく書いている。
medium log,vol03 「卒プロ1をふりかえる

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毎日のスケッチ(フィールドワーク)

フィールドワークのひとつとして、毎日、マグカップや本など身の回りのものを1つスケッチするプロジェクトを実施した。そしてそこに、描く中での気づきや考えていたことを書き、友人(卒プロ協力者)に送るというルールを設けた。これは単に絵が上手くなること自体が目的なのではなく、技術の獲得や気づきの言語化によって、自身の着眼点を広げることが目的である。1ヶ月スケッチを続けるなかで、自分の中で視覚情報と想像との割合に変化しているのではないかと考えるようになった。当初は、見たまま全てを再現しなければという考えから、スケッチの中での視覚情報に依存する割合がほとんどを占めていた。しかし、

10日ほど経つと、目の前のものが「軸の構造」に見えた。まるで棒人間を見ているような感覚であり、ふとデザインっぽいなと感じた。それをもとに、自分のデザインの感覚に沿って描くと、案外上手く描くことができた。自身の中にその感覚が芽生えたことで、想像の割合が少しずつ大きくなっていった。見たまま全てを描こうとするのではなく、線を選択したり、あえて線を減らしたり影を強調したりすることで、よりリアルに描ける感覚を体感した。目の前のものと頭の中の想像とのギャップをどう表現するか毎日言語化しながら試行錯誤することで、私自身の着眼点に自覚的になっていった。

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「模写」との出会い

毎日のスケッチの中で起きた出来事をひとつ紹介する。3週間ほど経ったある日、私が描いたスケッチに即発され、協力者がスカートを履いた女の子の絵を描いて送ってきてくれた。せっかくの機会だからと考えた私は、次の日、その絵を模写して協力者に送った。この時、相手が非常に面白い反応を示した。「人に始めて自分の絵を模写された。絵って無意識に自分のフェチや癖が出ているから、それが暴かれたようですごくムズ恥な気持ちになった。爪を噛む癖を言い当てられるみたいな感覚に近い。」まず感じたことが、絵を模写されるという行為が相手にとって嬉しい行為であるという驚きだ。これまで取り組んできた模写の中では、私自身勝手に人の作品を模倣することで、楽しい反面どこか後ろめたさがあったからだ。そして何より、協力者が、模写によって自分の絵を1本1本まで吟味されることが自分にとって1番の無意識の発見になりそうと言ってくれたことが強く心に残った。協力者の絵を模写しながら勝手に想像していた相手の世界に対して、相手が見抜かれたと感じてくれたことへ私自身嬉しさを感じた。そこから、模写の可能性について考えていった。

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フィールドワークをふりかえる

卒プロを通して、目指していた「描く」行為の背景を少しずつ自覚していくようになり、自分の中での「描く」ことの意味も少しずつ変化していったようにふりかえって感じている。しかし、やはりどこか腑に落ちない感覚があり、このまま続けていてもいいのかという悩みが残った。フィールドワーク自体は確かに面白く、知りたいことの一部にはアプローチできていると感じていたが、どこかモヤモヤしていた。それが何かと考えると、スケッチや模写では、目の前のものや景色に対して想像力を働かせ、線や色や描く対象を選択し描く。このことは理解できるのだが、一方でドローイングでは、頭の中のぼんやりとした想像やうちなる衝動に対して想像力を働かせているわけであり、この感覚がわからない。これこそ私が卒プロを通して知りたかったことの根底にあるのだと思い出し、概念的な部分からも整理することにした。

ドローイング行為の中身を考える上で、現象学の「状況依存性」という考え方を用いることにした。これは、身体知とは動作(絵を描く、運転をするなど)はマニュアル式に引き出されている(こういう状況の時はこうすればいいなど)わけではなく、その場の状況に応じて何かを見出し、動的に発揮されるというものだ。例えば野球のバッティングを想像すると、同じコースに同じ球が投げられてきた時、決まった形でスイングすれば必ず打てるというわけではなく、その都度打つためにスイングを生み出しているというようにだ。この考え方をもとに、スケッチ/模写とドローイング行為について、私なりに解釈しようと試みた。

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ドローイング行為が腑に落ちる

私たちは絵を鑑賞する際、全体を見て一部を意味づけする。例えば、これは女性の絵だからこういうことを表現するためにこの線を描いた、色を選んだ、といった具合にだ。しかし、しなやかな曲線は女性を思わせる要素ではあるが、髪型や服装で性は決まらないように、線やリズム、空気で、そこに性別を断定する必要はない。つまり、そこに描かれている絵は「女性」ではなく、「しなやかな曲線を持った人」と捉えることができるだろう。友人や好きなアーティストが描いた絵を思い出してみる。写実的な絵や抽象的な絵、また落書きなどどんな絵を描いていても、あるいは初めて見た絵であった絵だとしても、この人が描いたなとなんとなくわかることがある。この理由はまさに、先述のような「〇〇な要素を持った線」によるものだと思う。誰しもがこれを持っていて、その視点で世界を見ているのだと私は考えた。そして「模写」という行為は、必死に再現しようと目の前の絵を線1本1本の単位で分解し捉え直す。絵を観察して、細部を捉え、想像を巡らせ。それを自分なりに解釈して、紙の上に想像し直す行為だ。紙やペンは違い、技術力も異なる。だからこそ、作者の世界を解釈し、翻訳しようと試みる。つまりこれは一部を見て全体を意味づけする行為であり、全く新たな絵の鑑賞法であるのだと考えた。線を捉え、自分の手で身体的に想像を巡らすことで作者の表現の背後にある感情や内なる衝動を追体験するのかもしれない。「模写」という行為は、作者と鑑賞者との新たなコミュニケーションの方法なのではないかと卒プロを通して改めて考えるようになった。

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そしてこの、「一部の要素」の考え方と「状況依存性」の考え方を組み合わせることにした。私たちは、目の前の状況に応じて動作(行為)が生まれるのと同じように、頭の中の世界、身体感覚、内なる衝動に対して、自分の世界の見方(要素を持った線など)を動的に反応させている。その応答表現の結果として、絵が外的に表象化されているのではないのだろうか。つまり、ドローイングの行為も、スケッチや運転、バッティングの行為と同様の現象として「身体知」を考えることができるのではないだろうか。その瞬間、これまで全くの別物だと考えていたスケッチとドローイングとを同じように捉えることができるのではないかと腑に落ちたのだのだった。これまでの模写の課題、フィールドワーク、スケッチを通して劣等感と呼び背後に抱えていた何かが少し和らいだ瞬間だった。

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卒プロ2へ向かう

ドローイングの身体感覚が言葉的にはわかった。今度は、身体的にその感覚を模索していくことになるだろう。卒プロ2では、もう少し「模写」の可能性を探求していきたい。私にとって「模写」は、作者(描き手)の「とある要素を持った〇〇の視点」から見ている作者の世界を想像する行為であると考える。線1本1本に着目し、自身の身体を通して作品を鑑賞することで、作者との対話を試みる。模写をしている際、線を必死に見ているため何を描いているのかわからない感覚に陥る。しかし同時になんとなく描いている感覚は伝わってくるのだ。もちろん、百発百中で相手の癖やフェチを見抜けるわけではない。だからこそ、協力者らの絵をひたすら模写し、想像を綴り、相手に返すことで、彼らは不意に癖や無意識の想像を見抜かれた感覚に陥るかもしれない。100枚に1枚でもいい、もしその瞬間に出会うことができたとしたら、より解像度高く彼らの見ている世界に近づくことができるのではないだろうか。それによって、なぜ彼らの作品に私が魅かれるのか、より解像度高く語ることができるようになるだろう。そうすることで、最終的な目標にある、自分の表現したい世界への解像度が高まるのではないかと考える。これからも、私は絵を描き続ける、ふりをする。

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