まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

まわりみち

(2021年8月7日)この文章は、2021年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

中田 早紀

効率を求めてしまう私

突然だが、今から私の学生生活を少し振り返ってみようと思う。

苦しかった大学受験をなんとか乗り越え、ずっと憧れ続けていた大学に入学した私。大学1年生の春学期はとにかく興味のある授業を片っ端から取り、憧れの大学生活に心を躍らせていた。しかし秋学期に入ると、自宅からキャンパスまでが遠いこともあって、1限の授業を避けるようになった。2年生に上がると、自分の中で次第にインターンシップの比重が大きくなっていき、できるだけ自由な時間を増やすために、興味のある分野であっても課題提出が大変な授業は避け、興味はなくても課題が易しい、いわゆる楽単と呼ばれる授業を取ることが増えた。それに伴い成績に関しても、SABCDという評価のうち、「まあB取れればいいか」と最低限のラインを超えられれば問題ないという姿勢へと変化していった。3年生になって新型コロナウィルスの影響によりオンライン授業が導入されてからは、これまでの移動時間にとらわれることなく興味のある授業を存分に取ることができるようになり、ようやく少しずつ入学した当初の前のめりの姿勢で授業や課題に臨む自分が戻ってきたように思える。しかし、進級/卒業に必要な条件以上の授業は取らないところを見ると、できるだけ最短の道で/最小のエネルギーでゴールへと向かおうとする姿勢は、知らぬ間に自身に根付いてしまっていたのかもしれない。その原因は、先輩や友人たちに自然と同調していったこと、そもそも私自身が昔から周囲からの目線を気にし、その中で「効率の良さ」を評価されてきたこともあるだろう。 

効率を求めざるを得ない社会

しかし、効率を求めすぎてしまうのはどうやら私だけではないようだ。ここで、少し視線を社会に向けてみよう。最近、ドラマや映画を倍速視聴する、あるいは10秒スキップで主要シーン以外は飛ばして観る人が続出しているという。近年では動画配信サービスなどの発展によってあらゆるコンテンツがスマホ一つで手軽に観られるようになり、スマホの中には多くのコンテンツとSNSを介して得られる情報が溢れる、まさに供給過多の状況となっている。そんな中で、私たちはコンテンツをじっくり味わい「鑑賞」することから、忙しい中でどれだけ多くのコンテンツを「消費」できるかへと重点が変化していったように思える。つまり、短い時間で多くのコンテンツを視聴する(内容を把握する)、いわゆるコストパフォーマンス(以下、コスパ)を求める人々が増えていると感じる。さらに、そんな世の中のニーズに応えようと、各動画配信サービスでは再生速度変更機能が続々と搭載されたり、また作品の作り手も「5分でわかるドラマ○話」というような約50分の作品を10分の1にまとめ、動画配信サービス上にアップしたりという動きが広まっている。それによって、コスパを求める人々はますます増える同時に、その姿勢/欲求をさらに加速させているように私は感じている。

効率化の影に潜む危機

果たして、このような動きは私たちにとって幸せなことなのであろうか。たしかに、世の中が便利になれば、私たちはより手軽に物や情報を手に入れることができ、その中でコスパが上がれば上がるほど、自由に使える「時間」を獲得することができる。しかし、最短・最小のエネルギーで結果を得ようとする分、私たちはその道の途中で何か大切なものを置き去りにしてしまっているのではないか、と私は危機感を覚える。先ほどの例で言うと、主要シーン以外を”意味のないもの”だと切り捨て、飛ばしてしまう人たちは、セリフ以外の会話の間や目線の動き、何か物を映したカットなど、物語やその登場人物の人柄を十分に味わえる要素、そしてそこから発せられる作り手からのメッセージに気づくことができない。またその切り捨てる行為は、それらの可能性を奪うと同時に、私たちの「想像力」を衰えさせ、さらに日常生活にも影響を及ぼし始める。例えば、人とのコミュニケーションの中で相手の立場になって気持ちを想像できなくなることや、人柄を出会った瞬間の数秒の印象や学歴などの表面的なもので捉え、ありきたりな一言でそれぞれの魅力や個性を語ってしまうことが生じる。また、そのベクトルを他者ではなく自分に向けても同様のことが言え、自分自身と向き合う時間/その過程を省略してしまい、自身の魅力や抱えている本当の思いに気づけなかったり、日常生活での自らの姿勢を振り返ることをせず、結果的に自分の身になる時間を過ごせなかったりということに繋がってくる。

今回は、コンテンツ消費についての例をあげたが、このプロセスをできるだけ省き、結果だけをすぐに求めようとする効率主義/コスパ思考は、これに限ったことではなく、今や社会全体のあらゆる場面で見られる。もちろんそれは若者だけでなく、現代を生きる人々皆に直面している問題であり、改めてその姿勢について問い直す必要があると私は感じている。

問題意識と向き合うまでの道のり

私は卒業プロジェクトにおいて、この問題について追求していく。しかし、このように自身の問題意識を他者へと語れるようになるまでには、非常に時間がかかった。というのも、前述したように私自身も効率的に物事を進めることに専念し、これまで自身と向き合う時間を十分に取ってこなかったということもあって、一体どんなことに関心があり、どんなことを問題に感じているのかを自分自身も理解できていなかった。この春学期では、いろいろな方法を試しながら時間をかけて自身が抱える問題意識を言語化していった。

そもそも私は、就職活動を通して、「リーダーシップ」などありきたりな一言で自分の魅力や個性を表現し、その点を他者から評価されるということに非常に違和感を抱いていた。その一方で、私自身も自己・他者含めそれぞれの魅力や個性をうまく言葉で表現できないことにもどかしさを感じていた。そこでまずは実験的に、いつ・どんなときに自分は魅力を感じるのか、自らの感性と向き合うためにドラマを複数本視聴し、自身が魅力的だと感じるシーンを書き出し、その要因は何か分析を行った。ここでドラマを選んだ理由としては、視聴者と共に毎週話を展開していく上で他のコンテンツよりも詳細に人柄や他者との関係性が描かれていること、コロナ禍でも実験を行いやすいことなどが挙げられる。この試みを行う中で、やはり私自身も魅力的だと感じるシーンに対して、”可愛らしい”や”たくましい”などの一つの象徴的な言葉に頼りすぎており、自身も自ら問題だと感じている人々の一員であるということを再度自覚し直した。一方で、抽象的に魅力を感じたシーンについてセリフ・服装・カメラワークなど様々な角度で具体的に分析することで、魅力を感じる要素は必ずしも一つではなく様々な条件が重なり合っていることに気づく視点を獲得できた。

この試みを通して、先ほど挙げた”可愛らしい”や”たくましい”などの人柄を表す言葉の解像度をさらに上げていく必要性を感じ、次の実験を行うことにした。その内容は先ほどのものとは視点を逆転し、先に魅力的だと感じる登場人物の人柄を書き出し、それを感じる瞬間を見つけその要素を分析していくというものだ。例えば、“強さ”と一言で言っても、色々な強さがあり、それはそれぞれ異なる。私はいつ・どんなときにその強さを感じ、また強さを表すためにどのような演出が行われているのか想像を広げた。この取り組みを通して、作り手は私の想像以上に登場人物たちの人柄を表現するために、洋服の色や会話の語尾など細かい表現まで作り込んでいる(と思われる)ことに気づいた。また同時に、その人柄/印象を構成する要素は非常に複雑であるにもかかわらず、実は私たちは表面的な部分ばかりに目を向けてしまっており、日常の中でも服装・メイク・話し方・クセなど表面的な要素から相手の人柄を非常に感覚的に捉えているのかもしれないと考えるようになった。

しかし、表面的な要素だけで本当に相手のことを理解していると言えるのだろうか。その疑問から私は、同じゼミに所属する仲のいい友人たちに、その人の価値観や生き様のようなものが最も表れる「人生の大きな分岐点/決断の瞬間」について話を聞いた。その中で、中学高校時代からどのような生活を送り、どんな困難に直面しそれらをどう乗り越えていったのか、具体的な当時のエピソードを交えながら話を聞かせてもらった。結論から言うと、私たちは約1年半、毎週のように会う仲であったが、この時間は彼女たちの新たな一面を知る再発見の連続となった。もしかしたら”一面”というよりも、彼女たちの芯の部分を初めて知ったという表現が正しいのかもしれない。振り返ってみると、私は「仲良くなる」というゴールを求める中で、互いの過去の話や大切にしている価値観など、相手のことを深く知るための対話の時間をないがしろにしてきたのかもしれない。

まわりみちをして得られたもの

ここまでの取り組みを通して、私たちはもしかしたら人の魅力に限らず、あらゆる物事に対して必要以上にその過程を省略して、結果だけを求めてしまっているのかもしれないと思うようになった。そして、これまで私は「魅力」という抽象的な概念について関心があり、それを一言で語られてしまうことに違和感を抱いていると考えていたが、実はこの必要以上な過程の省略(効率主義/コスパ思考)について問題を感じているのかもしれないことにようやく気づき始めた。

このように私はこの春学期をかけて自身と向き合い、自らの問題意識を言語化していった(それがまさにこの文章そのものである)。ここまでたどり着くために多くの時間を費やしてしまったが、効率主義の私にとってもプロジェクトにとっても、この経験と成果は大きな一歩となった。