まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

みたび、フーカットへ(3)

Day 3: 2019年2月24日(日)

日曜日。今朝は、昨日よりもさらに早起きして、6:30に出発。朝ごはんは、ふたたび、クルマのなかでバインミーを食べた。日曜日は、“ドリームクラス”が開かれる日だ。まずは、“Dream Class 1”へ。一昨年、はじめてフーカットに来た時(つまり、はじめて“ドリームクラス”のことを知った時)に訪れたことがある。


あの時は、ちょうどスアンくんの本が出版されるということで、出版記念のイベントも同時におこなわれた。スアンくんも、家からやって来て、サイン会を開いていた。校舎を歩いて、校庭や建物を見たとたんに、いろいろと記憶がよみがえってきた。そう、テレビの取材クルーが来ていたのだった。“ドリームクラス”の試みを、いわゆる「美談」として報じようとしていることが伝わってきて、機材をかついで無遠慮に教室に踏み込んでいくのに嫌悪感をいだいていたことまで思い出した。

あれから、ほぼ2年。教室は、とても賑やかで、いい雰囲気だった。昨日の“Dream Class 4”のような初々しさ(あるいはぎこちなさ)は、まったく感じさせない。年を追うごとに、生徒たちの入れ替わりがあるはずだが、さすがに2012年にスタートしてこれまで続いているだけあって、クラスの雰囲気がいい具合に継承されているのだろう。これは、とても大切なことだ。
なにより印象的だったのは、生徒と教師だけではなく、家族も一緒に教室で過ごしていたことだ。つまり、ハンディキャップを持った生徒と、その「健常な」兄弟/姉妹とが一緒にクラスを成り立たせている。もちろん、両親たちもクラスの一部となって、ともに過ごしている。一昨年と同じように、なかなかのカオスな感じだが、明るい。明るいのは、そして笑顔がたくさんあるのは、とてもいい。

f:id:who-me:20190224064552j:plain

今回は、教室に入って、生徒たちのようすを眺めた。前回は、躊躇して(ちょっと戸惑ってビビっていたということだ…)、〈外側〉から見ていたのだが、少しは進歩があったのだろうか。当時のブログ(2017年3月12日)を読み返してみた。初めて訪れた日について、こう書いている。

じつは、昨日もきょうも、ぼくは“Dream Class”のようすを外から眺めてはいたものの、「教室」のなかには一歩も入らなかった。入ることができなかった、と言ったほうが正しいのかもしれない。それは、ぼくがまだ〈外側〉にいるということだ。プロジェクトの成り立ちや意義は、少しずつわかってきた。子どもたちの家庭のようすもじかに見ることができたので、フーカットでの暮らしも、そして、ハンディキャップをもった子どもたちのことも、身体で理解しはじめていた。だが、今回は「教室」のなかには入らないことにした。もちろん、テレビ局のカメラマンの乱暴さには閉口気味だったが、同時に、「教室」にいる子どもたちからすれば、ぼく自身もさほど変わらない存在のように思えたからだ。(2017年3月12日のブログから)

 続いて、“Dream Class 3”へ。ここは、初めてだったが、まだ歴史は浅いみたいだ(※あとで確認)。担当の先生が、クラスの運営にかなり意欲的で、生徒がじぶんでその日の活動をえらべるようなやり方を試しているそうだ。教室の後ろにはロッカーがあって、そのなかに画用紙やクレヨン、絵の具などが収められている。みんなは、そのやり方を理解しているようで、ときどき、そのロッカーに行っては道具を入れたり出したりして、何をするかを決めていたようだ。

f:id:who-me:20190224090757j:plain


つい先ほど見た“Dream Class 1”にくらべると、ものすごくおとなしい。生徒どうしの会話もほとんど聞こえなかった。先生やボランティアでかかわっているメンバーも、教室を回りながら個別指導をしているふうで、なんだか覇気がない。おまけに、(これはみんなが気にしていたことだが)教室の前方にあるディスプレイではアニメが流れていた。クラスが静かだから、アニメの音で少しでも賑やかにしようということなのだろうか。生徒たちは、ディスプレイを眺めながら絵を描いたり、ちいさな人形に色を塗ったりという感じで、むしろ集中力を奪われているように見えた。ただでさえ、飽きっぽいはずだ。なかには、じぶんの手元を見ずに色を塗っている生徒もいて、思わず苦笑した。

f:id:who-me:20190224135054j:plain

“Dream Class 3”の先生がたと一緒にお昼を食べて、ひと休みしてからスアンくんの家に。じつは、スアンくんの2冊目の本が出版されたのだ。Chiさんが、できたばかりの本を手渡す。1冊目はイラストがたくさんあって、マンガとまではいかないものの(アメコミふうではある)、ことばがわからなくてもなんとなくストーリーを想像できた。2冊目は、判型も少しちいさくなって、テキストが主体だ。まずは、本を買い、サインをしてもらった。

いろいろ、変化があった。家の周りはこぎれいになっていて、放置されていた(ように見えた)畑にはピーナッツが植えられていた。どうやら、新年のお祝いのタイミングで、あちこちが整えられたみたいだ。部屋には、扉のついた立派な本棚が置かれていて、本がたくさん並んでいる。去年、ぼくがプレゼントした『うめめ』は、表紙が見えるように飾られていた。
なにより、スアンくんが1年間でずいぶん大人になったようだった。これまでは、あまり会話が続くという感じではなかったが、ごく自然にやりとりができる。もちろん、想像力をはばたかせて、あれこれと思いを巡らせる日々は続いているはずだが、相手の反応を見ながら話がすすむ。学生たちは、スアンくんを囲むようにして座り、1時間ほどおしゃべりをしていた。笑い声もあって、いい雰囲気だった。

明朝、早い便でフーカットを発つので、ふり返りを終えてから荷づくり。あっという間だった。(あとで加筆)(つづく)

f:id:who-me:20190224194543j:plain

みたび、フーカットへ(2)

Day 2: 2019年2月23日(土)

きょうは早起き。後半で合流したぼくにとっては2日目だが、プロジェクトとしては、もう終盤を迎えつつある。7:30に宿を出発。クルマのなかでバインミーをほおばっているうちに、目的地に到着した。きょうは、まず“Dream Class 4”を見学するためにキャットハン地区(Cát Hanh)まで来た。この4校目は開いたばかりで、まだ2週目とのこと。いろいろな意味で、初々しい。というより、ちょっとぎこちないようす。生徒もその保護者たちも、そして教員さえもが、なんとなく不慣れな感じで教室に集まっていた。

しばらくして、Red Crossの面々がやって来た。いよいよ開校したというので、「正式」に書類にサインをして取り交わすという儀礼的な時間が設けられていた。もちろん、〈はじまり〉(そして、ひとまず5年間続けるという合意)なのだから、節目を意識しておくことは必要だと思うが、どうやら慣れていないことによる初々しさにくわえて、この形式ばった時間が、全体の雰囲気をつくっていたのかもしれない。それは、机やイスの並べ方にもわかりやすく表れていた。机は横長に並べられ、生徒と教員が座り、いわゆる「お誕生日席」と呼ばれる奥の席にRed Crossの担当者と梅垣さんが並んで座った。
そこで、スピーチがあり(おそらく、クラスの生徒たちには小難しくて、それほど関心をいだくような内容ではなかったはず)、それを受けて、“ドリームクラス”の創設者である梅垣さんが返礼しつつ、メッセージを伝える。そして、「合意書にサインしているようす」と「にこやかに握手をしているようす」が写真に撮られる。プロジェクトの記録という意味でも、この儀式そのものには何も問題はないと思うが、このおかげで、ごく自然にきょうの授業の流れが方向づけられてしまったように見えた。Red Crossの人びとと、さらにぼくたちも来訪するということで、教員たちはいつも以上に「教員らしく」ふるまおうとしていたのだと思う。だから、生徒たちもそれに合わせて「生徒らしく」することが求められてしまう。教室の机やイスは、クラスメイトどうしの交流・交歓には窮屈な配置のままだった。

「学校」という仕組みは、思っている以上にぼくたちのふるまいに強くはたらきかけてくるのだろう。ハンデキャップのある生徒たちのためのプロジェクトであるからこそ、できるかぎり「ふつう」に近づくように授業を構成することが目標になる。じつは、そのことが、一人ひとりの個性を見ようとせず、「ふつう」という凡庸な基準で生徒たちを評価することへと向かわせる。

f:id:who-me:20190223090310j:plain


そのあとは、家庭訪問。“ドリームクラス”に通っていたという青年が、最近、結婚したという。いま「通っていた」と書いたが、“ドリームクラス”には、いわゆる「卒業」はない。そもそも、一人ひとりの年齢も事情(ハンデキャップの種類や度合い)もちがうので、じつに多様な生徒たちの集まりだ。それは、「ふつう」の学級のように、あらかじめ決められている学修を終えたら「卒業」する/できるという仕組みにはなじまないものだ。もし「卒業」と呼ぶべきタイミングが訪れるとすれば、クラスに通うことをとおして(多少なりとも)社会的なかかわりをもち、関係を変えてゆくことを知り、自律的に動けるようになった時だろう。つまり、“ドリームクラス”が、もう必要なくなる時が「卒業」だ。
新婚であるから(しかも、子どもを授かったという)、もちろん幸せそうだ。だが、日常生活のさまざまなことを、家族が面倒をみている。いろいろな理由は想像できるものの、ずいぶん過保護な感じだ。そのあまりにも無垢な(イノセントな)感じが、少し心配にさえなる。後述するが、(皮肉なことに)“ドリームクラス”の愉しさや居心地のよさが、実質的な「卒業」を遠ざけているのかもしれない。話のなかで、彼はじぶんの所帯を支えていくことに不安を感じていると言いながら、依然として“ドリームクラス”には顔を出しているらしい。

f:id:who-me:20190223095337j:plain

f:id:who-me:20190223100033j:plain

ゆっくりとランチを食べて、もう一軒。昨日、このメンバーでの活動は「グループワーク」のようなものだと書いたが、その観点からすると、少しずつ学生たちの連携が上手く行きはじめているように見えた。明確な役割分担が決められているわけではないのに、なんとなく、全員で状況を確認しながら会話がすすむ。複数のメンバーで訪問することの強みは、ことなる視座を認めながらも、お互いの行動を補完し、みんなで状況の理解を試みることができる点にある。メンバーが途中で合流したり、あるいは先に現場を去ったりということもあるので、「固定メンバー」ではなく、即興的にその時・その場でのふるまいを考えて協調的に動けるようになるといい。

f:id:who-me:20190223095526j:plain
f:id:who-me:20190223152357j:plain

そして、晩ごはんを食べてから、ふり返りのセッション。いろいろと面白い論点があった。今朝、見に行ったのは、数週間前に開校したばかりのクラスだったが、“Dream Class 1”は2012年にスタートしている。つまり、その歳月の分だけ、生徒たち(かつての生徒たち)は変化しているということだ。あたりまえだが、たとえ長く続いていることで経験が蓄積されているとしても、すべてはあたらしい。クラスが続くかぎり。人と長くかかわるということは、つねに未知の出来事に向き合うということだ。だから、想像力や寛容さが求められる。

きょうの家庭訪問をふまえて感じたのは、“ドリームクラス”のインパクトだ。事情はことなるが、きょう訪ねた二人は、クラスが愉しかったとくり返していた。「卒業」することなく、いまでもかかわっているという(クラスへの精神的なつながりの強さは、うかがい知ることができた)。これは、“ドリームクラス”が成功したことの証だ。つまり、彼/彼女らの人生に大きな影響をあたえていることは、まちがいないのだ。そのいっぽうで、“ドリームクラス”の佳き思い出が、無垢な頃(無垢でいるだけでよかった頃)へと引き戻してしまうのかもしれない。そう思った。もちろん、プロジェクトが、着実に続いてきたからこそ、こうした気づき、考えてゆくべき課題が見えてきたのだ。(つづく)

みたび、フーカットへ(1)

Day 1: 2019年2月22日(金)

少しずつ春めいてきてはいるものの、まだ朝晩は寒い。銀座1丁目の界隈で、寄附講座の「お疲れ様会」に参加して、「このあとの予定がありますから」と言って中座した。22時過ぎになって「このあとの予定が…」などと、みなさんに妙な印象をあたえてしまったかもしれないが、メトロの駅のコインロッカーからスーツケースを取り出し、羽田空港に向かった。
最近は、深夜便がずいぶん増えたのだろう。空港の出発ロビーは、思っていたよりもたくさんの人で賑わっていた。ぼくが乗る便も、日付が変わって1:30発。

機内では、よく眠った。「お疲れ様会」で飲んで食べて、そして深夜だったので、もう寝るしかなかった。朝食をはこぶ音で目覚めると、あと1時間ほどで到着するというアナウンス。寝ているあいだに、銀座1丁目から、4,000キロほど移動していた。
朝6時。無事にホーチミンに到着。昨年、一昨年に続いて3度目のベトナムだ。いきなり、湿度につつまれる。国内線のターミナルに向かうまで、わずか数分歩いただけで、汗ばむ。ここで数時間の待ち合わせをして、フーカット(Phù Cát)に向かう。ひとまず、フォーを食べてひと息。通貨の単位がちがうとはいえ、一杯に95,000(ドン)という値段が記されていると、ちょっと怯んでしまう。(日本円にすると450円くらい。空港の店だから、まちなかで食べるより高めのはずだ。)

f:id:who-me:20190223080905j:image

ホーチミンからのフライトは、窓側のシートにした。一昨年、初めてフーカットに向かったとき、窓の下に大きく広がる緑が印象的だった。また、それを眺めようと思った。1時間ほどで降下。およそ1年ぶりのフーカット(クイニョン)の空港は、あたらしい建物(去年は工事中だった)がオープンしていた。梅垣さん、Chiさんたちに迎えてもらい、宿に向かう。学生は4名。食事をしたあとは、家庭訪問へ。3年目ともなると、ちょっとした懐かしさを感じるようになる。おなじ宿、おなじ店で、おなじものを食べる。少しずつ、記憶が戻ってくる。一昨年から、毎年この時期にここを訪れているが、その経緯や内容については「フーカットで考えた。(2017)」「ふたたび、フーカットへ(2018)」に雑記がある。

ぼくが、学生たちとともに日本の各地を巡っている「キャンプ」の試みは、どちらかというと〈広げること〉に関心が向いているので、いくつかのケースを除くと、だいたい1回かぎりの訪問だ。標準的には2泊3日、1回だけの逗留で何をするのか。滞在中に、できること/やるべきことを考えて実践するのが、「キャンプ」という呼称にも込められている。だから、「キャンプ」ではいつも慌ただしく過ごすのだが、フーカットにかんしては、ちょっとちがう。そもそもプロジェクトがはじまって10年目くらいのタイミングから、いわば「オブザーバー的な」立ち位置で参加しているので(しかも途中から合流)、気楽であることにくわえて、おなじフィールドに通い続けることに考えが向く。“Dream Class”という場をつくり、人びとの成長や変化につき合ってゆこうというプロジェクトなのだから、〈続けること〉について、長い時間をかけて考えてみる必要がある。

f:id:who-me:20190223081447j:image

f:id:who-me:20190223081451j:image

あらためて、訪問先での状況はつねに移ろうものだと実感した。話の流れのなかで、ある質問が母親の感情を激しく揺さぶる場面があった。彼女が涙を流すと、すぐさま二人の息子たちが反応して、(別々にではあったが)母親の傍らへと向かった。それは、ごく自然で、本能的な動きだったように見えた。そのようすから、どのような意味や背景を読み取ることができるのか。ぼくたちが訪問する家庭の事情は、想像している以上に複雑なはずだ。そもそもが「抜き差しならない」状況であることはまちがいないのだ。やりとりについては、いちど英語に翻訳してもらうなかで、その細やかなニュアンスは失われるし、そもそもすべてのことばがそのまま訳されるわけでもない。そして、すべてが語られているはずもない。だから、じぶんの「気づく力」が試されているような気持ちになる。

晩は、ニンの家でごちそうになった。ここ数年、この季節に一度会うだけだが、彼の勤勉なようすは変わらない。それは、家の周りがていねいに整えられていることからもうかがえる。ぼくたちの姿を見ると、さっそくココナッツジュースをふるまい、机と椅子を並べて、食事の用意をはじめた。ピーナッツの畑には、スプリンクラーが取り付けられていた。長女が間もなく結婚するというので、豪華な家具(いわゆる応接セットや食卓セット一式)が置かれていて、いかにも日々が充実しているというふうで、終始、にこやかだった(少なくとも、そういう姿に見えた)。いわゆる「インタビュー」ではないが、お茶を飲みながらの「おしゃべり」はいろいろなことを知る手がかりになる。ときおり、Chiさんがやりとりを英語にしてくれるのだが、何を話しているか、なんとなく見当がつくような気もする。ことばがわからない分だけ、表情や声色、ちょっとした仕草に敏感になるのだろう。

そして、宿に戻って、一日のふり返り。銀座での集まりからここまで、長かった。ここで日差しをたっぷり浴びたので、いまにも寝てしまいそうだった。だが、このふり返りの時間は、とても大切だ。やはり、ぼく自身は、調査のしかた、人とのかかわり方に関心が向くようだ。きょうの午後は、学生が4名、そして梅垣さん、Chiさん、ぼくという7名で動いた。つまり、これは「グループワーク」として考えるのがよい。学生一人ひとりは、それぞれのテーマを持っているので、今回の滞在をとおして、いろいろなヒントに出会おうとしているはずだが、ともに過ごし、それぞれの立場から訪問先の体験を持ち帰っているのだ。 それを、いきいきとした知恵に変えていくためにはどうすればいいのか。眠そうな眼をしていたかもしれないが、じつは、あれこれと真面目に考えていた。(つづく)

exploring the power of place - 030

【本日発行】️ ☕️無事に「フィールドワーク展XV:ドリップ」が終了しました。お越しいただいたみなさん、ありがとうございました。さて、加藤研のウェブマガジン “exploring the power of place” 第30号(2019年2月20日号)は、「渋谷」をテーマにした『渋谷の断想(5)』です。今年度は、これでひと区切り。次号は新年度、2019年5月20日に発行予定です。→ https://medium.com/exploring-the-power-of-place/tagged/030

◎ 第30号(2019年2月20日号):渋谷の断想(5)
  • 「表現者」として生きる(津田 ひかる)
  • 「暮らすように旅する」?(日下 真緒)
  • 彼女と彼の“さわやか”(染谷 めい)
  • 酔っぱらい(高島 秀二郎)
  • かよう(比留川 路乃)
  • ふたたび、渋谷で。(久慈 麻友)
  • 信号機下の世界(佐々木 茅乃)
  • 行くか、行かないか(矢澤 咲子)
  • 渋谷の一面(牧野 岳)

f:id:who-me:20190220061227j:plain

「移動」の季節

毎年度末に開いている「フィールドワーク展」(今回は、15回目の「ドリップ」 https://vanotica.net/fw1015/ )も終わり、「追いコン」についてのやりとりがはじまって、いよいよ卒業のシーズン。大学のほうも学期末のあれこれが一段落して、新学期を前にちょっとひと息というタイミング。学生たちが「移動する」季節だ。

あらためて、この2年間の「研究会(ゼミ)」をふり返ってみた(じつは、これがなかなか面白いので、いずれもう少し遡って整理してみようと思う)。この2年間(4学期)で、35名の学生(大学院生を除く)が、出たり入ったりした。そして、毎学期18〜19名という人数だった。(他の「研究会」のことはわからないが)新陳代謝は、激しい。

人数の変化を、簡単に図示してみた。ウチのカリキュラムは半期制で(前期・後期)、1年生から「研究会」に所属することができるのが特徴。だから、たとえば2年生の春(3セメスター)で「研究会」に所属すると、長ければ3年間は一緒に活動することになる。これまで、そういう学生がけっこう多かったものの、最近は「移動」が多い。
図で、は1年生(1〜2セメスター)、2年生(3〜4セメスター)、が3年生(5〜6セメスター)、が4年生(7〜8セメスター)という色分け。は「卒業プロジェクト」を完了したかどうかの印。(その他の例外的な表記については後述)

f:id:who-me:20190220203104p:plain

2017年度春(2017S):左から順番にざっと見ていくと、1〜6は、2018年3月卒業予定で入学した学生たち。つまり、2014年度の「新カリキュラム」(通称「14学則」)で学びはじめた学生の初代になる。この年から、3年生があたらしく5名。5名全員が、2年生の秋学期までは別の「研究会」に所属していた。ウチのカリキュラムだと、なんとなく3年生からスタートするのは「遅い」というイメージがあるが、じつは世の中の多くの大学では3年生の春から「ゼミ」に所属して、2年間を過ごすのが標準的である。まぁ、3年生の春というタイミングだと、もう「後がない」ので、無理にでもじぶんの居場所として考えることにはなる。
同じタイミングで2年生が7名、1年生が1名加わっている。つまり、2017年度春学期は、19名のうち、13名が新メンバー。残っていた(継続履修の)学生のほうが、圧倒的に少ない状況で「加藤研」が動きはじめた。

2017年度秋(17F):「卒プロ」修了は4名、そのうち2名は途中から「研究会」を離れて、ぼくは「卒プロ」の指導だけを行なった。は、「研究会」に所属せずに「卒プロ」の指導を受けるパターン。やや例外的だが、少数いる(というより、あまり勧めないけど技術的には可能)。
あとの4年生は、1名は休学、1名は卒業延期。2年生が1名、半期の履修を終えたところで離脱。そして、3年生が3名、1年生が1名、あらたに加わった。

2018年度春(18S):卒業延期していた1名が修了。6セメスター目に「研究会」に所属していると、通常だとそのままもう1年かけて「卒プロ」に取り組むところ、2人が離脱。2年生の4名が、1年間の所属ののち(つまり、3年生になる段階で)離脱。入れ替わりで、3年生が3名、2年生5名があたらしく加わった。

2018年度秋(18F):4年生は1名が「研究会」を離脱して「卒プロ」のみのパターンに、もう1名は離脱。3年生は、メンター申請の学期をむかえるタイミングで1名が離脱。3年生が1名、2年生が3名、あらたに加わった。

2年間をふり返って気づいたこと/考えたこと(雑感):

  • 1年間ほど所属してから離脱するのは、なんだかもったいない。素朴に、そう思う。ようやく、これからというタイミングだから。それは、学生たちの「様子見」の期間(トライアル的に「研究会」にかかわる期間)が長すぎるということなのか、それとも、ぼくのほうが「様子見」を許容しすぎているのか。とくに3セメスター目で「初研究会」として所属すると、どうしても「様子見」になりがちなのかもしれない。講義科目や、書籍などをとおして、ある程度の理解をしてから入ったほうがあれこれ上手くいく。
    「フィールドワーク(=時間がかかるし、意外と苦しい)」をきちんと学びたいなら、やはり2年くらいはじっくりやらないと、その本質を理解することはできないのに…。道半ばで辞めてしまうのは、とても残念なことだ。大学院生たちの「本格的なフィールドワーク」を、もっとわかりやすく紹介するようにすれば、時間感覚や紆余曲折(試行錯誤)についてイメージしやすいかもしれない。やっぱり覚悟が大事だから。
  • もちろん、1年くらい活動して「やりきった感/ひと仕事終えた感」とともに、他の「研究会」を目指すなら、それはよいことだと思う。そもそも、ウチのカリキュラムは学生たちの「移動」が自由な設計になっているのだから、いくつかの「研究会」で学びながら「卒プロ」に向かうのは、理想とも言える。教員としては「囲い込み」の発想は捨てて、「移動」を後押しする姿勢が必要。ただし、その「やりきった感/ひと仕事終えた感」が本物かどうかは要チェック。それは、多くの場合、成果物(いわゆるポートフォリオ)として表れているはず。半期でも1年でも、「研究会」のメンバーとして活動している間に、何をして/何をえて、何を生み出したのか。無形の〈モノ・コト〉はもちろんあるけど、確実に誰かに紹介できる〈何か〉はあるのか。不完全燃焼のままだと、けっこう引きずる(ことがある)。
  • そもそも、じぶんでやる気と関心の高さを表明して、希望して「研究会」をえらんだはずなのに、続けられなかった(続ける気にならなかった)のはなぜかを考えてみることは大切。テーマ(コミュニケーション論、メディア論)や手法(質的調査法)、運営方法(ワークショップ、「キャンプ」などの学習環境のデザイン)、教員との相性(これは、つねに移ろうけど)、メンバーとの人間関係(グループワークが上手くいくかどうか)などなど、いろいろな理由は見つかるはずだが、一番のふり返りが必要なのは、じぶんはどのくらいの意識をもって「研究会」に向き合っていたかを問うこと。やることはやっていたか、サボっていなかったか、本を読んだり文章を書いたりしていたか、メンバーや教員とのコミュニケーションのありようについて自覚的だったか、関係性を維持することについて、どこまでじぶんの感性がはたらいていたのか、などなど。あえて教員目線で語ると、そもそも「シラバス読んだの?」と聞きたくなる場面は、たびたび訪れる。
  • 「ちょっとちがってた」「他に興味がある」などと感じたら、それを言語化したり、じぶんなりのタイムライン(=どのように大学生活にケジメをつけたいかという見とおし)に位置づけたりして考えてみること。つまり、「移動」することの意味づけ。調査研究には、感情が充填されている(と、ぼくは考えている)ので、その情熱と方法論(実現のための道筋)がフィットしていることが大切。そして、評価者をえらぶこと。それは、じぶんの成果を「誰に見てもらいたいか/誰に評価してもらいたいか」を問うこと。すべて、じぶんのセンスや要求水準しだい。楽にやりたければ、楽なところ。不健康なプレッシャーは避けたほうがいいけど、じぶんに深く向き合いたいなら、変化を拒まないこと。
  • 最後に。「移動できること」は、他学部(他大学)では、あまり聞いたことがない、ウチのカリキュラムの特質。その自由が、かえってやりづらさを生んでいるのかもしれないけど、カリキュラムの構造をよく理解することは大事。(大学生の4年間のあとで、たくさん「移動」するわけだから、まぁよく考えて決めればいい。)
    でも、ほとんど何も言わずに辞める人が多いのは残念。じぶんの考えについて話すこともせずに、事務的に離脱する人は、非礼とか非常識とかいうよりも、可哀想な感じ。大学生の一番の特権を、放棄しているわけで。コミュニケーションに気後れしたり、ビミョーだったり、畏れたりすることはあっても、きちんとお互いに「ありがとう」「さようなら」を言って別れないと、たぶん、もう会えない。それは、ぼくの(すでに20年を越えてしまった教員としての)経験から、確実に言えること。本当に、もう会えない。🐸

参考:もともとは、20年前!に書いた文章。