まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

方法は、いろいろある。(3)

「いつもどおり」のやり方

あっという間に、6月になった。新年度から(実際には、年度末のケジメがついていないままのような気もするが)、慌ただしく過ごしてきた。ゼミについては、この春からメンバーが大幅に入れ替わった。4年生たちは毎年卒業してゆくので、それは想定内の「自然減少」であるが、いろいろな理由で継続履修の学生が減ったために、あたらしいメンバーをたくさん迎えることになったのだ。大まかにいうと、8割くらいが「新人」である。

当然のことながら、「新人」たちには、いろいろなことを伝えていく必要がある。体験をとおして理解を促すことも、少なくない。あれこれと説明不足だと思えることがいくつもあって、ゼミにおける活動のリズムやスピードについて、あらためて考えさせられた。学期中は毎週顔を合わせ、数回は宿泊をともなう「キャンプ」に出かける。授業や研究室で、ことばを交わす機会もある。メールなどでの連絡もあるし、SNSでつながっていれば、日々の暮らしは断片的ながらも見えてくる。

些細なようでも、それなりの頻度でやりとりしていれば、お互いのことがわかるようになってくる。とりわけ「キャンプ」のように寝食をともにする場面では、人間性が露呈する。密度の濃い関係を続けているうちに、やがて「暗黙の了解」を求めたり、求められたりするようになる。もちろん、そのこと自体は、悪いことではない。それは、ゼミというちいさな集団においてさえも、テーマや方法、あるいは調査・研究などに向き合う態度が、メンバーどうしで共有されていることの表れだからだ。やや排他的に見えるかもしれないが、「暗黙の了解」として共有されてゆく一連のふるまいは、ひとつの集まりを特徴づける、「らしさ」の源泉だと言えるだろう。ローカルな「文化」だと言ってもいい。

https://www.instagram.com/p/BUDuoMbgpa2/

2017年5月12日(金)〜14日(日)深浦キャンプ3|「深浦の人びとのポスター展3」 #fukap3

 

「新人」がいつも以上に増えたので、今年度はじめての「キャンプ」は、少し気がかりだった。ぼくたちがすすめているポスターづくりのワークショップは、基本的にはペアで活動する。事前に主旨や全体の流れを説明することはできるが、直接体験によって理解する事柄は多い。だから、やや乱暴であることを知りつつ「とにかく、まずはやってみる」ことを強調する。その体験をふり返ることこそが、身体的な理解にとって重要だと考えているからだ。通常は、一度でも「キャンプ」を体験したことのある学生と、「新人」でペアを組むように調整している。いきなり「やってみよう」と言われても、なかなか難しいので、経験者と一緒なら「新人」は、その都度やり方・考え方を確かめながら取り組むことができる。経験者にとっても、「新人」にあれこれ説明を試みる過程で、多くのことを学ぶはずだ。「暗黙の了解」になっていたことを、(説明のために)ことばにせざるをえない場面もあるので、あらためて活動の意味を問い直すきっかけになる。

この春おこなった「キャンプ」は、いつもとちがう気持ちで臨んだ。今回は、「いつもどおり」ではないという理解が、ぼくの緊張感を高めていたのかもしれない。ほぼ全員が初めてという状況で、大部分は「新人」と「新人」のペア(つまり初めてなどうし)で、取材に出かけることになった。学生たちは、わからないこと、不安なこともあったと思うが、どうやらぼくが心配しすぎていたようで、(少なくともぼくの目に映るかぎりは)上手く進行した。ポスターも、なかなかの出来だったと思う。(→「深浦キャンプ3」でつくったポスター

惰性と弛み

「キャンプ」は、いまではゼミの活動において重要な位置を占めるようになったが、そもそも、最初からいまのような形で実施していた(実施できていた)わけではない。場数が増えるのにともなって少しずつ改変され、「いつもどおり」と呼べるような方法と態度が培われてきたのだ。
その過程で、ぼくたちは、大きくふたつの課題に向き合ってきた。まずは、活動を拡げるということだ。2004年の秋に葛飾柴又の界隈でフィールドワークをおこなってから(当時は、まだ「キャンプ」というコンセプトがなかった)、いくつかのまちを巡っているうちに、せっかくなので47都道府県すべてを回ろうという想いが強くなった。たくさんのまちを訪れることで、多様性への感度を高めることができる。
もうひとつは、続けるということだ。いま述べたように、活動をさまざまな場所へと拡げてゆくためには、当然、続けなければならない。「キャンプ」にかかる費用の面では自立しながらも、できるだけのびやかに発想できるように自律することも大切だ。しばらく続けてこそ、見えてくることがたくさんあるはずだ。そのための方法は、まだまだ模索中だ(たとえば「方法は、いろいろある。(2)」を参照)。

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「キャンプ」地域別インデックスより http://camp.yaboten.net/entry/area_index

 

ぼくたちの活動は、当初は、たんに「フィールドワーク」として位置づけていたが、時間とともに「キャンプ」として構造化されていった。活動を拡げたり続けたりする過程で、ここ数年は、別の課題に直面していることに気づく。それは、惰性や弛みにかかわることだ。

これまでの流れを模式的に示した図を見ながら、簡単にふり返ってみよう。時間の流れは、左から右へと向かう横軸で表現している。「キャンプ」という活動(フィールドワーク)の認知度、そして成果物の完成度・満足度が高まってゆく変化は、縦軸で表している。学生たちとともにまちに出かけるというスタイルを、本格的にゼミの活動に取り入れはじめたのは、2004年だ。当初はポスターではなく、ポストカードや音声ガイドなど、さまざまな成果のあり方を試しながら何度か実践をくり返し、2009年には『キャンプ論』として基本的な考え方や方法を、ひととおり整理することができた。活動について語るためのことばが明快になれば、当然のことながら説明はしやすくなるし、(より適切な)質問やアドバイスも受けられるようになる。出向いた先で取材を受けたり、ぼく自身が「キャンプ」について語る機会をえたりしながら、活動の認知度は高まった。はじめたばかりの頃は、個人的な知り合いを訪ね、あるいは知人を介してキーパーソンを紹介してもらうなどして「キャンプ」の実施場所を決めていた。やがて、自治体やNPOなどから声がかかるようになって、少しずつ活動の範囲が拡がっていった。

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「フィールドワーク」から「キャンプ」へ|実践を続けるなかで、形式化がすすみ、運用方法が整えられていった。認知度も高まったが、これからは惰性ですすまないように自覚することが重要だ。

 

成果物のクオリティも、回を重ねるごとに向上した。デジタルカメラの性能がよくなったことなど、技術的な変化も無視できないと思うが、なにより、ぼくたちの経験が蓄積されたことによるものだと思う。ゼミ生は数年で卒業してしまうが、たとえば成果物としてつくったポスターのデータは、記録として(あるいは「お手本」や「完成イメージ」として)残され、参照されてゆく。事前の調整から、準備、実施、ふり返りまでの一連の「キャンプ」の流れは身体的に理解され、ペアで活動するなかで伝えられる。
このような流れで活動が続くことは、事前に想定していなかったが、結果として、10数年という時間のなかで、ある程度は持続可能な方法として整ってきた。

 

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たとえば「東北」でつくったポスター(2017年4月現在)を集めれば、これだけある。(釜石、上山、喜多方、深浦)

 

時間をかけて「キャンプ」という活動のスタイルがかたどられてきたのは、よろこぶべきことだ。というより、いまのような形になるには、それだけの時間が必要だったのだと思う。だが、「前回とおなじやり方」で満足したり、「ふだんどおり」を疑わずに受け入れたりすることは、好ましいとは言えないだろう。慣れや妥協によって、成果物のクオリティが下がるという道筋にすすむことは避けたい。言うまでもなく、さらに高い水準を目指したいところだ(少なくとも、いまの水準は維持しなければと思う)。

ここ数年、惰性や弛みが気になりはじめていたのだが、この春、8割くらいが「新人」という状況になったおかげで、あらためてこれまでの過程に目を向けることになった。「いつもどおり」のやり方が、どのようにつくられてきたのか。ぼくたちは、その「いつもどおり」をどのように維持しようとしているのか。日頃から、じぶんたちの活動を(批判的に)ふり返ることを忘れずにいなければと思う。🐸(つづく)