まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

おすそわけを通して紡がれる関係

(2025年8月7日)この文章は、2025年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

蓮見 まどか|Madoka Hasumi

はじめに

このプロジェクトは、祖母(以下、「ばあちゃん」)が日常的に行っている「おすそわけ」を手がかりに、人と人とのあいだに生まれるやりとりやコミュニケーションを観察し、記録していくものである。私自身、このプロジェクトを始めるにあたり、日常の中にあるささやかな風景や出来事に目を向けることで、普段は見過ごしてしまいそうな豊かさに気づきたいと考えた。これは、大学3年生になって就職活動を始めた私が、自分の価値や役割について否応なく問われる日々を経験していたからだ。企業から求められる人物像。自分はどんな力を持っていて、どのような立場なら「必要とされる人間」になれるのか。そんなことばかりを考えていた。エントリーシートを書くたびに、自分という存在をラベルや実績で説明しようとする焦りと向き合い、どこかで本当の自分を手放していくような感覚さえあった。
そんなある日、久しぶりに訪れた大阪のばあちゃん家で、私は思いがけず、少しずつ生きる活力のようなものを取り戻していった。今年の4月、地域のボランティア活動に参加しているばあちゃんから「春まつり」の手伝いに誘われ、スタッフとして桜の下で抹茶を点てることになった。
拙いながらも着物の着付けをしてお点前をしていると、近所の人たちはにこやかに声をかけ、「先生」とまで呼んでくれた。たとえ素人であっても、その場にいる一人として受け入れられ、何者でもない私が誰かに喜んでもらえていると感じられたとき、心から救われた。この地域には、お花の先生、ピアノの先生、オカリナの先生など、多くの「先生」と呼ばれる人たちがいる。それは、資格や職業としての肩書きというよりは、互いに敬意をもって呼び合う、やわらかな敬称のようなものだった。年齢や上下関係にとらわれず、相互の信頼のなかで生まれる「先生」という関係性。その心地よい距離感のなかで、私は自分が点てた抹茶を嬉しそうに飲んでくれる人々の笑顔に胸を打たれた。ここには、能力や実績で測られる世界とは別の価値観がある。肩書きではなく、人と人の間に流れる信頼や時間の積み重ねの方が重視されているようだった。
また、ばあちゃん家は地域の人が気軽に出入りする開かれた場所でもある。誰かが玄関に訪れ、少し雑談を交わした後におすそわけを手渡して帰っていく。そのような関係性が、私にとっては非常に人間らしい営みのように感じられた。ひとり暮らしで地域やご近所との関わりが希薄なこともあり、このおすそわけのやり取りが新鮮に映ったのかもしれない。
現代社会では、個人主義的な価値観や資本主義の論理が強く支配しているように感じる。人との関わりも、「それが自分にとって得か損か」「時間や労力に見合うかどうか」といった基準で選び取られる場面が少なくない。けれど、ばあちゃんの周囲にあるやりとりは、そういった損得勘定とは少し違う軸で動いているように思えた。分け合うこと、与えること、思い出すこと、待つこと。そうしたふるまいの中に、どこか懐かしいけれど新鮮な気づきがあった。
この経験を通じて私は、資本主義的な軸と、それとは異なるもう一つの軸とのあいだを行き来するような暮らし方を考えるようになった。どちらが正しいと断言することはできない。むしろ、その2つのあいだのグラデーションのなかで、バランスを取りながら生きていくこと。それが、卒業後も私が自分自身に問い続けていくであろう、大切なテーマだと感じている。

 

玄関からみるおすそわけ

大阪のばあちゃん家には、今年の4月から毎月、1週間ほど滞在することを続けている。私にとっては第2の実家のような場所だが、観察対象として向き合ってみると、そこにはこれまで見過ごしてきた無数のやりとりがあった。
このプロジェクトの観察の出発点として選んだのが「玄関」である。ばあちゃん家の玄関は、内と外をつなぐ土間のような空間であると同時に、人と人との関係性を紡ぎ、繋ぎとめる場所でもある。地域の人々は、あいさつの延長のようにこの玄関に立ち寄り、何かを渡し、何かを置き、あるいは立ち話をして去っていく。
ばあちゃんの家の玄関には、さまざまな形のコミュニケーションがとれるように椅子と机が置かれている。そのため、ちょっと腰かけて話をしたり、書類を広げて簡単なミーティングをすることもできる。玄関というより、半分は縁側、もう半分は居間のような使われ方をしているように感じる。さらに、玄関の机の上にはメモ帳が常備されており、ばあちゃんが不在のときには、そこに伝言を書き、おすそわけをそっと置いて帰っていく人もいる。

【図1:玄関の様子】

この場を中心に観察したいが、四六時中玄関に張りついて観察することは現実的ではない。私自身がそこに居続けることで、自然なふるまいを妨げてしまう恐れもある。そこで私は、玄関の隅に小型の見守りカメラを設置することにした。無機質なカメラをただ設置するのではなく少し親しみも加えて、この家の空気に溶け込むような存在になってほしかった。ばあちゃんの家にあったギンガムチェックのペーパーナプキンでカチューシャをつくり、同じ柄でスカートのようなものを巻きつけて着せてみた。
私はこのカメラに「まもるちゃん」と名付けた。これから長い時間を共に過ごすであろう、私の小さな相棒である。

【図2:まもるちゃん】

まもるちゃんは、玄関を一定の角度からじっと見守り続ける。動きがあったときにだけ自動で録画を始め、夜になると暗視モードに切り替わる機能もついている。映像はスマートフォンで確認できるため、東京にいる間でも、ばあちゃんの玄関の出来事をリアルタイムで見ることができるようになった。玄関は、これまで月一でしか観察できなかった場であったが、まもるちゃんの導入によって、いつでもどこでもアクセス可能になった。私は、録画された映像の中から気になった場面を選び出し、静止画として切り取っていく。その数は、すでに数百枚にのぼっている。加えて、6月からは新たな記録方法も試みている。映画『Smoke』に登場する人物が、毎朝同じ時間に同じ街角の写真を撮り続け、アルバムに収めていくというシーンにヒントを得て、私も毎朝9時にばあちゃんの家の玄関を、スマートフォンで1枚ずつ撮影することにした。同じ場所、同じ時間帯のはずなのに、光の入り方や影の落ち方、置かれているものや戸の開き方が少しずつ異なり、毎回新しい発見がある。
撮りためた写真は、約1か月ごとに現像してアルバムに収めていく。この作業は記録だけではなく、「見る」ことへの感度を養う訓練のようでもある。データから紙媒体として印刷された写真をめくることで、デジタルでは感じられない手触りと時間の流れを感じることができる。半年後には、何百枚もの写真が収められた分厚いアルバムが完成する予定だ。

【図3:アルバム】

こうして並べた写真を眺めていると、玄関という空間が常に変化していることにあらためて気づかされる。たとえば、夏になると蚊取り線香や虫除けスプレーが置かれ、家庭菜園で収穫されたばかりのゴーヤやキュウリが写真に写る頻度も次第に増えてきた。ばあちゃん家のベランダに植えられたゴーヤのつるは、あっという間に2階から4階まで這い上がった。7月からは毎日ゴーヤが採れるようになり、収穫したその日のうちにご近所へ配られている。毎年恒例となっており、ばあちゃんの野菜を心待ちにしている人も多い。また、玄関でのふるまいにも、訪れる人の距離感や関係性が滲み出る。引き戸をほんの少しだけ開けて立ち話をする人もいれば、戸をすべて開けて、玄関の縁側に座り込んでじっくり話し込む人もいる。その立ち位置、腰のかけ方などから、ばあちゃんとの関係性が伝わってくる。おすそわけの渡し方にもバリエーションがある。その場で一緒に味見をすることもあれば、お皿ごと渡して後で返却されることもある。7月になると、お中元の時期を迎え、包み紙やリボンがついた箱入りの品が玄関に現れるようになった。いつもの素朴なおすそわけとは少し異なる、よそいきのやりとりがあった。季節のうつろいとともに、玄関の風景もまた変わっていくのだ。

 

ばあちゃんについていく

関の観察と並行して、私はもうひとつ大切なアプローチとして「ばあちゃんについていく」ことを意識するようになった。ばあちゃんが日々関わっている地域ボランティアの現場に同行し、行動を共にすることで、より立体的に「おすそわけ」の世界を捉えたいと考えたからだ。
これまで私は、ばあちゃんが長年ボランティアを続けていることを、なんとなくは知っていた。けれど、それはあくまで年末年始や夏休みに顔を合わせたときに聞く話でしかなかった。ばあちゃんがどんな場所で、どんな人たちと、どんなふうに関わっているのか。具体的なイメージはまったく持てていなかった。
そんな中、4月の春まつりで、ばあちゃんが大勢の人と軽やかにコミュニケーションを取り、生き生きと現場をまわしている姿を見たとき、私は軽い衝撃を受けた。自分はばあちゃんのことを、実は何も知らなかったのではないか。普段の玄関での少人数のおしゃべりからは想像できなかったが、ばあちゃんは地域の中で頼りにされ、あちこち動き回っていた。
ばあちゃんが関わっているボランティア活動は、大きく分けて3つある。町会活動、老人ホームでのボランティア、食育支援活動である。そのすべてにばあちゃんは積極的に参加しており、しかも多くの場合、運営の中心に近い立場で動いている。町会の活動ひとつ取っても、月に1度のモーニング喫茶の運営、年4回ある季節のお祭りの準備、公園の花壇の水やり、会費の徴収、定例会議への参加など、多岐にわたっている。それに加えて、老人ホームでは南京玉すだれやマジックを披露し、食育ボランティアでは地域の学校に出向いて食育教育を行っている。まだまだ把握できていない業務もあるはずだ。
ある日、公園の花壇に花の苗を植える作業を一緒にしたことがある。かがんでの作業はなかなかの重労働だったが、植え終えた頃には自然と花壇に愛着が湧いていた。ばあちゃんは近くの工事現場で不要になった木の端材を分けてもらい、それを家に持ち帰った。ノコギリで切り、マジックペンで一つひとつ花の名前を書いたら、即興的にネームプレートが完成した。ばあちゃんの体力と行動力は、想像以上だった。

【図4:花壇の様子】

私は今、「ばあちゃんの孫」という立場を活かして、ごく自然なかたちでその場に立ち会わせてもらっている。ボランティアごとに用意されたTシャツを着ると、見た目にも仲間の一員として馴染むことができる。これまで外からは見えていなかったばあちゃんのもう一つの顔が、少しずつ見えるようになってきた。こうした現場に同行することで、私は玄関だけを観察していたときには見えてこなかったつながりの輪郭を、より解像度高く捉えることができるようになった。たとえば、老人ホームで共に活動していたメンバーや、モーニング喫茶で知り合った方が、お菓子のおすそわけをしに訪れる場面を目にした。ボランティア活動とおすそわけは決して別々の出来事ではなく、日常のなかで自然に連続している営みだったのだ。
玄関だけでなく、当然ほかの家庭でもおすそわけは行われている。ある日、ボランティアメンバーのご自宅を訪ねたとき、高級な生卵をおすそわけしてくれた。ばあちゃんはそれに対して、ちょうど買ってきたばかりの551の豚まんを手渡していた。義務ではないけれど、何かをもらったら何かを返す。その返しが即座であっても、少し時間が空いていても、それは等価交換というよりも、関係を続けるためのやりとりのように見えた。
さらに、玄関という空間そのものが、地域ボランティアと深く結びついていることにも気づかされた。祭りの前日には、イベントで使用する道具や備品が玄関に山のように積み上げられる。紙皿、飾り、椅子や机など、必要なものは大抵ばあちゃんの家に保管されており、それらが出し入れされるたびに、玄関の風景が目まぐるしく変わる。ばあちゃん家の椅子を数えてみると54脚あるのだから驚きだ。一見すると、ものが多くて雑然としているようにも見えるが、ばあちゃんにとってはどれも「いつか誰かの役に立つもの」なのだ。実際、春まつりのときには、家の奥に眠っていた30年前のお茶碗がふたたび日の目を見て、抹茶席で大活躍していた。「何にも無駄になってない。」それがばあちゃんの口癖だ。
私はこれまで、おすそわけはばあちゃん家の中で起きることだと思っていたが、実際にばあちゃんについて外に出てみると、それはあくまで地域で行われているコミュニケーションの一部にすぎないのだと実感するようになった。人と人との関係を繋ぎとめる小さな回路としてのおすそわけは、私が想像していた以上に広がりをもっていた。

 

これから

「おすそわけ」という行為は、モノのやり取りにとどまらず、人と人とのあいだにある目に見えない関係性や、信頼の積み重ねを表しているように思う。ばあちゃんのふるまいを見ていると、それは一方的な善意や「いいことをしている」という意識から生まれるものではないような気がしている。より日常的かつ素朴で、ばあちゃんにとってはあたりまえの他者との関係を維持するためのやりとりであるように感じる。ボランティア活動もまた、その延長線上にあるように見えてきた。誰かに必要とされること、誰かのために動くこと、それらは決して見返りを求めるものではなく、ただ今自分ができることをするという感覚に近いのかもしれない。見返りのない行為のなかに、なにかおすそわけ的な精神が宿っているのではないだろうか。
私は今、まもるちゃんによるオンライン定点観察と、ばあちゃんとの日常の対面観察という二つの方法を行き来しながら、おすそわけを観察している。どちらも一長一短があるが、それぞれの視点を補い合うことで、より立体的にこの空間のありようを記録できるようになってきたと感じる。
先日、アルバムに収めた玄関の写真をばあちゃんに見せてみると、「自分の玄関がこんなふうに見えていたなんて」と目を丸くして驚いていた。しばらくして、ばあちゃんがシャーベットを食べながら「このシャーベット、どうやってもらったっけ?」と首をかしげた。私たちはアルバムを一緒にめくり、記憶の手がかりを探すと、一枚の写真に隣家の方が玄関の机にシャーベットの箱を置いている姿が写っていた。その一枚が、ばあちゃんの記憶を改めて呼び起こし、数日前の出来事が急に鮮明に蘇ったようだった。記録を第三者に見せるだけでなく、写真に写っているばあちゃん本人と共有することの面白さと意義を改めて感じた。
また、アルバムを眺めていると、ばあちゃんは縁側のように玄関を使い、来客と腰をかけて話すことがあると気づいた。なぜ立ち話だけでなく、腰を据えて話すのか尋ねてみると、玄関が1段高くなっているため、片方だけが上から話すとどうしても物理的に上から目線になり、少し気後れしてしまうという。だからこそ、同じ目線で話すことで気持ちも自然と通いやすくなるのだそうだ。そんな配慮をしているのが、ばあちゃんらしいなと感じた。このアルバムの活用方法には、まだまだ可能性がありそうだ。
観察を続けるなかで、私は自分がどんな写真に惹かれるのか、なぜその一枚を選ぶのかといった選び方の癖に気づくようになってきた。それは、自分の関心や視点の偏りが表れている。ばあちゃんと過ごす時間が増えるほどに、私の「見る目」も少しずつ変化しているのを感じる。今後は、写真を撮るだけでなく、「どのように見るか」「誰と見るか」をより意識していきたい。同じ写真を今日見て感じたことと、3か月後に見返したときに感じることは、きっと違うだろう。同じ光景に対する印象や、目に留まる要素は、自分自身の変化によって変わっていく。だからこそ、この記録は一度きりのものではなく、時間をかけて繰り返し立ち返るためにも、継続して残していくべきだと考えている。玄関という場には、日々の暮らしの変化や地域の中で交わされる小さなやりとり、季節のうつろい、そして人と人との関わりが、折り重なるように存在している。そうした営みを丹念に記録し、丁寧に言葉にしていくことによって、ばあちゃんの生き方を知るだけでなく、私自身のこれからの生き方を見つめ直すヒントが得られるような気がしている。
また、「誰の視点で見るか」という部分も大切だと感じている。以前、祖母は喪服を着て近所の方の葬儀へ出かけたことがある。その方が数週間前に贈ってくれた花は、まだ玄関に飾られていたが、ゆっくりと色褪せ、しおれ始めていた。祖母はその花をひとつひとつ丁寧に片づけた。花があった場所にできた小さな空白が印象に残り、玄関の空気がほんの少し変わったように感じられた。こうした空間から受け取る感情は、まもるちゃんの視点だけではすくい取れないものもあることに気づいた。
まもるちゃんの視点、ばあちゃんの視点、そして私自身の視点──この3つのまなざしを通して玄関を見つめ、このプロジェクトを通じて、観察と記録をさらに深めていきたい。そして、このおすそわけをめぐるプロジェクトが、いずれは私にとって、日々の暮らしの中にある豊かさや、人間という生き物としての在り方に立ち返るための、ひとつの羅針盤となるのではないかと感じている。

 

参考文献
  • 青木真兵(2024)『武器としての土着思考:僕たちが「資本の原理」から逃れて「移住との格闘」に希望を見出した理由』東洋経済新報社
  • Wayne Wang.(1995)『Smoke』Miramax, LLC.KADOKAWA HERALD PICTURES, INC.