かわら版をつくる作業は、なかなか大変だ。テキパキと作業をしないと、すぐに原稿のしめ切りがやって来る。だが不思議なことに、刷り上がったばかりのかわら版を読者に手渡すとき、その疲れはどこかに消えてしまうのだ。*1
まちに還すコミュニケーションについて考えていると、できるかぎり現場でつくること、完成させることの価値に気づく。記憶が新鮮なうちに、現場での体験をふり返ることができる媒体は、コミュニケーションのきっかけになるからだ。たとえば、イベントなどに関わる機会には、かわら版をつくってみよう。過去に「学級新聞」のようなものをつくった経験があれば、ちょっとした懐かしさを味わいながら作業をすすめることができる。
【『あしたばん』創刊号(2011年6月19日)http://ashitaban.net/ 「三宅島大学プロジェクト」期間中、不定期ではあったが50回以上発行した。】
【「第2回 こもろ・日盛俳句祭」で制作・配布された『こもろまん』(2010年8月)】
ちいさな編集室をつくる
かわら版をつくる作業は、とても慌ただしい。時間に余裕がないので、取材は体当たりである。事前にアポを取ったり、細かく質問項目を整理しておいたりすることは不可能に近い。あたえられた条件のもとで、あれこれと調整をしながら段取りを決める。やり直すことはできないのだ。もちろん、かわら版をつくるための場づくりにも向き合うことになる。折りたたみ式の机とイスを並べて、ノートPCと小型のプリンターを設置すれば、そこは、ちいさな編集室になる。時間のプレッシャーと、即席の編集デスクに不自由さを感じつつ、かわら版の編集に取り組む。じつは、その状況こそが、さまざまな創意工夫のチャンスなのだ。
【その場でじぶんたちの作業スペースをつくることも大切な課題だ。「こもろ・日盛俳句祭」の編集スペース(2009年8月)】
自由に書く
かわら版をつくるときに心がけたいのは、とにかく自由に書くということだ。かわら版であるからには、イベントの概要や経過を正しく伝えなければならない。何が起きているかを記すことはもちろん重要だが、それをどう語るかが大切だ。文章の上手下手を気にする必要はない。じぶんなりにイベントを観察し、人に話しかけ、気づいたことや感じたことを文字にするのだ。紙面のスペースはかぎられているので、慎重にことばをえらぶ。じぶんの目で観察した、豊かで複雑な現場を、あたえられた文字数に凝縮するのである。場合によっては、写真のような視覚的な手がかりなしに、すべてを文字だけで伝えなければならない
読者が待っている
かわら版は、見かけは新聞のようだが、不特定多数に向けて印刷されるものではない。むしろその逆で、特定少数の読者を想定してつくられる「ちいさなメディア」である。イベントの参加者の数に合わせて、発行されるのは、わずか数百部程度だが、ほんの数時間前の出来事が、活字となって紹介されている。読者数が少なくても(というより、少ないからこそ)、決められた時間までに編集を終えて配ることが重要になる。
【「こもろ・日盛俳句祭」で配られたかわら版(2009年8月) 】
置き去りにされないメディア
原稿が揃ったら、紙面をレイアウトして、印刷する。ひとたび発行して配布したら、もう直しようがない。かわら版の場合は、その評価は直接的に返ってくる。つまらなければ、会場に置き去りにされる。ゴミ箱に行くこともあるはずだ。その意味で、結果がすぐわかる。
幸い、これまでにつくったかわら版は、置き去りにされることはあまりなかったようだ。誤字などの不備がいくつか見つかるものの、手にした人びとの反応は、おおむね好評である。イベント会期中に、かわら版を何度か発行するような場合には、私たちの存在を気にかけてくれる人も現れる。刷り上がるのを待っている、読者の姿を実感できるようになる。これも、「ちいさなメディア」のひとつの特質だといえるだろう。
作り手も読者も、お互いの顔がよく見える状況で発行され、すぐさま感想やアドバイスが返って来るという感覚は、とても大切だ。アナログかデジタルか、ということはさほど重要ではなく、読み手の顔を思い浮かべながら情報を編纂するプロセスこそがが貴重なのである。
*1:このテキストは、『まちに還すコミュニケーション:ちいさなメディアの可能性』(2011年3月)に収録されている内容に加筆・修正したものです。