まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

共食の場での自分と他者のふるまいの記録と分析から、 他者とかかわりながら生活すること(できること)について考える

(2024年7月16日)この文章は、2024年度春学期「卒プロ1」の成果報告として提出されたものです。体裁を整える目的で一部修正しましたが、本文は提出されたまま掲載しています。

背景

私は、「円環のなかを巡る」というタイトルで取り組んでいる卒業プロジェクト(以下「卒プロ」)を通して、私たちがどのようにして他者と時空間を共有することができているのか、どのようなコミュニケーション行動によって他者とともに過ごす時間がかたちづくられているのかについて解き明かしたい。他者と時空間を共有できるということに対して私が感じている稀有さやありがたさ、場を繰り返しつくることのできる不思議さの実感に着目し、繰り返し時間を共有できることの背景にある仕組みや人びとの関係性の表現の仕方、時間の流れの知覚について考えようとしている。
大学2年生の春学期に履修した加藤教授による「フィールドワーク法」という授業をきっかけに知った時間地理学の考え方は、自分自身がうまく言葉にできずにいた他者とのかかわりにまつわる悩みについて説明する新たな視座を与えてくれたように思った。ふり返れば、私はこれまで他者とのかかわりにおいて、簡単には他者と時空間を共有できないというような感覚や一対一で友人などと過ごす機会において相手の時間を奪っているというような感覚を持っていたが、それらの感覚に対してどのように向き合えばいいのかがずっとわからなかった。パスやバンドル、3つの制約などの考え方だけではなくて、時間から逃げ出すことのできない私たち一人ひとりが、地理座標のなかだけではなく時間軸のなかにパスを描き続けているという捉え方が、一人ひとりが生きていくうえで繰り返す無数の選択や他者とのかかわり方の個別具体性を捨象せずに扱おうとすることの根拠になっていることが魅力的に映った。それ以来、大学2年生の夏休みに取り組んだ「フィールド研究1」やグループワークとして取り組んだ「渋谷のプリズム(2秋)」、「一緒に食べよう(3春)」、「はこべるよろこび(3秋)」のすべてで、私は一貫して人びとの時間供出のこだわりや時空間を共有するまでの段取りと制約などについて関心を持ち続け、それを表現しようと試みてきた。
時間地理学は地理学者のトーシュテン・ヘーゲルストランドが興した考え方であり、日々の暮らしやそのなかで繰り返される移動やあらゆる出来事について考える際に時間軸を取り入れて検討するべきであるとする考え方である。たとえば、大学のとある授業を履修している学生とその授業の先生が教室に集い、滞りなく授業が行われるということひとつをとっても、授業が行われる日時と場所があらかじめ共有されており、その授業に向かって各々がそれぞれの段取りと道のりを経て大多数が同じ場所に集うことができてはじめて実現しているのである。このように、日常生活のあらゆる出来事がこのような移動の段取りの繰り返しによってかたちづくられていることはあたりまえのように感じられるが、あらゆる出来事の背後にある段取りや移動手段の検討など、他者と時空間を共有するまでにかかるコミュニケーションや段取りの計画性、前後の予定との兼ね合いなどについて、ふり返ってじっくりと考えたり誰かと議論したりする機会は限りなく少ない。多くの場合、場がつくられるまでの背後にある手続きは、その努力を見せまいとすることが美徳とされているとすら感じる。しかしながら、私たちは日々段取りの繰り返しによって他者とかかわり合っていると考えると、他者との時空間の共有は必ず段取りとセットであることがわかる。すなわち、私たちが生きる時間の多くの部分が普段共有されることの少ない段取りに費やされており、段取りも私たちの生きる生活時間のうちの多くを占めていると捉えることができる。だからこそ「時間地理学」の考え方を起点に、私たちの日常生活や他者との時空間の共有がどのようにして可能になっているのかについて考えることを私は自身の卒プロとしたいと思った。そして、このことについて考えることが、これからも多様な他者とともにかかわりながら生きること、互いを大事に保ちながら、それでも他者とささやかにかかわり、ときに影響し合いながら日々を暮らすことに対する希望や期待に接続するといいなと思っている。
また、時間地理学では、他者と時空間を共有している状態を、ひとりのパス(行動経路)が他者のパスと結びついてバンドル(束)をつくっている状態と表現する。このとき互いのパスは平行を保ったまま垂直方向に伸びていくと表現される。しかしながら、実際に他者と時空間を共有しているとき、互いのパスが平行を保っているとは考えにくい。私たちには他者と対峙し言葉を交わしていながらなにか別のことを考えたり次の予定の段取りを組み立てたりしている瞬間がある。バンドルがつくられている状態であってもその状態は一様ではなく一人ひとりのパスはつねにひとりでまたは互いに影響しあって揺らいでいるように感じる。つまり、ふたつのパスが物理的な空間の移動を経てバンドルを形成している間にも、さらに細かいバンドルを形成するためのコミュニケーションが不断に繰り返されていると私は捉えている。

時間地理学が表現する平行を保ったバンドルの状態を記録し分析することは、時間を供出してつくられる場がどのようにかたちづくられているのかをより細かいスケールで明らかにするだけではなく、物理的な移動を伴って形成されるバンドルのつくられかたについてもなにか興味深い示唆をもたらすかもしれない。バンドルが形成されてさえいれば同じ熱量でその場に向き合っていると捉えがちな他者とのかかわりについてさらに詳細に捉えたり表現したりしようとする試みを通じてこそ、「私たちがどのようにして他者と時空間を共有することができているのか」「どのようなコミュニケーション行動によって他者とともに過ごす時間が形づくられているのか」という素朴な問いに対する自分なりの納得のいくこたえと向き合い方を見つけ、他者と時空間を共有できることの不思議さについての理解の解像度を高めることができるのだと思う。私が時間地理学の考え方に惹かれた背景には、時間地理学が一人ひとりの日常生活のパスの個別具体性を個別具体的なまま扱おうとする視座を大切にしているところにあった。バンドルにさらにクローズアップし、バンドルの「ゆらぎ」を捉えようとする試みは時間地理学が持つ、個別具体性を保ったまま人びとの暮らし方を捉えようとする視座と合致し、より個別具体性を担保することにつながるのではないかとも考えている。バンドルの中で行われているコミュニケーション行動についてまでを含んで時間地理学の分野の検討材料とすることは、バンドルへ向かうパスの特徴やバンドルが解かれた後のパスの特徴などについても新たな視座を与える可能性を持っている。ほかにも、繰り返されるバンドルの傾向についてもバンドルの中でのコミュニケーション行動がその背景にあるかもしれない。時間地理学の考え方に対する私個人のこれまでの捉え方は、とくにパスとバンドルの関係についてどこかで「バンドルのためのパス」というような位置づけをしていたようにふり返る。多くの場合、バンドルがつくられたという事実だけが重要視されるけれども、その背後に必ずあるパスとバンドルの中でのそれぞれの個別具体的なふるまいが相互に作用し合いながらともに時空間プリズムをかたちづくっているのだという理解ができる。

これらのきっかけや背景を踏まえて、私の卒プロ「円環のなかを巡る」では、他者と時空間を共有できている場がどのようにして成り立っているのかについて検討することを決めた。小学校から高校まで一緒に学校生活を送った友人との共食の場における会話やふるまいを記録し分析することを通して、他者と時空間を共有できていること、共有している場でのふるまいや会話がどのようにして関係性を表現したり伝達したりして次の共食の場へと接続しているのかなどについても検討したいと思う。

他者とのバンドルがつくられる場面にはいろいろなバリエーションがあるが、そのなかでも共食の場に限定して検討したいと考える理由はいくつかある。
まずひとつに、協力者との普段のバンドルをふり返ると、ともに高校を卒業してからも1・2ヶ月に一度のペースで待ち合わせの約束をし、会ってごはんを食べることを通してゆるやかに関係が続いてきている。小学生のときは一緒に給食を食べ、中学生・高校生のときは一緒にお弁当を食べた。ふり返ると協力者とともに過ごしてきた時間の多くに食事という行為が介在している。普段のかかわり方に近いフィールドを観察することを通して卒プロに取り組みたいと思った際に、共食の場が最も適していると考えた。
もうひとつの理由として、大学2年生の春学期から所属している研究会での活動のなかで、一緒にごはんを食べることや一緒に料理をすることによって発生するコミュニケーションやそのような場において自然と変わる私たちのふるまいなどについて考える機会がたくさんあったことが背景にある。私はそれまで、共食の場が他者との他者をちかづけるというような考え方にはある種懐疑的ともいえるような考えを持っていたが、共食の場について考える機会を重ねたことによってその理解が変容していった。共食の場を持つことが簡単に他者と他者の距離を縮めるというような単純な理解ではなく、共食の場を持とうとする背景にある場づくりのための努力やコミュニケーションをも含めて、共食の場がコミュニケーションを促すポテンシャルを持っていると捉えるべきだったのだと気がついた。そのことは、やはり時間地理学のパスとバンドルの考え方にリンクしている。共食の場に対する理解の変容や深まりという点からも、共食の場を卒プロに取り組むうえでの調査のフィールドにしたいという気持ちがふくらんでいった。

「卒プロ1」を通して考えたこと・見えてきたこと

春学期を通して取り組んできた「卒プロ1」では、卒プロの背後にある自分自身の問題意識や卒プロを通して見たいと思っていることについてより具体的で明確に捉えようと試みてきた。その方法は、春学期が始まる前の2月と、春学期が始まってからの4月に協力者である友人との共食の場を試験的にビデオで記録し、そのデータを手がかりにフィールドの設計について検討を重ねてきた。そして、研究会の授業時間内に卒プロの進捗を共有する機会をいただき、研究会メンバーに向けて4回卒プロの進捗を共有し意見をもらうことができた。このようにあらかじめ設計された研究会の仕組みによって私の卒プロ1は支えられ、かたちづくられてきた。秋学期は、研究会の仕組みに沿って進めるだけでなく、より主体的に卒プロを進めていきたいと思っている。研究会での発表を行う際に一度進捗や足踏みの様子をふり返りまとめるという作業が生まれたことによって私自身が卒プロで何を見ようとしているのか、現時点のフィールドの設計でそれを見ることができるのかなどを客観的に捉え直すことができた。そして、卒プロを通して向き合いたいと考える問題意識についていくつかの視点から整理することができた。それらを以下にまとめ、卒プロ2へと接続させていく所存である。

卒プロ1では、卒プロ協力者である友人との共食の場を試験的にスマホで撮影した動画を手がかりに、私が卒プロを通して見たいと思っていることや考えたいと思っていることについてより明確に捉えフィールドの設計について精査することを試みてきた。協力者には、大学の卒プロの一環として一緒にごはんを食べている場面をビデオで記録し、そのビデオ内での会話や身体的な動作を分析したい旨を事前に伝えている。またそれらの内容が公開される可能性のあることについて了承を得ている。公開を躊躇するような個人的な内容の会話などについては協力者にその都度確認を取りながら丁寧に進めているつもりである。

試験的に記録した共食の場は、2月21日(水)にマルイ溝口のおひつごはん四六時中というお店でごはんを食べたときに記録した26分41秒の動画と、4月15日(月)にスシロー新宿西口店でごはんを食べたときに記録した27分18秒の動画の2回である。図1と図2が記録したビデオの画角を伝える資料である。

図 1:2024年4月15日スシロー新宿⻄口店での協力者との共食の様子 

12024415スシロー新宿⻄口店での協力者との共食の様子

図 2:2024年2月21日マルイ溝口おひつごはん四六時中での協力者との共食の様子 

この2回の共食の場の記録をもとに、協力者との共食の場がどのような構造をしているのかについて検討し、フィールドの設計をより良いものにするためにあらゆる視点から考えてきた。協力者との共食の場の構造については複数の視点から捉え理解することができることに気がついた。それらの視点を以下に提示し説明する。

1.     会話で待ち合わせる
試験的に記録した1回目のビデオを何度か見返すなかで、協力者と私とで繰り返される会話のなかに「待ち合わせ」をしているように感じられるふるまいがあることに気がついた。なにげない会話のワンフレーズによって暗黙のうちに待ち合わせ場所が指定され、そのワンフレーズをきっかけに、そのフレーズが内包する出来事やその時共有していたであろう感情を現在の共食の場へと引っ張ってきている。たとえば、1回目のビデオでは、記録を開始して早々に、ビデオの撮り方や卒プロの一環で2人の間の会話や身体動作の分析をしたいという旨を再度協力者に伝えている場面がある。(実際のシーン:https://drive.google.com/file/d/1nC9MqMtnmKla9dLkifC13a1862sClgkZ/view?usp=drive_link)そこでの会話では、卒プロへの協力に対する了承と受け取れる協力者の「いいよ」という返答のすぐ後に「前の焼肉みたい、撮った時、おもしろかった」という言葉が続く。ここでの「前の焼肉みたい、撮った時、おもしろかった」というフレーズが、のちに見返した際に会話のなかでの待ち合わせ場所を指定するキーフレーズとして作用しているように感じられた。私はそのあとに「あああ、タイムラプスとかで、あれ結構見てた、めっちゃ食ってんなあ、みたいな」と間髪入れずに返答している。ここでは、会話によって指定された待ち合わせ場所に私が瞬時にたどりつき合流している。正しい待ち合わせ場所に辿り着いたことは、私が「タイムラプスとかで」と発言したすぐあと、私の「あれ結構見てた、」という発言の前に協力者のよる「ね、あれ楽しかったよね」という言葉が重なってくることからも確かめることができる。ここでの待ち合わせ場所は、この時の共食の場よりも過去に協力者と私ともう二人の友人たちと一緒に焼肉を食べ、その際に肉を焼いたり食べたりする様子を終始タイムラプスで記録していたという共通の体験、さらにはそのタイムラプス動画をその後ともに見返しおもしろさを共有したという体験のことを指し示していた。私のスマホに保存されていたタイムラプスの日付を確認したところ、なんと5年以上も前の2018年12月21日の出来事だったということがわかった。(タイムラプス:https://drive.google.com/file/d/1c2PD1C04s3JYfeSpKih77BoLLSJcPbQo/view?usp=sharing

2.     「移動を伴わない待ち合わせ」から「座ったまま繰り返される旅」という見方へ
「会話で待ち合わせている」という視点で協力者との共食の場について捉える視点を得たことによって、私たちは共食の場のように自分たちが物理的に同じ場所に留まっている間、すなわち垂直にパスを描いている間にも、会話によって現実に居る場所とは異なる場所や時間に行くことができると考えられるようになった。それはつまり、移動せずとも会話によっていろんな場所へワープできるというような捉え方である。このような見方を卒プロメンターである加藤教授に共有した際に、移動せずとも待ち合わせができているというよりも、物理的な移動をしていないだけで私たちがつねに移動し続けているというふうに見ることができるのではないかという意見をいただいた。いただいた意見を踏まえて改めて考えてみるとたしかに物理的な移動をせずとも移動を続けているという見方は時間地理学の人は生まれてから死ぬまでパスを描き続けているという考え方にも沿っているように思えた。つまり、「移動を伴わない待ち合わせ」ではなく「座ったまま繰り返される旅」と表現することがしっくりくる。このように捉えると、私たちは座ったまま描く垂直方向へとまっすぐ伸びる地理座標に対応したパスと、地理座標を無視した会話による移動によって描かれるパスの2本を並行して描いていることになる。これは、時間地理学が人は生まれてから死ぬまで「1本」のパスを描くという考え方に新たな視点を提示することになるのだろうか。ヘーゲルストランドの言う「もちろん、一人の個人が同時に複数の役割を果たすということも、ときにはありましょう。しかし、異なる役割を同時に果たすことは難しいのが普通です。それぞれの役割は、一定の時刻、一定の場所で、他の一定の人々および道具と結びついた上で、一定の長さの時間の中で実行されます。」(荒井ほか, 1989)という言葉についても考える余白があると思うが、現段階ではこの部分に感じている違和感をうまく捉えきれていないため、引き続き考えていく所存である。

3.     バーチャルステーションを持っている
協力者とのこれまでの関係性や親密度から、協力者とならば何度でも共食の場をつくり出せるという実感がある。そのことがこの卒プロに協力してもらいたいと思った理由でもあった。このような感覚は、「バーチャルステーションで会っている」という感覚、会っていないときでも自分のアクセスできる場所として「バーチャルステーションをつねに持っている」という感覚というような表現ができると考えている。
協力者である友人とは、高校を卒業してからも1ヶ月から2ヶ月に一度のペースで時空間を共有する機会をともにつくりながら関係性が続いてきた。会う場所は2人の予定をすり合わせた際に都合の良い駅周辺の飲食店になることが多く、駅で待ち合わせをしたあとにぶらりと歩きながらごはんを食べる場所を一緒に探すという流れが多い。会う場所の地理的な位置は会う時々によってちがうけれども、2人とも会う場所に大きなこだわりがあるわけではないと感じている。ときに、互いに「近いうちにまた会おう」という流れになったときにどこかで会いたいけれど場所を決めるのが億劫だと感じていることを共有している瞬間がある。また、どこで会ったとしてもいつも安定的に同じようにコミュニケーションをする空間をつくり出せているという感覚もある。すなわち、これまでのバンドルをふり返ると、会っている場所の地理的な位置は複数あり、バンドルは地理的な広がりを持ってつくられているものの、感覚的にはいつでも同じ場所にアクセスしている、同じ地理的な位置でいつも会っている。時間地理学の用語で、家や学校などの地理的にいつも同じ場所にあって停留する場所のことを「ステーション」と呼ぶ。これらのステーションは「結合の制約」の際の場所となることもあるし、「権威の制約」によってそこにアクセスできる人や時間帯が制限されていることがある。「ステーション」は物理的に存在し地理空間を占有することが「ステーション」としての条件である。しかし、この卒プロにおいて、協力者と時空間を共有する場は、とある場所が変わらずにあり続けるという意味において「ステーション」っぽさを持っている。あるいは私自身が「ステーション」っぽさを感じている。この感覚をもとに、協力者と時空間を共有する場所を構造的に捉えるひとつの視点として、「バーチャルステーションで会っている」、「バーチャルステーションをつねに持っている」と表現することにした。 

4.     学校教育によってかたちづくられていたバンドル
「バーチャルステーション」という捉え方について、その感覚的な捉え方の理由を協力者とのこれまでの関係性の蓄積において検討した。協力者とは小学校から高校までともに学校生活を送り、高校卒業後から現在までは1か月から2か月に一度のペースで会いながら関係性が続いてきたと何度か説明してきた。研究会のメンバーに向けて卒プロの進捗を共有する際に、私は協力者との関係性について「小中高の友人で」というフレーズを頻繁に使っていたとふり返る。この言葉選びからもにじみ出ているように、同じ学校でともに学校生活を送ったという事実が「またバーチャルステーションで会える」という実感や「バーチャルステーションで会っている」という感覚の背後にあるのではないか。ヘーゲルストランドも「結合の制約」についての説明の部分で、学校教育について触れてこのように述べている。「学校では、情報とアイデアをやり取りするために先生と生徒がバンドルを作ります。バンドルはさまざまな原理によって形成されます。たいていの場合は、バンドルはあらかじめ毎週同じように決められたスケジュールに従います。工場や学校で取られている原理は個々の参加者の都合を斟酌しません。彼らにとって自由になるのは仕事の種類や場所を選ぶ段階までです。いったんそれを選んでしまえば、契約を続けようとする限り、あとは上司の振付けに従うほかありません。また、学校へいっている子供は、たいていの場合、学校を選ぶ自由すらありません。」(荒井ほか, 1989)
つまり、小学校から高校までの12年間、私は学校とのバンドルを結ぶ必要があった。協力者も同様に協力者と学校とでバンドルを結ぶ必要があった。その必要性、すなわち時間地理学でいう「結合の制約」を土台にして、協力者と私はバンドルをつくっており、バンドルのつくりやすい環境が学校教育の仕組みによって整備されていたと捉えられる。このように考えると約16年間の協力者との関係性の4分の3の時間は学校教育に支えられてバンドルをつくっていた。12年間の束ねられ続けていたパスが高校卒業と同時に解かれたと捉えると、大学2年生の春学期に履修した「フィールドワーク法」で紹介された時間地理学に私が惹かれたのも、小中高の友人に卒プロの協力を依頼した理由も、12年間のバンドルが解かれたことによる寂しさや、学校教育に支えられずに自力で他者とバンドルを結ぶことの難しさを痛感し、それに対して向き合いたいと思っていたからなのかもしれない。与えてもらった小中高一貫校という環境によって私の他者とのかかわりは支えられていた。

卒プロ2に向けて

以上に提示したいくつかの視点は、普段ビデオによって記録することのない、何気なく他者と時空間を共有しているような場面である共食の場をあえてビデオによって記録しそれをじっくりふり返り観察することによって得ることのできた気づきであると考えられる。時間地理学においてもパスが常に垂直方向に描かれ続けるように、つねに時間は流れ現在は過去になり未来へと向かっていく。日常生活は他者との時空間の共有とそのための調整の連続であることから、一つひとつのコミュニケーションをじっくり味わっている暇などないのかもしれない。時空間が共有されて行われる活動についてビデオによって記録されたものが編集されたのちに再生され、ふり返ることはあるけれども、編集せずにコミュニケーションに費やされた時間と同じ長さの時間を割いてコミュニケーション行動についてふり返る機会は少ないのではないか。そして、過ぎ去った時間をじっくりとふり返る試みにこそバンドルがつくられている間の自分と相手の振る舞いについての新たな理解を得る材料が埋め込まれているのだと考える。
そのため、フィールドの設計については、試験的に記録したように共食の場をビデオによって記録することに加えて、その記録したビデオを後日協力者とともに見返す機会をつくる。卒プロ1の段階では1人で2人の共食の場のビデオを見返して考えていたが、協力者である友人に2人の共食の様子をふり返る部分にも協力してもらうことを決めた。そしてともにビデオを見返している様子についてもビデオによって記録する。研究会での発表の際、私の視点に偏って、協力者との共食の場の構造の捉え方について話す機会が多かったため、その見方や感じ方は協力者とどの程度共有していると思うか、などの質問をもらうことが度々あった。ともに時空間を共有して、時空間を共有していた場面をふり返ることによってお互いのふるまい方に説明を加えたり感覚を直接的に共有したりすることが可能になるのではないかと期待している。

さらに、このようなフィールドの設計が興味深いと感じているのは、2人の共食の場を2人でふり返ること自体が、関係性の持続を意味していることである。「あのとき」のふるまいを時空間を共有しながらふり返ろうとしていること、ふり返ることができると思っていることがすでに「あのとき」以降も関係性が続くことを前提または期待している。そして、時空間を共有して「あのとき」をふり返ることは、ともに「あのとき」を再び味わえることだと考えてみることができる。それはすなわち今このときに充足したいけれども充足する前に時間が流れてしまうという感覚に対して、その気持ちを未来から過去に戻ることによって満たすことを可能にする設計であるとも捉えられるのではないだろうか。

卒プロ2では、卒プロ1において精査したフィールドの設計に沿ってフィールドをつくり、本格的な分析の素材となるデータをつくるところからはじめたい。そして、データの分析を通してまた新たに見えてくる視点を取り入れながら、研究会の人たちと一緒に考える場をもっとつくれたらいいなと思っている。自分自身のふるまいかたによってそのような場を積極的につくり、納得できるまで考え尽くす所存である。

参考文献
  • 荒井ほか(1989). 生活の空間 都市の時間 古今書院

(篠原 彩乃|Ayano Shinohara