まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

フィールドワークの課題をデザインする

目次

課題をつくる

フィールドワークやインタビューに代表される質的(定性的)な調査法は、現場での実践を重ねながら、ある程度の時間をかけて学ぶ性質のものだ。調査法の教科書はたくさんあるし、実践事例は興味ぶかい「読みもの」としていくつも刊行されている。だが、大事なのは教科書と実践事例の「あいだ」を体感することだ。なにより、じぶん自身の感性にしたがってまちを歩き、さまざまなものやことを眺め、人と語らう。フィールドワークという方法や態度を、少しずつ身体になじませていくのが望ましい。そのためには、ムリをすることなく、それでいて途中で投げ出すことのないような「よい課題」があるといい。

大学の教員になってから、フィールドワークの実習課題をデザインすることを、ぼく自身の役割として意識するようになった。それには、じぶんが調査者としてまちに出かけるのとはちがった思考様式が求められる。課題のデザインについて考えることで、自らのフィールドワークの方法や態度を、あらためてふり返るきっかけになるのだ。よくよく考えてみると、どのようにしていまのようなものの見方、やり方が培われてきたのか、上手く説明することができない。フィールドワークの経験を重ねながら、少しずつ姿勢がつくられてきたように思う。後述するように、課題をデザインすることは、たんに学生たちにきっかけを提供するだけではなく、ぼく自身が、教員としてこれまで辿ってきた道筋を俯瞰し、批評的にとらえる機会として理解することができる。

フィールドワークの難しさや楽しさは、現場に出かけてこそ実態をともなう形で体験することができる。だから、課題の善し悪しは、そもそも、ある程度は現場に委ねられているといってもいい。現場との出会いしだいで、課題に取り組む態度も変わるはずだ。重要なのは、ガイドブックを片手に、あらかじめ決められた場所を目指してまちを歩くのとは、本質的にちがうという点だ。フィールドワークは、むしろ、じぶんをとりまく現場との応答のなかで、歩き方も行き先も決まってゆく。その意味で、対象となるエリアや、考えてほしいテーマ(着眼点)を大まかに伝えることにして、あとは、学生たちにまかせるのだ。

じつは、この「大まかに」というのが、実習課題をデザインする上で難しいところだ。事前に詳細を決めて、課題を構造化しすぎると、先が見えてしまうからだろうか、「もっと自由にやりたい」という意見が出る。そういった意見を受け容れて「自由」にすると、こんどは「どうすればいいかわからない」という反応になる。課題としての難しさと、取り組むさいの柔軟性をバランスよく整えると「よい課題」になるのだろう。理屈ではわかっていても、そのような課題をデザインすることは難しい。

当然のことながら、時間的な制約にも影響を受ける。時間がかぎられているなら、ある程度は構造化しておかないと路頭に迷う。いっぽうで、時間に余裕があれば、「自由」に発想しながら試行錯誤をくり返すことができる。おそらく、ぼくたちが課題に向き合うときには、時間的な余裕と、課題の構造化の度合いによって、「ムリだ」と思って投げ出したり、「退屈だ」と感じて手を抜いたりする。ぼくは、毎学期、「ムリ」と「退屈」のバランスを勘案しながら、課題のデザインを試みることになる。

対象地(エリア)やテーマ(理論的な関心)は、毎学期、ちがうかたちで課題に仕立てているが、以下の3点については、いつでも考えるようにしている。これまでにつくってきた、さまざまな課題に共通する目的(あるいはデザインの方針)だといえるだろう。

(1) 習慣化する

まず、ぼくがフィールドワークの課題をデザインするさいに考えるのは、調査を習慣化することだ。ぼくたちの日常生活の多くは、思っている以上に規則的でルーティン化されている。たとえば大学生であれば、時間割や学事日程によって、一週間の移動や行動範囲が概ね決まってくる。アルバイトや部活などの予定は、「空きコマ」との調整によって決まっている。それがいわば「あたりまえ」の時間の流れをつくっているので、そのなかに、あらたにフィールドワークのための「余白」を見いだすことは難しいのかもしれない。

フィールドワークは、現場にたびたび通い、少しずつじぶんの身体をなじませてゆくプロセスによって成り立っている。だから、(容易ではないものの)いま述べた「あたりまえ」の日常をとらえなおして、じぶんの生活時間を調整・再調整することが求められる。フィールドワークの実習課題は、そのやり方について、いろいろと工夫する機会として位置づけている。もっとも単純なのは、自らの規則的な暮らしをわかりやすく、大きく変容させることだ。参与観察のためにアルバイト先を変えること(働く現場を調査対象にする)、フィールドワークに充てる曜日と時間帯をあらかじめ決めること(たとえば毎週水曜日の午後に現場に赴く)など、思い切って決めてしまえば、それがあらたな「あたりまえ」となってじぶんの生活の一部になる。要は、決断と実行力(実現力)だ。

現場の状況は、フィールドワークをすすめればすすめるほど、わからなくなる。それほどに、人びとの日常生活は複雑で起伏に富んでいる。だが、その〈生〉に関心を寄せているなら、しばらくは地道に続けてみるしかない。必要以上に「こたえ」を求めようとせずに、ひとまず「問題解決」などということばは忘れて、現場に没入することだ。それは、じぶんの生活と調査を切り離して考えずに、自らの暮らしと調査研究を一体化させることだといえるだろう。〈生きる〉こと自体が、幾度とない試行錯誤によってかたどられている。つまり、くり返される毎日が「知ろうとする」行為と結びついているということだ。とりたてて構えることなく、日常生活のなかにフィールドワークという営みを取り込んでいくことができればいい。方法はいろいろ考えられるが、研究と生活を切断することなく、むしろ一体化させる意味でも、フィールドワークを習慣づけることを意識してみることだ。

フィールドワーカーは、現場で見聞きしたこと、感じたことなどを記録する。いわゆる「フィールドノート」は、そのときのようすを再現するための手がかりになる。もちろん、現場は一回かぎりのもので、すべてを記録することはできないし、もう一度おなじ現場に出かけることはできない。だが、できるだけ記憶が鮮明なうちに、現場での感情の流れなどもふくめて記録しておこう。「フィールドノート」を綴ること、調査の経過を記録することも、ムリはせずに習慣化するよう心がけるといい。かならず、あとから記録に助けられる場面に出会う。

(2) グループで取り組む

フィールドワークの課題は、いずれもグループで取り組むことを想定してデザインしたものである。そもそも、卒業論文や卒業制作にかかわる調査は、一人ですすめるものだという理解が一般的だろう。より具体的に、ぼくが担当している「研究会(ゼミ)」活動においては、一人で「卒業プロジェクト」に取り組むことになっている。つまり、4年生になると、着想から調査の計画、フィールドの選定、調査の実施、結果の分析・解釈、成果のまとめにいたるまでの一連の手続きは、一人ひとりが自立的・自律的にすすめることが期待されている。その意味では、2、3年生のころから個人研究をすすめて、基礎を身につけたり予備調査をおこなったりしながら、「卒業プロジェクト」の準備をしておくやり方もある。実際に、2、3年生のうちから個人研究をすすめたいという声もある。だが、ぼく自身は、グループワークこそが、フィールドワークやインタビューという方法や態度の素養をつくるのに役立つと考えている。

グループワークという話になると、メンバーどうしの日程調整が上手くいかず、なかなか一緒に活動できないという意見を聞く。一人の場合でさえ「余白」を見つけて習慣化するのが難しいのに、メンバーで一緒にフィールドワークをすることなどできるのだろうか。グループですすめていると、一人ひとりの「熱量」のちがいも見えてくる。とくにあたらしいメンバーは、慣れないこともたくさんあって様子見をしがちで、さほど能動的にかかわろうとしない。当然、意欲的に向き合おうとしていた学生は水を差された気持ちになるし、全体の士気は下がる。「社会的手抜き」や「タダ乗り」といったことばで語られるようなふるまいが、目につくこともある。

重要なのは、こうしたグループワークをすすめるなかで生まれがちなストレスは、課題が指定している内容(対象地やテーマ)ではなく、コミュニケーションや人間関係のありように根ざしていることが多いという点だ。そもそも、フィールドワークやインタビューは、人とのかかわりを求めるところからはじまるものだ。

だから、コミュニケーションや人間関係についての感度を高めることがとても大切だ。グループワークをとおして、ごく身近な人(おなじ「研究会」のメンバーという時点で、すでに同質的で関心領域は多少なりとも共通しているはずだ)との関係を培うことは、さらに広い文脈で、現場の人びとの多様さに触れるための準備になる。

いま、「研究会」のメンバーは同質的だと書いたが、実際に一緒に活動してみると、一人ひとりの個性にも出会う。いうまでもなく、おなじテーマであっても、3人いれば、向き合い方は、三者三様。それぞれのものの見方や考え方が、フィールドワークの現場で合流することになる。

フィールドワークの課題は、その「問い」に合理的・効率的に応えるためだけのものではない。じぶんのものの見方や考え方を、他者(グループのメンバー)をとおして再認識し、さまざまなもの・ことを相対化して位置づける感性の開拓につながる。

(3) メディアをつくる

さらに、フィールドワークの経過やえられた知見などは、かならず「ちいさなメディア」にまとめることにしている。メディアといっても、それほど凝ったものである必要はない。一学期間というわずか3か月ほどであるものの、学期ごとにあらたにグループが編成され、課題に取り組むところから、さまざまな試行錯誤を経て最終的な成果をまとめるところまで、ひととおりの流れをふまえて文章化する。

大著をものするわけではないが、学期ごとに調査のことを綴っておくことで、つぎの課題をデザインするさいに役立つという実用的な価値があることに気づいた。もちろん、じぶんたちの関心領域や活動内容を紹介する役割も担う。ちいさな冊子として印刷・製本しておけば、現場で出会った人びとに配ることもできるし、自身の「ポートフォリオ」の一部にくわえることができる。成果発表の展覧会では、来場者への「おみやげ」になる。もちろん、紙媒体にかぎる必要はないので、ウェブなどを介して閲覧できるようにしておけば、より多くの人びとにフィールド調査の成果が届くはずだ。

短期的な実用性ばかりではない。15年ほど続けてきて、ちいさな冊子が、後から参照することのできる大切な「資産」になりうることを実感している。この感覚をえるのに、15年かかった。フィールドワークにおける発見や気づきが、後になって重要な価値を生み出すことがある。もちろん、すべてを記録・保存することはできないが、とにかく地道に積み重ねてゆくことを目指して、記録を続けてみよう。

数年経ってから、じぶんの書いた文章を読むのは、どこか気恥ずかしい。「若書き」であったと、じぶんで書いておきながら不勉強であったことを思い知る。だが、不思議なことに、文章を読んでいると、当時の熱量のようなものは、思いのほか克明によみがえってくる。そして、気恥ずかしさを受け容れつつ、当時のじぶんと「出会いなおす」ことは、重要な意味をもつ。今回、これまでにじぶんが書いてきた文章を順番に読んでみた。いろいろなテーマを扱ってきたようで、案外、似たようなことをちがう言い回しや光の当て方で考えてきたことに気づいた。じぶんは、何に関心をいだき、どのように向き合ってきたのだろうか。

結局のところは、コミュニケーション、移動、集まり、場所(場づくり)、メディアといったキーワードで性格づけられるようなテーマで課題をつくり、学生たちに問いかけてきたのだと思う。10数年、「手を変え品を変えて」いろいろな課題をデザインしてきたが、やはり通底するテーマがあり、これからも考えていきたい概念がある。この実感をえたのは、「研究会」での活動を、適宜「ちいさなメディア」としてかたちにして、残してきたからだ。

「ふだん記」と呼ばれる文章運動をすすめた橋本義夫は、「有るは無きに優る」というフレーズで、書くこと・残すことの重要さを説いた。たとえば文章を冊子に定着させておけば、つまり、有れば、ページを繰りながらもういちど大切なテーマを考えることができる。無ければ、それは容易ではなくなる。

課題から学ぶ

いち教員として、あたらしい学期をむかえるたびに、フィールドワークやインタビューについて実践的に学ぶための課題を考える。いま述べたとおり、いつも3つの目的を意識しながら、実施可能な課題として具合化を試みる。最終的に、学生に課題を紹介するときには、実際の学事日程のなかに上手く収まるように考えなければならない。

学生たちにとっては、学期をとおして取り組むグループワークの課題だが、じつは、課題をつくる側のぼく自身にとっても、大切な学ぶ機会をもたらす。ぼくが課題というかたちで投げかけた「問い」に、学生たちがどのようにこたえようとするのかをとおして、ぼく自身が、対象や方法に対する理解を更新しているからだ。そう考えると、課題を〈出す=出される〉という関係そのものの理解を再考する必要があることに気づく。つまり、フィールドワークの課題は、教員から学生に一方的に届けられるものではない。実習課題は、ぼくたちのコミュニケーションを促すための仕組みなのだ。実習課題は、学生どうし、あるいは教員と学生たちが、現場に触れながら、それぞれの感情を合流させるための場所をつくる。課題は、その対話をはじめるための合図にすぎないのだ。大学の演習科目である以上、定期的に「はじまり」や「終わり」が訪れるが、それは学事上の(便宜的な)区切りであって、おそらく「問い」と「こたえ」のやりとりは、絶えず続いてゆくはずだ。

すでに述べたとおり、多少なりとも目途が立って先が見えてくると、学生たちは「そつなく」成果をまとめようする。あまりにも複雑で面倒な「問い」だと、気乗りしないからか、グループワークが後回しになりがちだ。つねに、「ムリ」と「退屈」のあいだに、ちょうどいい案配の課題設定を求めているつもりだが、これは実際に試してみないとわからないことが多い。ある課題に手応えを感じたとしても、それは、さまざまな条件が整っていたということだ。つまり、「よい課題」をつくり続けるためには、さらに広い文脈で課題のことを考える必要がありそうだ。

いうまでもなく、学生たちは、毎学期入れ替わってゆく。一人ひとりの意欲や能力だけでなく、同期や先輩後輩など、誰とともに課題に取り組むかによって、コミュニケーションの道筋は変わる。また、15年という範囲でふり返ると、その間、社会環境は変化してきた。ここ数年は新型コロナウイルスの感染拡大で動きが制限され、フィールドワークやインタビューなどはもちろんのこと、人と対面で語らうことさえできない時期があった。学生たちの気質も少しずつ変わっている。2010年にフィールドワークの課題に取り組んでいた学生たちは、いまでは40歳近くになり、「若手」として勤めはじめた当時のぼくの年齢に達しようとしている。そう考えると、課題のデザインも、こうした変化をふまえて再構成することが求められているのかもしれない。

たとえばここ5、6年で、学生たちの「コスパ」「タイパ」志向が高まっている(新型コロナウイルスの感染拡大の影響下でオンライン講義が続いていたことがその志向を強めているのかもしれない)。フィールドワークやインタビューは、そもそも「コスパ」や「タイパ」とは縁遠い方法だ。その本質を学ぶために、固持すべきことは何か、あるいは、時代に合わせて調整すべきことは何か。時代の変化をふまえながら、フィールドワークの課題のありようを考えていく必要があるだろう。

半期ごとに綴じる

あたらしい学期をむかえるとき、テーマやフィールドワークの対象地(対象エリア)を決める。一学期(実質的には三か月ちょっと)という短い期間で、ひとつの課題を終えることになるので、いささか慌ただしい。ぼく自身としては、少なくとも1年間、つまり二学期くらいはフィールドワークやインタビューといった定性的な調査法で実践を重ねてほしいと願っている。調査の性質上、そのくらいの時間をかけて学ぶのが自然だと思えるからだ。だが、いまの勤務先のカリキュラムとの兼ね合いで、半期ごとに「節目」を設けて、テーマを変えながらすすめるやり方に落ち着いた。

多くの大学では、ゼミ(人文・社会科学系についての経験にかぎられるが)は、3年生になったら所属して、2年間、同じ教員の指導を受けながら卒業論文や卒業制作へと向かう。いっぽう、ぼくの職場では、半期ごとに「研究会(ゼミ)」を履修するかたちになっている。研究会での活動を大学生活の中心に据えるのがカリキュラムの特質なので、制度上は1年生から履修できるし、制限はあるものの複数の研究会をかけ持ちすることもできる。もちろん、継続して履修できるわけだから、2年間(あるいはそれよりも長い年数)にわたってぼくの研究会で活動して卒業する学生も一定数はいるのだが、移動も少なくない。ことなる教員の研究会で学びながら、(じぶんの関心に応じて)複合的な分野に取り組むことができる、自由度の高いカリキュラムだ。

自由度が高いことは歓迎すべきことだが、フィールドワークやインタビューのような方法は、その本質を理解し、現場で実践できるようになるためには時間を要する。まずは現場に身を委ね、その直接体験をふり返り、言語化・概念化を試みた上で、ふたたび現場に戻る。このくり返しが、(フィールドワーカーとしての)感性の開拓に役立つ。そのためには、焦ることなく腰を落ち着けて現場に向き合うのが望ましい。カリキュラムとの整合性を保つために、ひとまず、学期ごとに「終わり」をむかえながらも、次学期、次々学期へと連続していくような課題をデザインすることを考えるようになった。

半期ごとにフィールドワーク(グループワーク)の成果をまとめてちいさな冊子をつくっているが、これまでの経験から、毎回立派な冊子をつくることはあまり現実的ではないと考えている。凝ったレイアウトで編集をすれば、見栄えも中身も印象的なものができる。だが、実際には学期の「終わり」に成果をまとめているうちに、次の学期の準備がはじまってしまう。半期ごとに着実につくり続けることを優先して、冊子の編集方針について考えた。続けることは大事なのだが、気持ちだけで続けることはできない。続けやすい(続けることができる)かたちを現実的にとらえるということが、続けるコツなのだ。

2010年の秋学期からつくっている冊子はA5サイズの長辺を少し(20ミリ)切った判型で、毎回20ページくらいのものになる。見かけは、学会誌の抜き刷りのようなもので、学生たちは、グループで3000字程度の文章を書く。ぼくが序文を寄せて、束ねて綴じる。このくらい簡素にしておけば、半年に一回、フィールドワークの経過や成果をまとめて出し続けることができる。くわえて、経過については、それぞれの学期のテーマごとにウェブをつくり、写真や動画などはアーカイブするようにしている。すべてを残すこと、残し続けることは容易ではないが、冊子とウェブがあれば、その時々の熱量をある程度は思い出すことができる。

A5版変型のちいさな冊子をつくりはじめてから15年になる。基本的にはおなじ判型、おなじくらいのページ数のもので続いているが、その間、判型を変えたこともある。3年前に新型コロナウイルス感染拡大の影響下にあって、思うようにフィールドワークに出かけることができず、窮屈な毎日に向き合っていたときには、気分を変えたくなって、A4版変型の正方形の冊子にした。状況が少しずつ好転し、これまでにつくった冊子を束ねて保存しておくことの利便を考えて、もういちど、元のサイズに戻すことにした。

参考:これまでにつくった課題(タイトル)

フィールドワーク テーマ一覧 - まちに還すコミュニケーション

  1. 早稲田・慶應・東大 ぐるり調べ(2010年 秋)   
  2. 法政・明治・立教 ぐるり調べ(2011年 春)
  3. まちのおみやげ (2011年 秋)    
  4. 常連になる(2012年 春)    
  5. 工夫と修繕(2012年 秋)    
  6. ちいさなトラック(2013年 春)    
  7. 引っ越しの準備(2013年 秋)    
  8. 渋谷をはかる(2014年 春)    
  9. 団地の暮ら(2014年 秋)    
  10. 爽やかな解散(A)(2015年 春)    
  11. 爽やかな解散(B)(2015年 秋)    
  12. いけずなまち(A)(2016年 春)    
  13.  いけずなまち(B)(2016年 秋)    
  14. 連れてって(2017年 春)    
  15. うごけよつねに(2017年 秋)    
  16. 的な(2018年 春)    
  17. 的な桜丘(2018年 秋)    
  18. 余白の理由(2019年 春)    
  19. 恵比寿の余白(2019年 秋)    
  20. チャラ(2020年 春)    
  21. ぎこちない距離(2020年 秋)    
  22. ちいさなメディア論(再訪)(2021年 春)    
  23. 100円ショップを「読む」(2021年 秋)    
  24. となりのエンドーくん(2022年 春)    
  25. 渋谷のプリズム(2022年 秋)    
  26. 一緒に食べよう(2023年 春)    
  27. はこべるよろこび(2023年 秋)    
  28. ダンチジン(2024年 春)