まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

生活のある大学(7)

カリキュラムとプログラム*1

数年前、学部のカリキュラム改訂にかかわった。現行の学部のカリキュラムは、40回くらいにおよぶ「新カリキュラム検討委員会」の会議を経て原案がつくられ、承認されたものだ。あるとき、同僚の(そして検討委員会メンバーの)内藤さんが、カリキュラムについて考えるために、〈OS(オペレーティングシステム)〉か〈アプリ(アプリケーション)〉かというアナロジーで話をしたことがある。というのも、何度も委員会を開いて議論しているうちに、「そもそもカリキュラム改訂とは、どういう作業なのか」という、基本的な問いに立ち戻る必要があると思われたからだ。

カリキュラムについて話をしていると、それぞれの教育理念や授業のすすめ方、開講科目の内容にかかわる議論もあるし、教室の利用、時間割の組み方にいたるまで、話が連鎖的に広がってゆく。学習環境を少しでもよいものにしたいという想いの表れなので、もちろんそれは歓迎すべきことなのだが、委員会の責任や権限を正しく理解しておかないと、作業がまとまらなくなる。言うまでもなく、ぼくたちにできることと、できないことがあるのだ。なにより、2014年度の春からあたらしいカリキュラムを運用できるようにという、時間的な制約のなかで作業をすすめる必要があった。

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【2017年6月1日(木)|SBCセンター:SBC合同研究会】


〈OS〉と〈アプリ〉という見立ては、いかにも今風(いまふう)だが、とてもわかりやすいと思った。つまり、ぼくたちが検討し改訂の提案をすべきカリキュラムは、〈OS〉のようなものなのだ。学部であれば、標準的には4年間をかけて必要とされる単位を取得し、卒業にいたるまでの道筋を決める手続きや決まりごとの「全体」が、カリキュラムという〈OS〉だと考えることができる。もちろん、たんなる科目の分類や進級・卒業要件を決めるだけではない。学生たちが滞りなく(間違えることなく)手続きを更新しながら、4年間の学修計画を立てられるように、まさに「全体」として考えなければならないものだ。(さらに、その下の〈レイヤー〉には、「大学設置基準」というルールが動いている。つまりカリキュラムは、「大学設置基準」と矛盾しないように動く〈OS〉だということになる。)

いっぽう、ゼミ(研究会)や講義、演習科目は、それぞれが〈アプリ〉だと理解することができる。それぞれの〈アプリ〉は、直接的、間接的にキャンパス創設の理念や学部の特色を映したものになるはずだが、具体的なテーマ(学習内容)の選定、教授法、課題の設計、評価のあり方などについては、基本的には一人ひとりの担当者の裁量に委ねられている。あたえられた〈OS〉で、上手く(矛盾なく)動くことを前提に設計されていればいいのだ。シラバスは、そのねらいやすすめ方の説明を形式化して公開するものだ。

じつは、ふり返ってみると、〈OS〉や〈アプリ〉に見立てた語り方は、ぼくが「墨東大学」や「三宅島大学」というアートプロジェクトにかかわったときに耳にしていた。アートプロジェクトを運営する「事務局」とのコミュニケーションを円滑にするための「ことば」を集めた冊子(ぼくが冊子を手にした翌年、『アートプロジェクトのつくりかた:「つながり」を「つづける」ためのことば』として書籍化されている)の序文で、森司さんが〈OS〉と〈アプリケーション〉に見立てて「事務局」の役割と機能について述べている。「事務局」という仕組みが安定的な〈OS〉として動いていればこそ、〈アプリ〉としてのさまざまなアートプロジェクトが、のびのびと活動を展開できるということだ。

ことばの使い分けについては、好みもあると思うが、いままでの議論をふまえて整理しておくのがよさそうだ。カリキュラムは、「大学設置基準」を前提に、科目履修などの手続きに構造をあたえる仕組み(仕方)を指すことばとして使いたい。前回の記事(キャンパスという「仕方」)で触れた内容にも関係するが、それは、ぼくたちが考えるさまざまな企画の実現可能性を決める、ルールの集合である。いっぽう、講義や演習科目は、カリキュラムを前提に実現する教育・学習にかかわる活動である。従来型の「授業」のやり方に限定されるものではないので、より一般性をもたせて、講義や演習科目(さらに他の開講形態や呼称が生まれる可能性もある)は、総じてプログラムと呼ぶことにしよう。

ぼくたちは、「滞在型教育」について語るとき、知らず知らずのうちに〈OS〉と〈アプリ〉を混同したり、両者のちがいを忘れたりするようだ。まさに「新カリキュラム検討委員会」でも起きていたように、カリキュラムかプログラムかという区別(もちろん両者は無関係ではないが)をせずに、話をすすめてはいないだろうか。まずは、ことばの使い分けに、もっと自覚的になったほうがいい。

「滞在棟」というあたらしい場所ができて、宿泊をともなうかたちの「滞在型教育」のありようを考えるとき、ぼくたちは、プログラムづくりに向き合っているのだ。つまり、現行のカリキュラムのなかに位置づけることができるような開講形態や運用方法を検討しているのであって、さまざまな提案は、カリキュラムそのものを変えようという話ではないはずだ。その意味では、従来からある多様なプログラムと本質的には同じだ。これまでも、カリキュラムを所与として、さまざまな授業のあり方が模索され、実験的な試みが続けられてきたからだ。だから、「滞在棟」にかかわるプログラムが、特別扱いされる必要はない。

あたらしい〈アプリ〉を手に入れようとするとき、じぶんが利用している(慣れ親しんでいる)〈OS〉に対応しているかどうかを確認するはずだ。そうしなければ、使えないからだ。〈OS〉と〈アプリ〉のように、カリキュラムとプログラムは分かちがたく結びついている。プログラムは、提案するだけではなく、実装されて「動く」ことがなければさほど価値はないだろう。理想や夢に導かれたプログラムが「話だけ(口だけ)」で終わらないように、実際に動かすために、カリキュラムの成り立ちについて、もっと勉強しなければならない。

たとえば、カリキュラムの基本的な構造を成り立たせている重要な側面のひとつは、時間(時限)の扱いだ。カリキュラムによってかたどられる時間割は、時間単位で〈モノ・コト〉を分節化する思考を促す。というのも、大学における単位認定は、授業の内容や開講形態によって運用にちがいはあるものの、基本的には「一単位の授業科目を45時間の学修を必要とする内容をもって構成すること」として「大学設置基準」によって具体的に定められていているからだ。つまり、学生が(前期・後期の2学期制のカリキュラムにおいて)半期に20単位を認定されるためには、単純に計算して900時間の学修が必要になる。これを半期・15週間という学事日程を前提に考えると、1週間に60時間は学業に勤しむ(はずだ)という計算になる。

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残念ながら、学生たちは、(日曜日を除いて)月曜日から金曜日まで、毎日10時間も勉強しているようには見えない。というより、食事や睡眠の時間、多少のアルバイトや趣味のための時間を考えると、そもそも一日10時間というのは現実的ではないのかもしれない。だが実際には、この「基準」を前提に、さまざまなかたちで運用上の工夫や調整が行われているということだ。大学におけるカリキュラムを成り立たせているのは、学習の過程を時間数に換算し、進捗を数値で把握する仕組みである。単純なことながら、このように時間を基準にカリキュラムの構造が決まっているということは、さまざまな可能性を拓く。(卒業に必要な)「単位」が時間に換算できるという理屈があるために、たとえば2コマ続きで開講したり、15回の授業を数日間に凝縮する「集中講義」といった変則的な時間割を組むことが可能になっている。それは、カリキュラムと矛盾しない形でプログラムの多様性をもたらす「仕方」だ。

実現可能性は大切だが、カリキュラムのことを意識しすぎると、大胆な発想も冒険的な試みも生まれにくくなるだろう。ここは、バランスが難しいところだ。プログラムを考えるときには、できるだけ自由に想像力をはたらかせてみたい。とても魅力的なプログラムを思いついても、それが現行のカリキュラムのなかで実現できない場合には、カリキュラムの「外」へ向かうしかない。その際には、「正規」の時間割には載らないし、単位認定もおこなわれないことになる。

ぼく自身は、その方向性もとても大切だと考えている。そもそも「生活のある大学」というコンセプト自体は、カリキュラムの「外」をもふくめて考えてゆくためのものだ。カリキュラムの「外」で発想したほうが、はるかに面白い場合もある。

(つづく)

*1:この文章は、2017年7月23日(日)にMediumに掲載したものです。本文はそのまま(写真等は一部カット)。→  カリキュラムとプログラム - the first of a million leaps - Medium