まちに還すコミュニケーション

場のチカラ プロジェクト|Camp as a participartory mode of learning.

余白の理由(2)

キッチン

私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。どこのでも、どんなのでも、それが台所であれば食事をつくる場所であれば私はつらくない。

吉元ばななの『キッチン』は、出てすぐに読んだので、もう30年ほど前のことになる。たしかに、キッチンは大切な場所だと思う。つくるときのふるまいや、心のありようのなかに、食べること以上の価値を見出せるのかもしれない。「カレーキャラバン」の活動が7年も続いているのは、一緒につくることが楽しいだけでなく、もっと大事な〈何か〉を感じているからだろうか。友人とのやりとりのなかで、あらためて確認したのだが、調理をしながらのコミュニケーションはとても気楽だ。一緒に並んで調理台に向き合っているので、目と目を合わせずに話がすすむ。手を動かしながらだと、ごく自然に緊張も和らぐ。(料理を仕上げるという)目標をきちんと共有しているから、別々のことをしていても、ばらばらではない。ほどよい距離を感じながら、時間が流れる。

キッチンは、食べたり飲んだりする前後の時間を過ごす場所だ。つまりそれは、もっぱら準備や片づけのための場所である。ふだんはさほど意識しないが、キッチンでは、食卓を囲む時間を想像しながら、あるいはふり返りながら過ごすことが多い。実際に食べている時間とくらべると、キッチンで過ごすほうがはるかに長いとさえ思う。誰かと一緒なら、おしゃべりしながら野菜を刻んだり、皿を洗ったりする。一人で過ごすときでも、いろいろなことを考えつつ、じぶんと語る。

あたらしい年度になって、大掃除をした。いま職場でつかっているのは「共同研究室」ではあるものの、シャワーやキッチンが併設された「ハウス」として設計されている。もっと早くに片づけておけばよかったと、少しばかり後悔しながら、思い切って不要なモノを処分する。単純なことながら、モノを減らすと空間に余裕ができて、その分、気持ちにもゆとりが生まれてくる。

キッチン周りも整理して、調理台をつくることにした。これまでつかっていたデスクは、立って作業をしているとすぐに腰が痛くなった。DIYの簡単なものだが、少し高めのサイズにしただけで、料理をしようという気になるから不思議だ。無理のない姿勢でいられるので、おのずと長居するようになる。つくって間もないが、まずまず好評のようだ。せっかくなので、できるだけこの調理台をつかってもらいたい。それでこそ、こしらえた甲斐があるというものだ。キッチンに誰もいないと、ちょっと寂しい。

調理台は、いつも綺麗にしておきたい。清潔であることはもちろん、つかうたびに、きちんとモノを片づけておこう。というのも、またいつでも食事をつくることができるように、調理台は「空いている」ことが大事だからだ。広びろとした調理台に、ぼくたちは誘われる。モノが置かれていない「空いている」天板は、「(調理人たちを受け入れる)準備ができている」という合図だ。キッチンで、一緒に調理台を囲む。準備をしていると、少しずつ食材や調味料が置かれて、調理台は何もない「空いた」状態から変化してゆく。調理台の上が賑やかになっていくのと呼応するように、ぼくたちのコミュニケーションのリズムも刻まれる。他愛のない話も真面目な話も、レシピの一部になるかのようで、ぼくたちは、「間」を埋めることなど気にせずに語ることができる。いい時間がうまれる。キッチンは、それを絶妙に後押ししてくれる場所なのだ。調理台の前だと話しやすくなる、もうひとつの理由は、「空いている」ところからはじまるからなのかもしれない。

『キッチン』の細かな内容は忘れてしまったが、時間の流れを、つまり人とのかかわりを見つめる場所として描かれていた。あらためて、そのことに気づいた。(つづく)
 
◎この記事は、加藤研究室のウェブマガジン exploring the power of place 第31号(2019年5月号)に掲載されました。 キッチン - exploring the power of place - Medium